前回の講座を聴いて下さった友重さんからお便りが来ましたので、
御許しを得て、この記事に掲載させていただきます。
11日は、いつものことながら大変有意義でした。
ありがとうございました。
リモート講演を通じて、時々お話を拝聴でき、嬉しく思っております。
以下は、未熟な私なりの理解です。ざっくばらんに書きます。
1,御講演では、まず「ロゴス」と「ラング」の違いがよくわかりました。
「ロゴス」は固定されているということですね。
また文学は「ラング」の側にあるということも改めて納得しました。
2,見えている世界ともう一つのそれとはちがう世界(パラレルワールド)
について。ここでは、見えていない世界から見えている世界を捉える(両世界を重ね合わせる)
ということに意味がある、ということですね。
そして、見えていない世界は、地下2階まで降りなければ現れてこない、
ということでしょうか。
これらは、「私と反私」の世界、あるいは「リアリズムと反リアリズム」の世界とも
おっしゃっていたように思います。
3,地下2階まで降りるということについて。私はこれまで、
これは地下1階のその下の層まで降りることで、人間の原質とは何か、
といういわゆる人間の普遍性の問題に行き着くと思っておりましたが、
おっしゃることはそうではないのですね?
地下2階、あるいは「反私」はその人間の固有の問題であり、
固有の己の「闇」あるいは「恥」・「罪」に向き合う、ということでしょうか。
ついでに、愚問も記しておきます。「納屋を焼く」について。
作中で、主人公は納屋を焼いたと言いながら、その時間には主人公は別の場所にいた、
というのは、おっしゃるようにパラレルワールドであると思います。
しかし、この作品において矛盾する二つの世界を重ね合わせた時に見えてくるものとは
何なのでしょうか?
「うたかたの記」について。マリイを、画家の巨勢は一人の気高い女性として、
しかし国王はマリイの母として見ている、というのはパラレルワールドなのでしょうか?
一人の女性を、複数の男性がそれぞれの思いの中で見てしまう、というのは、
一般の近代文学の中でも描かれてきたように思います。
友重さん、ありがとうございます。
まず1が一番肝心、これがこれまでの原理を進めたところ、
福音書と大森哲学の相違の問題、ロゴスとラングの相違の問題です。
2と3、その後の御質問は全てパラレルワールトの問題ですね。
村上春樹の世界観認識は拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉が
これを拓く―鷗外初期三部作を例にして―」(『日本文学』2018・8)に書いた地下二階の図、
これをご参照ください。講座の際、望月さんが紹介して下さいました。
意識が地上、無意識が地下一階、その外部の向こうが「地下二階」、
これを小説に組み込むことで、村上春樹の世界観が開示されていますよね。
一つの文学空間に二つの時空がセットされています。
見えているか見えていないかの問題は我々の日常では普段から、しばしば起こること、
これとは次元を異にします。
『うたかたの記』は二つの時空、二つの次元で語られていると私は論じています。
すなわち、日本の画家巨勢とドイツバワリア王、両者の双方を主体の内側から語って、
一人の女性(マリイ)が巨勢にとっては娘、王にとっては母に見え、
王は狂人と社会からはみなされていますが、〈語り手〉はそう描いてはいないところがミソ、
王にとって、再会したその女性は紛れもなく母マリイなのです。
あり得ない、王は狂人だからと思うのはこれまでの読み方、
恐らく、今のところ、眉唾だと思われていると思いますが、
これは原理論から考え直す時期です。
是非先の拙稿をもう一度、読み返してください。
ポイントは〈語り手〉を読むこと、『うたかたの記』は三人称の〈語り手〉が
作中人物二人の主体をそれぞれ内側から語り、そのそれぞれを否定してはいません。
そうなると、この作品の文学空間には読者の「通念」を裏切るあり得ないことが
描かれています。
と言って、近代的自我意識の中ではその〈語りの構造〉は決して現れ来ませんが・・・。
