〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

丸山さんへの応答(『城の崎にて』に関して)

2019-01-19 22:46:46 | 日記
お待たせしました。
全く申し訳ありません。
宮沢賢治の文学に関して、書き始めたものが、ある程度書きあがるまで、
身体が賢治に奪われた如くなり、思う通りならず、本当に恥ずかしい限りです。
前回の記事で紹介しました丸山さんの『城の崎にて』に関してのご質問にお答えします。


丸山さんは以下のように指摘されています。

 小説では、「自分」は「死に対する親しみ」を持つと述べる前に、青山墓地の土の下を想像するわけですが、その部分の記述こそ死んでいる人間を半ば生きている人間のように扱っています。たとえば、「仰向けになって寝ている」「青い冷たい堅い顔をして、背中の傷もそのままで」などとありますが、実際には火葬でしょう(?)し、土葬であっても腐敗が進んでいるから、このようには書けないはずです。つまり、「自分」にとって、そのような「リアル」は関係ないわけです。「それももうお互いに何の交渉もなく」とも述べていますが、「交渉」の有無を見てとるあたりが、生者を見る視線と同じです。 
死んでいる者を生きている者を見る視線で見ています。


仰る通り、「自分」は「死んでいる者を生きている者で見る視線で見ています」。
また、「死後の静寂に親しみを持つ」のも、「「自分」という生者の願望の、死者
対する投影」という御指摘も鋭いと思います。
ご質問の核心は、田中が言う『城の崎にて』の〈語り手〉の「自分」が
生と死はほとんど差がないと捉えていることは、了解したが、そうであっても、
矢張り、死者を見るまなざしが生者の如く見ていることには疑問が残るとのお考えてす。
すなわち、「自分」は死者を死者として捉えていない、生者のように捉えていることは
やはり不自然、と言わざるを得ない、そう疑問を出されているのではないかと、思います。

もっともです。
わたくしもこの「自分」が死者を生者の如く捉えていると思います。
しかし、そこがこの「自分」の卓越している所以であると捉えています。
何故なら、死という出来事はもともと生が捉えた死でしかない、
それを「自分」は熟知しているのです。
「自分」は死が結局生の中にしかないことがよく分かっているのです。
死は生者の観念にあるのであり、これを「自分」は熟知しています。
死そのものを捉えると言っても、それは了解不能、
絶えず死は〈わたしのなかの対象〉でしかない、これを「自分」はよく知っています。

「自分」は偶然生き伸びたが、それは偶然でしかない、生きることも死ぬことも差がなく、
どちらも「自分」は受け入れる、一匹の蜂の死と多くの生きて活動している蜂とは、
単に「偶然」の相違があるだけ、死に対する親しみを感じ、
これを受け入れる心境が語られているのが『城の崎にて』でしょう。
つまり、それは学校の教室で教えられているような、
「生き物の寂しさを痛感」するということでなく、その逆ですね。

『范の犯罪』で見た通り、カルネアデスの板の上での「死」は当事者たちを相対化すると、
取り換え可能なのです。だから生き残った者が完全に「快活」であることが必須です。
問題は生と死を等価とするまなざし、裁判官のまなざしを持つことが肝要なのです。

『城の崎にて』を読むには『范の犯罪』の裁判官のまなざしを手に入れることが必須、
そうであれは、死が「偶然」であることを受け入れられます。

『城の崎にて』は本多秋五らが捉えていない構造を読むことがポイントです。
だから先行研究は私から見たらすべて失格です。
この構造自体が生きることと死ぬことを等価としています。
死を受け入れ、これに親しむその透徹した心境を読み取ることが肝腎だと思います。
コメント (3)
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『城の崎にて』について丸山さんから質問頂きました

2019-01-11 09:53:30 | 日記
あけましておめでとうございます。
約二か月間も更新を怠っており、その間当ブログにご訪問頂いた方、
申し訳ありませんでした。

新潟の丸山さんから、『城の崎にて』に関して次のような質問を頂きました。
丸山さんからは『城の崎にて』について以前にもご質問頂いております。
そのときの質問はこちらから⇒



『城の崎にて』「自分」のまなざしについて(質問)

 田中実先生。『城の崎にて』についてさらに次のように考えました。
 小説では、「自分」は「死に対する親しみ」を持つと述べる前に、青山墓地の土の下を想像するわけですが、その部分の記述こそ死んでいる人間を半ば生きている人間のように扱っています。たとえば、「仰向けになって寝ている」「青い冷たい堅い顔をして、背中の傷もそのままで」などとありますが、実際には火葬でしょう(?)し、土葬であっても腐敗が進んでいるから、このようには書けないはずです。つまり、「自分」にとって、そのような「リアル」は関係ないわけです。「それももうお互いに何の交渉もなく」とも述べていますが、「交渉」の有無を見てとるあたりが、生者を見る視線と同じです。 
死んでいる者を生きている者を見る視線で見ています。
 「死に対する親しみ」は、後で「死後の静寂に親しみを持つ」と焦点化されますが、墓の下の静かさ、死後の静かさの、この「静かさ」という語は、「自分」という生者の願望の、死者に対する投影と捉えてよいと考えます。死者そのものには「静かさ」は全く関係ないはずで、「静かさ」というのは、生きている人間世界でこそ(生きている人間が)用いる言葉だからです。ここにも死んでいる者を生きている者と同様に見てとる視線があります。
 生きている者と死んでいる者を同じように(等質・等価に)見る語り手「自分」の視線が小説の最初から強調されていると読みました。
 次に蜂の死骸の場面ですが、「朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた」とあって、最初から小動物を人間と同じように見ています。次に蜂の死骸が出てきますが、小説を最後まで読んだ上での再読というかたちで、この蜂の死骸の場面を捉えると、この「一匹の蜂」の死も、実はいもりと同様、「偶然」であって、いわば、どの蜂でもよかったわけです。「ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはいまわるが全く拘泥する様子はなかった」とあり、ここはまさに人間世界でも起きている同様の現象が重ね合わせられるところですが、この「一匹の蜂」の死があるからこそ、ほかの生きている蜂の活発な活動があると言えるような気がします。『范の犯罪』を読んだ上で、この蜂の死骸の場面を再読すると、そう言えるように思うのです。数々の蜂の死に支えられながら、「類」として蜂は生き延びていく。その「数々の蜂の死」の順序などは、まさに「偶然」です。そんな風にも読めてくるのです。
 一般的に『城の崎にて』という小説では、偶然死んでしまったいもりの死に収斂されるような読みの授業がなされています。つまり、偶然性に支配・左右されるような生き物の寂しさを痛感した、というように、です。そして、そこで授業としては終わりになっています。
 「偶然」だから、誰であってもよかった、「誰」になったかはまさに「偶然」、『范の犯罪』で言うなら、范でも范の妻でもよかった、取り替え可能、ということになりますが、片方の死が片方の生を支えている、という観点が必須ということでしょうか。「偶然」に支配されていると言うより、巨視的には「偶然」を含んで「類」としての生の存続がある、言い換えれば、「死」を含んで「生」があるということでしょうか。
 そうなると、生も死も等価であるという地平が見えてくるような気がします。
 以上のように読んだり、考えたりしたのですが、いかがでしょうか。田中先生のご評言がいただければ幸いです。


次の記事でお返事したいと思います。
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