昨日の記事の続きです。
何故こんな〈仕掛け〉になっているのか、その秘密は作品の物語始まる前、療養する三週間の実況中継の前、さらに山の手線での交通事故の前、『范の犯罪』の〈語り〉の仕掛けにあります。『城の崎にて』の「自分」は蜂の死に対して、こう語っています。
自分はその静かさに親しみを感じた。自分は「犯の犯罪」といふ短編小説をその少し前に
書いた。
「その少し前」とは山手線での交通事故のこと、その前に『范の犯罪』を書き、そのことを次のように述べています。
范といふ支那人が過去の出来事だつた結婚前の妻と自分の友達だつた男との関係に対する 嫉妬から生理的方面の圧迫もそれを助長さしてその妻を殺す事を書いた。自分はそれに范 の気持を主にして書いた。然し自分は今は范の妻の気持ちを主にして殺されて今は墓の下 にゐる、その静かさ書きたいと思つた。「殺された范の妻」を描こうと思つた。それはと うとう書かなかったが自分にはそんな要求が起こてゐた。其前からかかつてゐた長編の主 人公の考へとはそれは大変異つて了つた気持ちだったので弱つた。
この〈読み〉の齎すことは先に述べましたね。『范の犯罪』は范の気持が主に書かれていますが、これは全て聴き手の裁判官に語られたこと、裁判官がどう受け取るかが根底で重要なのです。これがこれまで読み取られませんでした。聴き手の裁判官の世界観・生命観・人類観では、思うに、『范の犯罪』とは、個の絶対性が説かれている短編小説であり、これが殺した個の絶対性の尊重である限り、その范に殺された范の妻もまたその絶対性として尊重されるのであり、それがこれまで理解されてきませんでした。殺す事と殺されることが等価であるから、死に対して「静かさ」が生じ、「その静かさに親しみを感じ」、これが『范の犯罪』へとそのまま通底してくのです。『范の犯罪』のお話、その物語の底にはこの殺すものと殺されるものの究極があり、これはこのお話の底の底に沈んでいたのですが、これが見えなかった、だからもっとも優れた志賀直哉論の書き手の本多秋五ですら、脊椎カリエスにならずに済んだことが確か、助かったと最終結末の二行を「凱歌」と読むのです。あくまで、これを円環ではなく、時系列、ストーリーで読むのです。
何故これまで『城の崎にて』の決定的な読み違えが起こっていたか、それは一つには小説を物語内容の時系列で読むからです。これを語る〈語り〉が欠如していることと、いや、そう読んでも、〈第三項〉の理論、世界観認識が欠如して、伝統的な読み方、世界観、客観的現実が実在しているという世界観で捉えられていたからです。客観的現実は実在しません。世界は「底抜け」、主体によって捉えられた客体の現象が現れているのであり、人類に知覚できる領域を人類が捉えて生命を維持してきた、そこで世界とは何かを考えてきたからです。それは客体の対象そのもの=〈第三項〉を捉えているのではなかったのです。〈第三項〉は人類が言語で捉えている対象の外部であり、了解不能の永遠の沈黙の対象です。しかし、この永遠の沈黙する対象、言語の外部がなければ、我々の捉えている現象も捉えられません。
あの図、「地下二階」の世界観・不条理と共に、世界は主体に現れているのです。つまり、主観的現実は幻想だが、客観的現実が実体として本当にあると信じて疑わなかつた客体は人類が生きる為の客体であり、魚なり、蜂なり、微生物なり、そうした生物・生命体にはそうした現実はありません。
この客観的現実が人類の生きる為に作り出した捉え方でしかないことを大森荘蔵は「極めて動物的でありまた極めて文化的でもある分類」・「生活上の分類」として、「世界観の真偽の分類」と峻別しています。この世界観をもって、この『城の崎にて』に限らず、〈近代小説〉を読むと、これまでの作品が一変します。
ここで、また切っておきましょう。
