〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

講演のお知らせ

2019-03-26 14:37:07 | 日記
またまた久しぶりの更新となってしまい、申し訳ありません。

今月は中国の杭州師範大学で講座、山東大学で二つの講演を担当し、学生さんや先生方と交流を深めることができ、有意義な8日間でした。


今月末、3月30日(土)には、山梨県立文学館で講演を予定しています。
時間は13:30~16:30、題目は「『走れメロス』を読み返す ―〈語り手〉は何を目指したか―」です。
『走れメロス』については既に、拙著『小説の力』所収の論があり、そこでは〈語り手〉が「迂闊な〈語り手〉」であると論じました。その後、『都留文科大学研究紀要第81集』掲載の「「物語」の重さ、「心」のために ―安房直子『きつねの窓』・太宰治『走れメロス』を例にして―」でも、その問題を継承しました。しかし、今回、改めて読み直し、大きく読み替えました。当日はそれについてお話します。

参加費無料ですので、お近くの方は是非足をお運び下さい。
当日来られない方向けに、録画も撮る予定です。


安房直子の「きつねの窓」について、周非さんから以下の質問がコメント欄に寄せられました。

田中先生、安房直子『きつねの窓』について質問させていただきたいと思います。先生のご論「「物語」の重さ、「心」のために ー安房直子『きつねの窓』・太宰治『走れメロス』を例にしてー」(都留文科大学研究紀要 第81集 2015年3月)の中で、『きつねの窓』という作品につては、「凡庸」だと評され、「子ぎつねが「ぼく」の鉄砲をもらうかわりに「なめこ」をあげた意味の大きさが物語の一つの山場と思いますが、これを「ぼく」のみならず、〈語り手〉が放置して何を語りたいのか、〈語り手〉はみごとなほど、他者性を欠落させ、それに気づかずに、感傷に溺れて語っている」と書かれています。この部分についてですが、「きつねの窓」には、子ぎつねが「ぼく」の鉄砲をもらうかわりに「なめこ」をあげた意味は、「ぼく」には分かっていないが、読者には分かっていると思います。ならば、この作品において、〈機能としての語り手〉が「ぼく」を相対化して語っている、つまり「ぼく」の無反省を批判するために、このように「ぼく」の無反省を仕組んだと理解できませんか。ここはよく分かりません。教えていただければと思います。よろしくお願いいたします。

これについては、上記の講演の中でお答えするつもりです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする