中村さんから寄せられた「小説と物語」に関するお返事、遅くなりました。
まだ昨日、『故郷』論の初校正を印刷所に投函し、ぼんやりしています。
田中にとって、校正は論の細部の修正に止まらない、
自身の内面の瓦解・倒壊の危うい行為でもあります。
世界観認識の転換に関する原理論に関わって、用語一つの言い方で、
論文の内容は大逆転の可能性があり、
修正に次ぐ修正を要することがあるからです。
信頼する友人に拙稿をよく読み込んで頂いて、そのうえで、
自分はこう読んでいると説明されると、ほぼ面くらうほど、私の方は困惑することがあります。
確かにその方は拙稿を深く読み込まれ、ご自分でもよくお考えです。
しかし、だからこそそこに、私の思考との大きな相違、距離が現れることがあるので、
互いが面食らい、関係を損なうことがあります。
それは私と友人の間に起こるだけではありません。
私自身に対しても起こることです。
私のキーワードは瓦解・倒壊です。
今回、校正していると、自分自身で一字一語で、
世界観の評価が大きく動くと感じる瞬間がありました。
今回は特にリアリズムの問題でした。
以前からリアリズムに対する批判を原理的に書き込んで、ポストモダン批判をしていますが、
それはリアリズムを極めて重大だと信じているから、これを批判しているのであり、
リアリズムそれ自体を否定しているのでは全くありません。
分かりやすいはずの安房直子の童話『きつねの窓』の場合も、それが起こります。
その中で、今回の中村さんのコメントは極めて、ありがたいものでした。
今から、二十年前の教育出版のシリーズ『文学の力×教材の力』の中学三年生、
『故郷』を論じた際、「所感交感」のコーナーで、
田近先生より田中に対し、〈語り手〉を問うだけでなく、
その〈語り手〉をさらに問う〈語り手を超えるもの〉を設定することで何が読めるのか、
という率直な質問を頂きました。
それから二年半後に「〈語り〉の領域」という拙稿を「月刊国語教育研究」に書いた所以ですが、
私は作品論を書く場合、〈語り〉の問題には常に何らかの形で、触れているはずです。
一人称の場合、「私・僕」は作中人物ですから、
「私」を「私」と語る〈語り手〉が後ろに隠れています。
この〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉が
作品を構造化しています。
『きつねの窓』なら、これは一人称小説ですから、「ぼく」が〈語り手〉です。
そこで、「ぼく」を「ぼく」と語るのが〈機能としての語り手〉であり、
この〈機能としての語り手〉をこの作品から読むみ込むと、
視点人物にして〈語り手〉の「ぼく」がどんな人物か、
「ぼく」が語っていることとはいかなることかを批評する立場に立つことが出来ます。
『きつねの窓」を読むのならば、「ぼく」という〈語り手〉のまなざしを相対化して読む、
これが基本の基本です。
「ぼく」のまなざし、遠近法・パースペクティブを捉えるためには、
〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉は必須です。
そうでなければ、視点人物の見ている枠組みの中だけ、
〈語り手〉の「ぼく」の語ったお話の出来事、ストーリーの表層しか捉えられません。
この読み方を田中は「主人公主義」と呼んでいます。
中村さんが紹介して下さっているように、田近先生は、次のように言われています。
「私は、語り手をして、きつねの窓の物語の中に、母親を殺された子ぎつねを語らせている
ところに「虚構の作者」を読まなければならないと思っているのです。」
「母親を殺された子ぎつね」のことを生身の〈語り手〉の「ぼく」は確かに語っています。
しかし、この〈語り手を超えるもの〉、〈機能としての語り手〉は、
「ぼく」が子ぎつねの母を殺された痛みに全く関心を寄せていません。
自身の家族恋人を失った痛みだけで。罪意識はかけらもありません。
『きつねの窓』は一人称の物語、「ぼく」が語り手です。
「ぼく」は子ぎつねの母親を鉄砲で殺しています。
ところが、その子ぎつねから、魔法の「きつねの窓」を受け取り、
戦争で殺された自分の家族や恋人を見ることが出来、如何に感動しているかが語られています。
しかし、これをプレゼントした子ぎつねの思いには、「ぼく」の心は何も働かないのです。
自分がその子ぎつねの母を殺したのに。
「ぼく」という人物は「ぼく」の家族らの愛には執着しても、
この子きつねに対しては何の意識も働かない、
自分の方は「きつねの窓」をプレゼントしてもらうだけでなく、
鉄砲を譲る代わりになめこまでもらっています。
母きつねに対しては「ぼく」はそのきつねの肉を食べたのだと思われますが。
こうしたことが、中村さんが取り上げて下さっているように、
わたくしが「ぼく」をユダヤ人虐殺のアドルフ・アイヒマンに喩えた所以です。
私は安房直子の『きつねの窓』が国語教育の安定教材として長く掲載され、
これが評価されてきた戦後国語教育における罪意識の問題、
あるいは他者の問題をここに感じます。
これをもちろん、田近先生おひとりの問題などとは全く考えていません。
少なくとも、日本の国語教育における文学教材の読み方は、
原理的に問わなければならない、こう考えています。
『きつねの窓』はそのあと大学の紀要にも、今回、中村さんが注目して下さった、
②の児童言語研究会の雑誌にも『きつねの窓』論を取り上げました。
それから三年半後、中村さんに注目して頂いたこと、とてもありがたかったです。
尊敬する田近先生とは、この問題について、心を拓き、
