〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

望月さんにお答えします

2018-09-25 12:54:50 | 日記
甲州グループの望月さんより下記のような質問がコメント欄に寄せられました。
皆さんにもシェアしたいので、改めてここに取り上げます。

田中実先生
 お礼が遅くなって申し訳ありません。韮崎での講演会、本当にありがとうございました。
また、ブログの中でもお答えくださり、ありがとうございます。
部分、部分の解釈を作品全体との有機的な関連の中で考えていきたいと思います。私の昨年度の『故郷』の授業では、そこが足りなかったと思います。今回のご講義で「私」がどんなにルントウを思っているか、ルントウへの愛に生きてきた三十年であることが、最初から最後までずっと語られていることに深く思い至りました。「私」が何者であるかが語られているということだと思いました。それが「語り、語られる関係」を読むことだと考えました。さらに、〈語り手を超えるもの〉〈機能としての語り手〉を読者が想定することによって「私」とルントウとが根底で響き合っていることが見えることに、心撃たれました。
冒頭において、「私」は、眼前の景色を前に故郷についてあれこれ悩みます。なぜそのように「私」が登場するのか。「私の覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった」「やはりこんなふうだったかもしれない」「自分に言い聞かせた 」「自分の心境が変わっただけだ」という逡巡が何を意味するのかを考えることから「私」という人物が、故郷のことを考え続け、相対主義的な考えの中で社会革命に命を捧げ闘っていることが、「魂をすり減らす生活」と関わって伝わってきます。「私」がどんなに故郷を、故郷の人々を思って生きてきたかが最初から、激しく語られていることを受け止めたいと考えました。
そして、母のことばから電光のようにルントウが浮かび、繰り広げられるルントウとの出会いが思い出される「私」、そういう「私」とはどのような人物であるかを考えることが重要だと思います。その後ヤンと再会し、ルントウと再会し、離郷します。そうした構成そのものからも「私」という人間、その生き方が語られていると考えて、読み深めていきたいと思います。できごとを読むのではなく、どのように語られているかを部分、部分を読んでいきながら、作品全体を有機的に考えていくと、作品全体がルントウへの愛、故郷への愛に貫かれ、あふれていると思います。だからこそ、末尾に希望の論理が語られる。それが、「主体に応じて客体が表れる」と先生がご講義の中で繰り返しお話くださったこととも重なり、「私」が相対主義の極北を生きているという読みを生むのだと思います。
また、今回、「世界観上の真偽の分類」と「生活上の分類」についても少し理解が進んだと思います。私たちが日常の生活を一応送っていられるのは「生活上の分類」があるからだと思いますが、これだけでは、人間は生きていけないのだと思います。いくら考えても絶対に届くことはできない「世界観上の真偽の分類」〈第三項〉に向かって、苦悩することが生きるということだと思います。『故郷』において「鉄の部屋」についてもっと考えることが、私にとっては、次の授業に生かす道だと思いますので勉強します。ありがとうございました。



以下は私の対応です。

望月さん、
 書いてくださったコメントの内容、ほぼ私は満足しています。お礼を申し上げたい思いです。
 それに今月29日、丸山義昭さんの主催する長岡での講演会に御参加とのこと、驚きました。韮崎からは遠いです。
 長岡では、学会・批評界の通説を真っ向うから斥けた、志賀直哉の『城の崎にて』の〈読み方〉に関して申し上げます。そこでは志賀の一見、話らしい話もない療養の話が、実は、これが文字通り何故〈近代小説〉の神髄を抉っているのか、その秘密は魯迅の傑作、『故郷』の基底とも通底しています。そこを聴き取って頂ければ、有難く思います。
 望月さんの今回のコメントは、閏土と「私」の三十年の関わりの深さ、両者の響き合いがあるがゆえに、「私」の魂がすり減るのであり、これがこの物語の柱の一つですが、何しろ、魯迅研究の専門家の専門家、第一人者の藤井省三さんは逆に「私」は閏土のことを忘れていた、だから十年の数字の間違いも起こったと読まれていますから、私見では物語の基本的な筋も読まれていない、これを読み取ってくださり、感謝の思いが起こります。
 望月さんがお読みの通り、閏土の登場の仕方が問題です。
 銀の首飾りをした小英雄、不思議な画面を背景にするのは、実は、その裏に現在の彼がデクノボーであることを隠していることを〈機能としての語り手〉が十全に承知しています。
 「私」にとっての閏土は当初小英雄像とデクノボーとの両義であることを抱えるがゆえに、末尾、閏土の姿が消え、人間性として未熟な「私」が稀有の認識者足りえた秘密が隠されています。生身の「私」には見えず、「私」のことを「私」と語るこの〈機能として語り手〉を読まなければ、小説のドラマは全く現れません。「私」のまなざしを読めば、これは単に矛盾した収拾のつかない、宇佐美寛さんに批判されても仕方のない作品なのです。
 「私」が抱える識閾下と共に生身の「私」を捉えるのです。「私」には見えない「私」の領域を読む必要があるのです。
 読み方は根本的に、原理上変わる必要があります。
 小説は出来事を読むだけでなく、どのように読むかがまさしく問われ、〈語り―語られる〉相関関係のその構造をとらえるに留まりません。それぞれの作中人物のまなざしを相対化する必要があります。そこには語ることの虚偽をいかに孕むかが隠されています。物語論(ナラトロジー)では小説は読めない、それが〈第三項〉に関わることです。しかし、その峻別は至難を極め、知的了解の群れの予備軍が我が物顔で〈第三項〉を語り出すでしょう。
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張さん、続きです。

2018-09-24 07:44:36 | 日記
遅くなりましたが、9月5日にアップした記事の続きを申し上げます。

 前回のご質問は五点でした。前回は直接答えるかたちをとりませんでしたので、ここでは簡潔に五点要約してお応えします。
⑴、条理と不条理の相違、不条理はパラレルワールドになるのか、の問題、

 〈近代小説〉において、しばしば不条理はパラレルワールドの形を取ります。というより、条理のノーマルな世界が書かれていれば、物語の展開上、その条里の世界は後方に隠れる形になっていても、それ自体は続き、他方で、不条理の世界が書かれると、それが同時存在のパラレルワールドを起こすというわけです。

⑵、近代小説=「物語+語り手の自己表出」の定義での、語り手は生身の語り手かどうか。

 生身の語り手ではありません。物語の語り手のメタレベルにあるため、その際の生身の語り手に対して、〈機能としての語り手〉として働いています。

⑶、近代小説を読むには〈第三項〉論が必要か。

 近代小説は物語論(ナラトロジー)では捉えられないと考えています。二元論では読めない、〈第三項〉の多元論を必要とすると思っています。何故なら〈近代小説〉は知覚できる対象の科学、あるいはリアリズムの領域をも物語とし、これを超えようとしているからです。

⑷、〈近代小説〉はどうして他者論を必要とするか。
これは⑶でおこたえしている。

⑸、ガブリエルの言う「意味の場」とはいかなることか。

「意味の場」とはそれぞれが要求している情況のこと、存在しているかどうかとは、それぞれの状況が決定しているのであって、認識しているかどうかではありません。

 以上、何かお役に立つでしようか。

以下は単なる蛇足、私のモノローグです。

 先ず他者問題、

 他者は人によってその定義は異なります。
 仰る通り、生きていくにはどの時代にも相手との関係が問題になります。
 が、近代が特に他者をことさら問題にするのは近代が民主主義を社会基盤にするためです。
 近代社会では、構成員一人一人の内面に自己とか自我と呼ばれる内面性が要請されることになり、そのなると、自己に対応する他者が問題になります。他者との関係で、自己が自己として現れるからです。
 『心』で言えば、主人公の「先生」は「明治の精神」を「自由と独立と己れ」と呼びます。すると、これに対応して、他者が単に相手とか他人とか呼ぶレベルでなく切迫して要請されます。これを巡って悲劇が起こります。内面・心の問題です。

 新しい実在論 
 リアリズムで捉えられるものは世界ではないのではなく、リアリズムで捉えられるものもまたもちろん、世界の一部です。捉えられるものも捉えられないのも世界の一部です。しかし、常にそれは一部、その総体であるはず世界、全体は皆目捉えられないことと共に存在しない、捉えているものを超えているとマルクス・ガブリエルは言ってます。これに私も賛同します。世界という対象は常に主体の認識対象を超えて、対象化出来ない対象、その為認識の対象ではなく、存在の対象、世界はこの世には存在しない、存在するのはその〈影〉であると田中は考えます。今のところ。ガブリエルが指す世界とは客体そのもの=〈第三項〉のようです。
 

