〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

中村龍一さんへの応答(その2)

2018-10-19 14:29:17 | 日記
 昨日に続いて、中村龍一さんに応答をします。

 中村さんはやはり私の盟友馬場重行さんの論文を引用し、次のように評しています。


2 馬場重行「文学と教育の結節点 ―川端康成「夏と冬」を読む ― 」
  一
① まず、「田中理論」がいかに根源的であり、かいなでの受け止めを最も厳しく峻拒するかという点である。「主体を生かすにはその主体自体を瓦解させること、〈自己倒壊〉を生きることである。芸術の極意はここにあり、言わば「末期の眼」を獲得することであると」と氏は言うが(3)、ここに叩きつけられた激しいことばを真摯に受け止めるには相当の覚悟が必要である。・・・・・ 実に怖ろしい尋常ならざる世界認識の形である。だが、常識からすると甚だ危うい世界観がなくては、真に「主体を生かす」ことはできないと氏は指摘する。これは、長きに亘る氏の理念であって既に血肉化している。

 同じ問題を馬場重行はこう受け止めている。馬場は「田中の境地」に到らない者は、「田中理論」で自分を生かすことはできない、「覚悟の境地」にある者だけが見ることのできる読みの世界だと述べている。
 しかし、「田中理論」は「いのちの文学」である。そこでは、「この世を生きる弱者のいのち」が問われているのではなかったか。田中実は「覚悟」、「悟り」といった絶対境地で作品と向き合っているのではなかろう。田中実自ら永遠の「自己倒壊」を行為している姿が、私にとって第三項論の読書行為そのものであり、それが私の田中実への根元的信頼である。誤解を怖れず言えば、「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだと、私は考えるようになっている。己の自己弁護(語ることの虚偽)を抱え込み田中実は〈原文〉という起源へ壊れ続けていく。しかし、田中を起源へ向かわせているエネルギーは馬場の言う「覚悟」ではないだろう。



 ここで、馬場さんが「「田中理論」がいかに根源的」か、これを受け止めるには「相当の覚悟が必要」と述べられていることに対して、中村さんは「田中実は「覚悟」、「悟り」といった絶対境地で作品と向き合っているのではなかろう。」、「「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだ」と両者は対立、中村さんは馬場さんに反論されています。
 
 そこで、まず馬場さんが言おうとしていることを見てみましょう。
 馬場さんは、「〈自己倒壊〉を生きる」とか「「末期の眼」を獲得する」などということが容易ならざること、それは言うまでもない当然のことであり、馬場さんが言いたいことの深層は、思うに、おそらく認識行為が自己許容や自己弁護という陥穽をもたらす、それが我々人間の性(さが)であり、これが我々の前に立ちふさがっている、これを強く意識・警戒され、これに対抗しようとされ、これを克服することで芥川が求め、川端の言う「芸術の極意」に触れたい、この欲求を馬場さんの叙述からわたくしは感じます。
 従って、もちろん、私田中実が「悟り」の境地に至っていることを馬場さんが言いたいのでのはない、馬場さんご自身の内なる世界に隠れているこれに向かう際の恐れが言いたいのであり、「覚悟」を言えば、中村さんの仰る通り」、私田中は「悟り」どころか、「覚悟」さえ正直、持っていないのです。もちろん、馬場さんも田中が悟っているなど思ったりされていないと思います。だから馬場さんは「悟り」という中村さんが言う言葉を田中に向けて使っていませんよね。
 中村さんの言う、「「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだ」という指摘は、確かに田中の急所を衝いているとわたくし自身も思います。常日頃、そうしたことは皆さんに申し上げています。しかし、その「弱さ」を指摘するのでは〈第三項〉の世界観は現れません。問題の要はその「弱さ」の意識、自覚の甚だしさ、これが〈第三項〉の扉の可能性へと通じていると私自身は考えています。
 言い換えると、立っている基盤の底は抜ける、だから脅える、恐れる、そう捉えた時です、その認識装置として〈第三項〉の時空が誕生した、とわたくし自身は了解してます。
 自分に捉えられるものとは地獄の底まで客体の対象そのものではない、この一種の強迫観念が世界観認識の基盤なのです。
 ええぇ、と言われるかもしれませんが、これが前回の『羅生門』の〈読み〉の問題、作品末尾の改稿の所以、その〈語り〉の捉えとは相似形をなしているのです。認識はそれ自体が闇だというパラドックスの問題です。

 〈近代小説〉の〈読み〉のあるべき場とは読み手の「弱さ」と言えば「弱さ」、それも徹頭徹尾の「弱さ」が要杞憂されます。思考の制度の瓦解、〈自己倒壊〉を引き受けること、一言で言えば、そう、あれこれ言う主体、その主体を主体自体が殺すこと、アクロバットが必要なのです。
 捉えている自身の対象領域を自身が剥ぎ取ることがわたくしの基本の構図です。

 「底抜け」板に坐って〈近代小説〉を読んでいる・・・、田中は人が世界を知覚する自然主義リアリズムを人類誕生以後の物語、方便として括弧に括ます。わたくしは近代文学研究の学問界、学会が近代の物語文学を〈近代小説〉と捉えていることを認めていません。それを〈読み〉の前提としています。馬場さんが田中の「覚悟」を言いたいとすれば、そうした知覚作用である自然主義リアリズムを斥ける田中の「底抜け」を馬場さんと共有しているからでしょう。