言葉を尽くしたいと願っています。
まだ昨日、『故郷』論の初校正を印刷所に投函し、ぼんやりしています。
田中にとって、校正は論の細部の修正に止まらない、
自身の内面の瓦解・倒壊の危うい行為でもあります。
世界観認識の転換に関する原理論に関わって、用語一つの言い方で、
論文の内容は大逆転の可能性があり、
修正に次ぐ修正を要することがあるからです。
信頼する友人に拙稿をよく読み込んで頂いて、そのうえで、
自分はこう読んでいると説明されると、ほぼ面くらうほど、私の方は困惑することがあります。
確かにその方は拙稿を深く読み込まれ、ご自分でもよくお考えです。
しかし、だからこそそこに、私の思考との大きな相違、距離が現れることがあるので、
互いが面食らい、関係を損なうことがあります。
それは私と友人の間に起こるだけではありません。
私自身に対しても起こることです。
私のキーワードは瓦解・倒壊です。
今回、校正していると、自分自身で一字一語で、
世界観の評価が大きく動くと感じる瞬間がありました。
今回は特にリアリズムの問題でした。
以前からリアリズムに対する批判を原理的に書き込んで、ポストモダン批判をしていますが、
それはリアリズムを極めて重大だと信じているから、これを批判しているのであり、
リアリズムそれ自体を否定しているのでは全くありません。
分かりやすいはずの安房直子の童話『きつねの窓』の場合も、それが起こります。
その中で、今回の中村さんのコメントは極めて、ありがたいものでした。
今から、二十年前の教育出版のシリーズ『文学の力×教材の力』の中学三年生、
『故郷』を論じた際、「所感交感」のコーナーで、
田近先生より田中に対し、〈語り手〉を問うだけでなく、
その〈語り手〉をさらに問う〈語り手を超えるもの〉を設定することで何が読めるのか、
という率直な質問を頂きました。
それから二年半後に「〈語り〉の領域」という拙稿を「月刊国語教育研究」に書いた所以ですが、
私は作品論を書く場合、〈語り〉の問題には常に何らかの形で、触れているはずです。
一人称の場合、「私・僕」は作中人物ですから、
「私」を「私」と語る〈語り手〉が後ろに隠れています。
この〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉が
作品を構造化しています。
『きつねの窓』なら、これは一人称小説ですから、「ぼく」が〈語り手〉です。
そこで、「ぼく」を「ぼく」と語るのが〈機能としての語り手〉であり、
この〈機能としての語り手〉をこの作品から読むみ込むと、
視点人物にして〈語り手〉の「ぼく」がどんな人物か、
「ぼく」が語っていることとはいかなることかを批評する立場に立つことが出来ます。
『きつねの窓」を読むのならば、「ぼく」という〈語り手〉のまなざしを相対化して読む、
これが基本の基本です。
「ぼく」のまなざし、遠近法・パースペクティブを捉えるためには、
〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉は必須です。
そうでなければ、視点人物の見ている枠組みの中だけ、
〈語り手〉の「ぼく」の語ったお話の出来事、ストーリーの表層しか捉えられません。
この読み方を田中は「主人公主義」と呼んでいます。
中村さんが紹介して下さっているように、田近先生は、次のように言われています。
「私は、語り手をして、きつねの窓の物語の中に、母親を殺された子ぎつねを語らせている
ところに「虚構の作者」を読まなければならないと思っているのです。」
「母親を殺された子ぎつね」のことを生身の〈語り手〉の「ぼく」は確かに語っています。
しかし、この〈語り手を超えるもの〉、〈機能としての語り手〉は、
「ぼく」が子ぎつねの母を殺された痛みに全く関心を寄せていません。
自身の家族恋人を失った痛みだけで。罪意識はかけらもありません。
『きつねの窓』は一人称の物語、「ぼく」が語り手です。
「ぼく」は子ぎつねの母親を鉄砲で殺しています。
ところが、その子ぎつねから、魔法の「きつねの窓」を受け取り、
戦争で殺された自分の家族や恋人を見ることが出来、如何に感動しているかが語られています。
しかし、これをプレゼントした子ぎつねの思いには、「ぼく」の心は何も働かないのです。
自分がその子ぎつねの母を殺したのに。
「ぼく」という人物は「ぼく」の家族らの愛には執着しても、
この子きつねに対しては何の意識も働かない、
自分の方は「きつねの窓」をプレゼントしてもらうだけでなく、
鉄砲を譲る代わりになめこまでもらっています。
母きつねに対しては「ぼく」はそのきつねの肉を食べたのだと思われますが。
こうしたことが、中村さんが取り上げて下さっているように、
わたくしが「ぼく」をユダヤ人虐殺のアドルフ・アイヒマンに喩えた所以です。
私は安房直子の『きつねの窓』が国語教育の安定教材として長く掲載され、
これが評価されてきた戦後国語教育における罪意識の問題、
あるいは他者の問題をここに感じます。
これをもちろん、田近先生おひとりの問題などとは全く考えていません。
少なくとも、日本の国語教育における文学教材の読み方は、
原理的に問わなければならない、こう考えています。
『きつねの窓』はそのあと大学の紀要にも、今回、中村さんが注目して下さった、
②の児童言語研究会の雑誌にも『きつねの窓』論を取り上げました。
それから三年半後、中村さんに注目して頂いたこと、とてもありがたかったです。
尊敬する田近先生とは、この問題について、心を拓き、
言葉を尽くしたいと願っています。