次に大森荘蔵の言う「世界観上の真偽の分類」の問題

 例えば、眼前に目に見えているものが「蛇」であったが、よくみると「縄」だったとして、我々の通常の認識では、「縄」が客観的真実ということになるが、大森はそうではなく、その人のその時には「蛇」も真実、真実は「百面相」だというものでした。我々は先験的(アプリオリ)に客体の対象と共に、あるいはその中にあります。
その中で、自身の主体のまなざしが客体の対象を意味づけています。特に冷戦構造の時代まで、世の中は客観的現実・客観的事実が如何なるものか、その科学的根拠を問題にしてきましたが、ポストモダンの時代になり、ポスト構造主義になると、その客観的事実・現実それ自体が実体として存在しないことに気づきましたが、日本ではそこがあいまい化され、似非相対主義が蔓延、実体主義が生き残って、異性を占めています。
 それは「生活上の分類」によって、人類発生以来の造り出された世界観は生き残ってしまいました。
 大森は斥け、客体の対象の世界は主体に応じて現れるというものでありますが、同時に「生活上の分類」もまた、捨ててはいません。我々の生の場はその「生活上の分類」にあることを熟知しています。ここから何が起こるか、八月号の拙稿はこのことを書きました。


 『舞姫』の場合、一人称の〈語り手〉である太田豊太郎の独白と手記に「世界観上の真偽分類」に当たるものが 何故ないかと言えば、「地下一階」の無意識の自己を相対化できていないからです。
手記書き手は既存の主体は瓦解し、身体の自身をメタレベルで、とらえることはできませんが、識閾下には及ばず、手記全体を相対化することが出来ない、これを構造化するのが〈機能としての語り手〉です。

 この〈機能としての語り手〉は「余」の封じた識閾下と識閾との相関を極めて精密に叙述しています。すなわち、生身の語り手の「余」のパースペクティブもエリスも天方のそれも見えています。
 八月号の拙稿の図Ⅱの「地下二階」の〈語り手〉の領域にいるからこそ、生身の語り手である「余」の全生の領域、地上から「地下一階」の全生の領域が如何なるものかを語りえているのです。

 
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続けて周さんにお答えします。

2018-09-17 14:55:47 | 日記
昨日の会にご出席の先生方へ、周さんにお答えする形で、

 「私」は閏土に出会って以来、筋向いの評判の美女楊おばさんをも全く眼中にしない生き方をするようになった、関心興味は銀の首飾りの小英雄に絞られる生き方をしていたのです。
 ここで言っておきます。〈近代小説〉は物語の内容、ストーリーである語られた出来事を読むだけでは捉えられません。視点人物のまなざしの外部である対象人物のまなざし、パースペクティブを捉えるのです。何故、楊おばさんがあれ程怒っているのか、彼女の人格自体がただ、やけになっているから言いがかりを付けているのではありません。会った直後、彼女は「私」のことを懐かしがっています。これが踏みにじられたのです。「私」は完全にかつての美女のことを憶えていませんから。「空白の十年」とは閏土の出会いから故郷を離れるまでの間、「私」の十代は筋向いの評判の美女のことが眼中にない十代、これを仮に「空白の十年」と呼びました。城壁の外部である海辺の農民の子供、小英雄閏土とは、実は父親そっくりと化す宿命の小英雄でしかなかったのです。「私」の内面が瓦解せざるを得ないのはここに要因があります。
 こうした読み方は視点人物のまなざしの枠組みを読むだけでは絶対に捉えられません。
方法論として、最低〈語り―語られる〉相関を捉え、その相関のメタレベルに立つ必要があります。「物語論」=ナラトロジーは最低必要です。一人称小説ですと、〈語り手〉は語られた物語空間に内包されています。物語に実体として登場する生身の語り手として登場しています。だから、これを相対化する〈機能としての語り手〉の位相を必要とするのです。これが欠如すると、視点人物のまなざしの物語りになり、ドラマ・劇が消えます。ここには視点人物と対象人物の間に見えない、すれ違いの劇が隠されているのです。これが残念ながら、現在、国語教育界や中国でも、読まれていません。今回、指導書をざっとですが見て、悲憤慷慨せざるを・・・いや、もっと正直に言うと、予想通りでした。

 周さんの「認識ののレベルではなく、存在のレベルで語り出した」という指摘は不適当、手に入れたばかりのマルクス・ガブリエルの「新しい実在論」を、ここに張り付ける言い方になっています。
 この小説が「奇跡の名作」たる所以は望月さんのご質問でお応えしています。周さんの「三」の質問はその通りです。パラレルワールド・「不思議な画面」を背景にした閏土は謂わばもう一つのデクノボーである閏土の矛盾の結晶、これが消えることが相対主義の最後の底を浚う秘密の鍵です。
 望月さんに言ったことを繰り返します。鉄の部屋の鍵は内側にあり、外からしか開きません。
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ご質問にお答えします。

