〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

昨日の講座の後

2022-07-31 15:06:32 | 日記
昨日の朴の木の会の講座では、読みの原理の問題を問題化しようとし、
ご質問を戴くつもりでしたが、話し始めたら、ご質問の時間が少なくなり、
失礼しました。その点、お詫びします。

昨日は、私が大学生の時、祖母が亡くなってその遺体を目にした際、
それでも祖母は私のなかでは死んでいないという強いリアリティをに囚われた体験を
お話しました。
死者はわたしのなかで生きている・・・。

死という客体の出来事、あるいは対象そのものは厳然とした事実としてありながら、
これを主体が捉えようとすると、それは了解不能の沈黙と化していて、
これを主体の感受性がどう捉えるかが問われます。

例えば、『高瀬舟』なら、弟を殺してしまった兄の喜助が視点人物の庄兵衛に
毫光の輝きを放つように見えるのは前回論じたように、安楽死と捉えたからですが、
『高瀬舟』はそうしたリアリズムの領域では捉えられません。
そうしたことを超えているのです。
『舞姫』なら、豊太郎は免官になって直ちに母の唐突な死(諌死)の知らせ、
その理由を認(したた)めたはずの遺書を受け取って、何故、エリスと恋愛関係に入り、
それを手記を書く今、どう感じているのか。
こうしたことも私見では、死者が生者の中でいかに生きているかという問題、
これは〈第三項〉論と不可分にあります。

しかし、昨日はこうしたことを十分どころか全く申し上げられないままに終わり、
甲府から戻る車中で、己の拙さに臍を噛む想いをしました。
ご質問頂ければと思いますが、ここでは拙稿の『注文の多い料理店』論を補っておきます。

この童話はこれまでこぞって、現実・非現実・現実という枠組みで捉えられていました。
ところが、その現実こそ大宇宙の自然を内包した「山奥」から見ると、
貨幣という文明の創り出した虚構の虚妄、幻想だったのです。
これがこの童話が表わしていること、これを語る〈語り手〉の主体、
その仕掛け、仕組みである自己表出を読むのが田中の読み方、「背理の輝き」です。

現実に戻ったはずの二人の紳士は東京に戻っても自身の虚構の幻想、
その非現実から逃れることは出来ず、恐怖のどん底にいます。
二人は虚妄の幻想の中、生きることとは殺し殺されることであることを
全身全霊で体感したのです。
これまで文明社会の産物の金銭・貨幣が邪魔をして、これが見えずいました。
ふたりの「紳士」は生き物の命の在り方、殺し殺されることで生命が存在するという
厳粛な生命の存在の所以が金銭に還元されていることなど全く知らなかった。
これに気付かされたのです。
これを知った彼らは、そうした世界の外に向かざるを得なかったのです。
東京の人達が知らない世界でいす。

〈語り手〉は彼らをここに追い込んでいくことをリスナーに伝えます。
すなわち、そここそ「山奥」の声に通じる大宇宙の自然、
生命とはが殺し殺されることで生成する働きなのです。

二人はこの恐怖のどん底で震え、究極的に救いを求めます。
それは彼らが彼らでありながら、彼らではなくなることを意味します。
彼らはもはや宇宙の微塵と化すのです。
二人の生き物(「紳士」)はこの大宇宙の声と化します。
その時です。二人は震えながら、それゆえに輝やくのです。

どうぞご批判、ご質問を賜れば、と願っております。 

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4 コメント

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Unknown (杵鞭 恵子)
2022-07-31 18:17:57
田中先生 朴の木の会の先生方、昨日はありがとうございました。

昨日のお話、死者がいかに生者の中に生きているかというところは、私には、腑におちます。目の前に人が死ぬという極限の沈黙に対して、主体の感受性がどう捉えるかというところは私にとって、第三項論の原理の理解をすごく助ける気がしました.

