〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

長岡でのこと、続き(その1)

2018-10-09 10:13:34 | 日記
 では、続きを始めましょう。
 ここでは作品には入る前に読書行為とはいかなることかをおさらいしておきます。『日本文学』の八月号の拙稿でも反証可能な学問的立場から、日本国語教育学会の会長田近洵一先生と教育出版の編集の中心メンバーと聞いている丹藤博文さんの新刊書を名指しで批判しましたが、読みの革命を進めるためには、似て非なるものとの峻別がことさら要請されます。この行為は反証可能な学問上の問題、基本的には全文学研究/文学教育の現状に対してのわたくしの異議申し立てであり、お二人には敬意を以て代表とはさせていただきました。ここでなすことは、かいなでのことではないのです。

 〈近代小説〉を読むには客体の対象の文章、その文字の羅列を順を追って読み、現れて来る出来事を把握しようとします。その行為はそれぞれ読み手の主体によって客体の対象の文章を読むのですが、その主体のその時の一回性によって、その出来事は異なって現れて来ます。 例えば、文学作品の同じ物語内容が読み取れるとしても、そのそれぞれのコンテクストに応じて感じ方や意味づけはそれぞれその主体のその瞬間によって原則的に違っているのです。問題は読み手に捉えられた客体の対象の文章は客体の対象そのものに還元できないこと、すなわち、「読むこと」は究極のところ、アナーキーなこと、何故そうなのか、ここが問題の要です。しかも、これが文学の作品、優れた、傑出した芸術作品を読む際、それが問題になるのです。メッセージを受け取る当場合、問題にはなりません。例えば、「昨日は雨でした。晴ではありません。」という場合、その語られた出来事の事実を受け取るのは読み手はいくらでも「元の文章」に戻ることが出来ます。しかし、それが例えば、種田山頭火作の十七文字であれば、すなわち、それを俳句として読む場合、読み手の主体にその俳句の文字の意味はどこまでも広がっていきます。主体の一回性が問われます。

 文学という芸術の場合、「読むことを読む」、しかも、読書行為の一回性が問われるのです。田近先生は読書行為までは問題化されました。それだと「元の文章」、文章を「言語的資材」と解されますから、辿り着くことが出来ます。それでは大森荘蔵の「真実の百面相」で言う「極めて動物的であり極めて文化的でもある分類」、「生活上の分類」に留まります。文学作品の傑作を「読む」際、これとともに「世界観上の真偽の分類」が併せて必要なのです。
 
 眼前の文章の文字の羅列を読み取るには、文字のカタチ(シニフィアン)を眼・視覚あるいは指・触覚で捉え、それを脳内で概念・イミ(シニフィエ)を読み取る行為、持ってある形・カタチをなしていますが、「読むこと」は文字の語彙の一つひとつのカタチ(シニフィアン)と概念(シニフィエ)との分離によって生成され、その連続によってコンテクストをなし、ある一定の文意が読み取られるのであり、それは知覚したカタチに付着した文字の概念をはぎ取る行為の連続であり、客体の文字言語が丸ごと読書主体と客体の文章とを往復しているのではありません。語彙の概念と視覚映像との分離と再結合というメカニズムの機能によって現象している出来事を読んでいるのです。それは主体の瞬間に現れた出来事を読み手自身が読んでいる、すなわち、「読むこと」とは、客体の文章を読書行為が始まる瞬間、読み手それぞれの主体に現れた〈本文〉=パーソナルセンテンスを捉えているのであり、〈原文〉=オリジナルセンテンスを捉えているのではありません。しかし、この捉えられない〈原文〉=オリジナルセンテンスがあって、各自の〈本文〉=パーソナルセンテンスを各自が読んでいるのです。

 物語・小説を読むとは、ご案内の通り、物語の内容であるストーリー、時系列で起こった出来事の因果を読み取ろうとしますが、この時系列の出来事の因果を文学作品としてふさわしく構成してプロットをなしていて、このプロットを捉えようとしますが、プロットをプロットたらしめる内的必然性を読むこと、メタプロットを読むことが要請されます。

 先に述べてきたように、志賀直哉の傑作『城の崎にて』は末尾の二重の時間の仕掛けを読み取ることです。その最末尾の二重の仕掛けを押さえて、冒頭に返る必要があります。この作品は円環構造をなし、この円環のなかの〈語り手〉の「自分」の意識の垂直性、『日本文学』の八月号の拙稿のあの図Ⅰ、Ⅱのあの図の意識の垂直性を思い浮かべてください。この小説の形態は時系列になっているのではなく、循環の構造をしているのです。

 前回のブログで述べた様に、脊椎カリエスになるかもしれない時間とそれから解放された時間との相違、当人にとって人生最大の関心事の決定的相違がこの「自分」においてはそのまま、地続きになってフラット、変わらないことを前提にして、それを踏まえた上で、「自分」は今、事故から三年以上たった現在、これを語り始め、三年以上前の三週間の療養のことを実況中継しています。この基本形が捉えられないと『城の崎にて』はこれまでの旧来の読み方に還元されます。
 何故こんな〈仕掛け〉になっているのか、続きは明日。
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