2018-09-17 11:08:13 | 日記
 お待たせしました。
 昨日の韮崎でのお話が終わり、今日、ご質問にお答えします。
望月さんの御質問、
 ある部分の解釈は全体との有機的な関連のcontextに寄りますから、部分の解釈だけを独立して競い合うのはナンセンスと私は考えています。作中の〈ことばの仕組み〉はいかなるグランドセオリーを持っているかによって、拘束されます。従って、以下の個々のご質問は全て相互に関って、力学の中にあります。
 1、「私」が何者か、冒頭、「私」は己の心境に応じて対象が現れることを受け入れています。捉えられる客体の対象の出来事は主体のフィルターに応じて現れる、この当たり前のことが当人はよく分かっています。眼前の対象世界の出来事は相対的に現れることを承知しています。
 紺碧の色は原文では深藍色、これをどう解釈するか、問われるところですね。ルネ・マグリットの絵の如く、昼にして夜という「不思議な場面」と解釈すると、相対主義は透徹した「底抜け」となって、文字通り「不思議な画面」が現れることを可能にします。
 夜の「金色の丸い月」だと特別「不思議」ではありませんよね。作品はより優れた作品と読まれ、位置付けられることを求めています。「私」を透徹した相対主義者ともし考えてよければ、末尾の恐ろしいほどの認識のうねりが現れます。 
 2、「私」のイメージに閏土が消えるのは、「美しい故郷」を喪失し、相対主義の「底抜け」が徹した姿を示していると私は考えています。
 3、私達は私達の「鉄の部屋」を想定すると、この話はおとぎ話ではなく、際立った、恐ろしい奇跡の名作に転換する可能性の一つを手に入れると思います。
はい、自身の世界観認識を問うことが必須と考えています。
4、「私」は己の「偶像崇拝」という観念を根こそぎはぎ取ります。とすると、もう相対主義という拠点、「心境」も失い、自己倒壊の極点に立つ。謂わば、それは希望は絶望に相等しい思考自体に留まることが出来なくなっています。自身の生のよりどころ、拠点を完璧に喪失したと考えましょう。謂わば、「底抜け」の完成と考えると、もはや、それまでの「私」の世界観認識のレベルをさらに抉り、残滓すら抉る、それを「極北」と読んでみました。カギは「私」の中にあり、扉は外から開きます。歩く人が多いかどうか。
5、「沈黙」を十全に受け入れるためには、そこに辿り着くには多大な言語、もしくは饒舌を要します。「沈黙」はその果てです。
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『故郷』についての質問

2018-09-12 21:52:27 | 日記
9月16日(日)2時から1時間半、韮崎で魯迅の『故郷』についてお話します。
その際、以下の二つの質問にお答えします。

まず、甲州グループ、望月さんからの質問。

4点お願いします。

1.パラレルワールドについて
「私」の脳裏に突然「紺碧の空に金色の月」という不思議な画面が繰り広げられますが、先生のご指摘で初めて昼と夜の不思議な画面であることに気づきました。それまでは夜だと思っていました。そのような画面が見えるということが、「私」が何者かということを語っていると理解しました。「私」が際立った相対主義者であることが、冒頭の部分だけではなく、このように想起するということからもわかると考えてよいのでしょうか?
 パラレルワールドということを2018年8月号の図2から考えると、人それぞれが異なった「自分の捉えた客体の世界」の中で生きていて、〈第三項〉、言語以前、了解不能、地下2階、世界観上の真偽の分類に届くことはできないと考えますが、この考えと『故郷』の「私」とのつながりがわかりません。図2のように〈語り手を超えるもの〉は考えて語っていて、生身の「私」には見えない世界ということなのでしょうか?

2.ルントウの消えた意味について
 最後の場面で、ルントウが見せ消ちになっていることの意味について教えてください。ルントウとの出会いによって生き方を決定づけられた「私」は、徹底的な相対主義者となって登場し、三十年ぶりにルントウと再会し、英雄としてずっと心に描いてきた姿と目の前の姿との落差に驚き、さらにこそ泥になってしまったことに衝撃を受け、ルントウの偶像崇拝を笑い、自身の希望も手製の偶像であったと厳しく徹底的に自己を責めます。そのような「私」であるから、最後の不思議な場面に「ルントウがいるけれど、見えない」「ルントウは見えないけれど、いる」というような見せ消ちとして示すということなのでしょうか?
 