明日は、この続き、です。
何故こんな〈仕掛け〉になっているのか、その秘密は作品の物語始まる前、療養する三週間の実況中継の前、さらに山の手線での交通事故の前、『范の犯罪』の〈語り〉の仕掛けにあります。『城の崎にて』の「自分」は蜂の死に対して、こう語っています。
自分はその静かさに親しみを感じた。自分は「犯の犯罪」といふ短編小説をその少し前に
書いた。
「その少し前」とは山手線での交通事故のこと、その前に『范の犯罪』を書き、そのことを次のように述べています。
范といふ支那人が過去の出来事だつた結婚前の妻と自分の友達だつた男との関係に対する 嫉妬から生理的方面の圧迫もそれを助長さしてその妻を殺す事を書いた。自分はそれに范 の気持を主にして書いた。然し自分は今は范の妻の気持ちを主にして殺されて今は墓の下 にゐる、その静かさ書きたいと思つた。「殺された范の妻」を描こうと思つた。それはと うとう書かなかったが自分にはそんな要求が起こてゐた。其前からかかつてゐた長編の主 人公の考へとはそれは大変異つて了つた気持ちだったので弱つた。
この〈読み〉の齎すことは先に述べましたね。『范の犯罪』は范の気持が主に書かれていますが、これは全て聴き手の裁判官に語られたこと、裁判官がどう受け取るかが根底で重要なのです。これがこれまで読み取られませんでした。聴き手の裁判官の世界観・生命観・人類観では、思うに、『范の犯罪』とは、個の絶対性が説かれている短編小説であり、これが殺した個の絶対性の尊重である限り、その范に殺された范の妻もまたその絶対性として尊重されるのであり、それがこれまで理解されてきませんでした。殺す事と殺されることが等価であるから、死に対して「静かさ」が生じ、「その静かさに親しみを感じ」、これが『范の犯罪』へとそのまま通底してくのです。『范の犯罪』のお話、その物語の底にはこの殺すものと殺されるものの究極があり、これはこのお話の底の底に沈んでいたのですが、これが見えなかった、だからもっとも優れた志賀直哉論の書き手の本多秋五ですら、脊椎カリエスにならずに済んだことが確か、助かったと最終結末の二行を「凱歌」と読むのです。あくまで、これを円環ではなく、時系列、ストーリーで読むのです。
何故これまで『城の崎にて』の決定的な読み違えが起こっていたか、それは一つには小説を物語内容の時系列で読むからです。これを語る〈語り〉が欠如していることと、いや、そう読んでも、〈第三項〉の理論、世界観認識が欠如して、伝統的な読み方、世界観、客観的現実が実在しているという世界観で捉えられていたからです。客観的現実は実在しません。世界は「底抜け」、主体によって捉えられた客体の現象が現れているのであり、人類に知覚できる領域を人類が捉えて生命を維持してきた、そこで世界とは何かを考えてきたからです。それは客体の対象そのもの=〈第三項〉を捉えているのではなかったのです。〈第三項〉は人類が言語で捉えている対象の外部であり、了解不能の永遠の沈黙の対象です。しかし、この永遠の沈黙する対象、言語の外部がなければ、我々の捉えている現象も捉えられません。
あの図、「地下二階」の世界観・不条理と共に、世界は主体に現れているのです。つまり、主観的現実は幻想だが、客観的現実が実体として本当にあると信じて疑わなかつた客体は人類が生きる為の客体であり、魚なり、蜂なり、微生物なり、そうした生物・生命体にはそうした現実はありません。
この客観的現実が人類の生きる為に作り出した捉え方でしかないことを大森荘蔵は「極めて動物的でありまた極めて文化的でもある分類」・「生活上の分類」として、「世界観の真偽の分類」と峻別しています。この世界観をもって、この『城の崎にて』に限らず、〈近代小説〉を読むと、これまでの作品が一変します。
ここで、また切っておきましょう。
明日は、この続き、です。