『注文の多い料理店』ですが、今日の文章の「二人はこの恐怖のどん底で震え、究極的に救いを求めます。それは彼らが彼らでありながら、彼らではなくなることを意味します。」と、ここまで、理解したつもりでした。
 その次の「彼らはもはや宇宙の微塵と化すのです。二人の生き物(「紳士」)はこの大宇宙の声と化します。その時です。二人は震えながら、それゆえに輝かくのです。」と、この輝くところが難しいです。いまだ、虚妄の中に生きていることを意識していない町の人たちと比較すると二人は救われたと言えるのですか。
また山鳥を買って帰るところは、虚妄の現実に戻ることを表し、二人は現実に戻らないと生きていけない自分を自覚して、宇宙の微塵と自覚して、救われるということでしょうか。

蝶の声をきいたが、異世界に気付けない松井さんはタクシー運転手を続けますが、二人の紳士は生きながらかつてのようには生きられなくなっていて、それは罰のように見えてしまいます。それとも、くしゃくしゃの顔は、二人自身の感受性の捉えでしょうか。二人の自覚が救いでしょうか。 拙い感想になりますが、昨日から考えています。
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杵鞭さんへ (田中実)
2022-08-01 07:23:50
杵鞭さん、
 コメントありがとう。ご感想を順に追っていくと三番目からがご質問ですね。
 『注文の多い料理店」の視点人物「二人の若い紳士」が末尾、恐怖のどん底で震えているはずなのに何故輝いて「背理の輝き」と常識外れに読むのか。それは、二番目が解ると言って下さったことが根拠、二人は自分の意識の底に降り、どんなに助かろうとしても自分自身を支えることが出来ない、二人はもはや自身の無意識を含めた自分自身の外部に向かうしかないからであります。すると、そこは殺し殺される生命の起源・根点である大自然・大宇宙であり、そこから生命が発していたと、それが光の元と田中が考えるからです。
「だいぶの山奥」は彼らと山猫とによって作り出された対幻想、これが破れて元の日常、元の現実に戻っても、元の日常の現実こそ人類が貨幣で作り上げた虚構の現実、虚妄性に支配されていたのであり、こここそ、殺し殺される命のやり取りを隠していた場所だった、それを無意識に感じ取っていた、だから彼らは東京に戻っても、恐怖は消えません。東京というこの虚構の現実に戻っても、その虚構の現実は虚妄性に脅かされていたのです。二人はここに立って平穏に生きられず、この東京という〈町〉の「集合的無意識」の外部、「山奥」の声、大宇宙に通底する自然の声を求めるのです。
 その声を受け止めるのは二人が全身全霊で震えているからですね。
 四番目、東京に帰るとき、彼らは山鳥を買って帰る以前の二人でありながら、同時にそこには生きられない、この矛盾が背理・パラドックスを生み出します。
 この童話は生命を金銭・貨幣に換算してしまう人類の文明の起源を相対化して描き出していますね。これを読むには、細部に神が宿っていることに注目する必要がありますよ。
 五番目、二人が罰を受けていると読むのが通常のこれまでの学界の読み方、これを根元に向かって転換していきましょう。
 そこで杵鞭さん、
 東京に戻っても、二人のくしゃくしゃの顔は泣き続けているからですが、それを「感受性の捉え」と言う一言で捉えず、田中の書いていることの文脈を捉えましょう。一言で言う癖(捉え方)は極めて大切、それは直観力ですが、しかし、同時に落とし穴に入って自足する弱点・欠点を持ちます。そのため、こうしたご質問に向かう、その姿勢が素晴らしいと思います。
   杵鞭さん、ありがとう。感謝。
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Unknown (石川晴美)
2022-08-06 00:28:52
田中先生、こんばんは。
Youtubeを拝見しました。

私が今まで『高瀬舟』で理解し難かったのは、「安楽死」という「罪」を犯してなお「楽しそう」な喜助の心情でした。
しかし、今回この疑問が多少なりとも氷解したように思います。
喜助が理解できないのは、まさに庄兵衛の視点で、庄兵衛は始めから喜助を舟に乗りこんできた罪人として認識し、そして罪人でありながら毫光がさすように見えるその矛盾の疑念を「オオトリテエに從ふ外ない」と自分より上のものの判断にゆだねる。彼はオオトリテエが支配する社会の枠組みの中で、それ以外の世界が存在するなどと夢にも思わず生きている人間です。
一方、喜助に起こったことは、そういう社会通念の枠に収まらない、なにか奇跡的な出来事。「安楽死」とか「罪」とか「殺人」とか、そういう言葉の一般的な概念を取り払ったところに、喜助と彼の弟がともに生きる世界が形成されている。第三項が表出しているのだと感じました。