3.「鉄の部屋」の〈聴き手〉
 「日本文学」2013年2月号の「奇跡の名作」のご論文の中40ページから41ページにかけて次のようにあります。

〈語り手〉とは〈聴き手〉があって初めて機能する働きであり、『故郷』の〈語り〉は何より、「鉄の部屋」に閉じられ、〈聴き手〉という装置をこれまでニュートラルにしてきたところに『故郷』を読む陥穽、躓きがあったのです。
 
 ここは、私たち読者が「鉄の部屋」にいることに無自覚であること、自分自身の認識を問うことが重要であるという意味なのでしょうか?

4.希望の論理について
「相対主義の観念の残滓を浚う」「認識者の極北」「地上の一切の観念の残滓を全て葬り去る」「「世界観上の真偽の分類」が開けてくれます。」という「私」を考えることが非常に難しいです。
※ここについては16日までにもっと考えます。
5 池田晶子さんの「言葉の力」の相対化について
 「日本文学」2018年8月号の「〈近代小説〉の神髄」のご論文の中、5ページに次のようにあります。

言語と言えど「語りえぬものは沈黙しなければならない」という命題を一種の逆説と化すことです。

言語の起源がわからない以上「はじめに言葉ありき」とするしかないという考え方は、言語を絶対化することになる。「語りえぬ」から「沈黙」するのではなく、「語る」「語らない」の以前、言語以前に立って「沈黙」を考えなければならないということでしょうか。


次に甲州グループ、周さんからの質問。

田中先生の「故郷」論について
一、 従来の「故郷」論との主な相違点
① 「紺碧の空に金色の月」に関する解釈
田中先生は、「紺碧の空に金色の月」とは、昼にして夜であるパラレルワールドを描いていると論じられました。他の論では全部、この場面を単純に夜の場面だと理解しています。
② 「三十年二十年問題」に関する解釈
三十年ぶりに再会した閏土は五番目の子ども水生を連れてきています。原文では、「これぞまさしく二十年前の閏土であった」と書いてあるが、竹内訳では、「これぞまさしく三十年前の閏土であった」と改訳してあります。
「私」の年齢を考えと、確かに「三十年前」であるはずですが、田中先生のご論では、「私」が十年も数え違えることから、「私」の人生の特異性が見られると論じられました。
「私」が閏土と出会ってからの十年は、城壁の外の「悲惨な現実に目覚めていくプロセスを生き、自身の内面、観念の内奥に沈み込まざるを得ない」、外界に対しては「空白の十年」を生きたからと論じられました。
二、田中先生の「故郷」論と他の「故郷」論の根本的な違いは、絶対に壊れない「鉄の部屋」を壊す原理(あるいは「希望」の論理)に対する認識の違い、更にその認識を支える世界観認識の違いだと理解します。
田中先生のご論では、「難攻不落の『鉄の部屋』も言語で構築されたまぼろし、この世のありとあらゆるものは『極めて動物的でありまた極めて文化的でもある分類』によってそう知覚されるのです」と書いてあり、「鉄の部屋」を壊すには、鉄の部屋を生きる自分自身を倒壊、瓦解するしかいないのです。
 「紺碧の空に金色の月」のパラレルワールドの情景は、「語り手」が相対主義の極致にいることを物語り、「空白の十年」も「語り手」の壊れている内面を物語っていると思います。(このように理解してよろしいでしょうか。)
 しかし、ここまでだと、やはり、「語り手」の「不条理」に認識の中に留まるのであり、作品としては、「条理」の話になると思います。
 だからこそ、田中先生のご論で論じられたように、「故郷」には〈語り手を超えるもの〉が必要であり、「語り手」を更に相対化して、「不条理」を認識のレベルではなく、存在のレベルで語りだしたと思います。
 このことは、中田先生が「日本文学」2018年8月号に書かれたご論に中に書いた、「近代小説の真髄は不条理」という論述と合わせて読むと、一層理解しやくなると思います。
三 質問ですが、最後「紺碧の空に金色の月」の場面で閏土は消えますが、それは、「語り手」が自分の心の故郷である閏土を消すことによって、「観念の最後の一片まで廃棄」することを意味すると理解してよろしいでしょうか。



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