『注文の多い料理店』では消化しきれない部分があります。語り手は、二人の紳士の生きる都会の虚飾をはがしてその内部を露わにしていくところに意図的に追い込んでいる。彼らが恐怖したそれこそが大宇宙の自然の原理であるから、追い込まれた紳士たちが震え泣き、紙屑のようになった顔が元通りにならないのは、懲罰ではない。
語り手は、紳士たちを追い込むという形を借りて、そこに大宇宙の自然の働きを表出させていて、それが作品全体として輝きを放っているということでしょうか?
それとも紳士たち二人自身が輝くのでしょうか?
私には後者のようには思えなく、なぜなら、輝くような段階になるには、例えば『なめとこ山の熊』の小十郎のように、一生をかけて自然と一体化していく境地に達するとか、『高瀬舟』の喜助のように一心同体であった弟の死を以て生を得るような転換があって、二人の紳士には、そういう主体的に超越に向っていった感じがないので、語り手によって強制的に恐怖に追い込まれたその段階で確かに大宇宙の声を彼らは聞いたかもしれませんが、そこから小十郎や喜助のように二人自身が輝くようには受け止めにくく感じています。
返信する
石川さんへ (田中実)
2022-08-06 13:04:50
石川さん、コメントありがとう。

 二人の紳士は内側から輝やかないどころか、恐怖で最後の最後まで震えているままです。食べることは自分が食べられること、生き物を殺すことは自分が殺されること、この大自然の生命の在り方を知らされ、恐怖のどん底で二人は最後まで震えています。
 すると何が起こるでしょうか。〈語り手〉はリスナーに何を語ろうとしているでしょうか。改めて考え見ましょう。

 お話の結末、東京及び現実こそ貨幣による幻想の虚構装置の場であることが明らかになりました。二人の紳士がそれに目覚めたところとは、〈語り〉の現在においては人類の文明の歴史が相対化されているところでした。
 二人は東京に戻っても救われなかった、その顔はくしゃくしゃのままです。恐怖は極限です。ならば、二人はその恐怖を自分たちの意識の底のその〈向こう〉、外部に押しやるしか救いの道はありません。誰も助けてくれないし、助けることもできません。
 「だいぶの山奥」は幻想、戻った東京も幻想、そしてその幻想の虚偽が露わになって、恐怖に震え、いたたまれず、二人は外に、外部に向かうしかない、外は大自然の命のやり取りの場、「山奥」の殺し殺される場、そここそ殺し殺される生命の躍動する場、二人は恐怖の極にあるからこそその大自然の場に参入し、そこから大自然の光を浴びるのです。
 〈語り手〉はここにリスナーを連れて行きます。ここでは因果律では捉えられない、因果律に反した逆説、背理が働きます。二人が輝くのは、これまでの日常の原理でもあった生命観を瓦解させ、倒壊・解体させたが故、大宇宙の光を受け止め得たのです。救われてみると、そこにようやく彼ら自身の罪業も見えてくるでしょうが。それはまた後のこと、くしゃくしゃの顔はその顔のまま、くしゃくしゃだからこそ外部の大自然を求めざるを得ませんでした。
もう少し説明しましよう。
 大自然は命の起源です。そこは殺し殺される恐怖の源、その全てを創り出していたのです。だから、これを求めると恐怖は恐怖のまま包み込まれ、生命の恐怖もそもそも生命なるものが大自然の賜なのです。そこに参入すると人の恐怖も歓喜も全て包み込まれて、ただただ大自然の命の活動に包まれるのです。
 〈語り手〉はここにリスナーを連れて、二人の紳士のくしゃくしゃも包み込んで大自然の光を浴びせて輝かせているのです。「序」とも通底していきますよね。
 大宇宙を受け止めるには恐怖のどん底を潜り抜ける回路が必要のようですね。
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