現実は常に一つ、間違えていけませんと『1Q84』の冒頭に登場する運転手が言うとおり、
現実はひとつ、これが普遍的世界観です。
だから私は大森に従って、この世界観を覆す原理を講座でお話しました。
『1Q84』では明確にヒロインは月が一つと二つの世界を行き来します。
多次元空間です。
多次元空間を可能にするのが、「地下一階」の外部、虚空(void)から観た
現実の世界です。
「私」=反「私」という現実にはあり得ない等式の世界観を
村上春樹は表出していると私は理解しています。
これが今年、都留文科大学の『紀要』に掲載した拙稿「無意識に眠る罪悪感を原点にした
三つの物語―〈第三項〉論で読む村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』と
『一人称単数』、あまんきみこの童話『あるひあるとき』―」のベース、
数多の批評と田中の捉える所の相違です。
長くなりました。
今日はここでやめます。
御許しを得て、この記事に掲載させていただきます。
11日は、いつものことながら大変有意義でした。
ありがとうございました。
リモート講演を通じて、時々お話を拝聴でき、嬉しく思っております。
以下は、未熟な私なりの理解です。ざっくばらんに書きます。
1,御講演では、まず「ロゴス」と「ラング」の違いがよくわかりました。
「ロゴス」は固定されているということですね。
また文学は「ラング」の側にあるということも改めて納得しました。
2,見えている世界ともう一つのそれとはちがう世界(パラレルワールド)
について。ここでは、見えていない世界から見えている世界を捉える(両世界を重ね合わせる)
ということに意味がある、ということですね。
そして、見えていない世界は、地下2階まで降りなければ現れてこない、
ということでしょうか。
これらは、「私と反私」の世界、あるいは「リアリズムと反リアリズム」の世界とも
おっしゃっていたように思います。
3,地下2階まで降りるということについて。私はこれまで、
これは地下1階のその下の層まで降りることで、人間の原質とは何か、
といういわゆる人間の普遍性の問題に行き着くと思っておりましたが、
おっしゃることはそうではないのですね?
地下2階、あるいは「反私」はその人間の固有の問題であり、
固有の己の「闇」あるいは「恥」・「罪」に向き合う、ということでしょうか。
ついでに、愚問も記しておきます。「納屋を焼く」について。
作中で、主人公は納屋を焼いたと言いながら、その時間には主人公は別の場所にいた、
というのは、おっしゃるようにパラレルワールドであると思います。
しかし、この作品において矛盾する二つの世界を重ね合わせた時に見えてくるものとは
何なのでしょうか?
「うたかたの記」について。マリイを、画家の巨勢は一人の気高い女性として、
しかし国王はマリイの母として見ている、というのはパラレルワールドなのでしょうか?
一人の女性を、複数の男性がそれぞれの思いの中で見てしまう、というのは、
一般の近代文学の中でも描かれてきたように思います。
友重さん、ありがとうございます。
まず1が一番肝心、これがこれまでの原理を進めたところ、
福音書と大森哲学の相違の問題、ロゴスとラングの相違の問題です。
2と3、その後の御質問は全てパラレルワールトの問題ですね。
村上春樹の世界観認識は拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉が
これを拓く―鷗外初期三部作を例にして―」(『日本文学』2018・8)に書いた地下二階の図、
これをご参照ください。講座の際、望月さんが紹介して下さいました。
意識が地上、無意識が地下一階、その外部の向こうが「地下二階」、
これを小説に組み込むことで、村上春樹の世界観が開示されていますよね。
一つの文学空間に二つの時空がセットされています。
見えているか見えていないかの問題は我々の日常では普段から、しばしば起こること、
これとは次元を異にします。
『うたかたの記』は二つの時空、二つの次元で語られていると私は論じています。
すなわち、日本の画家巨勢とドイツバワリア王、両者の双方を主体の内側から語って、
一人の女性(マリイ)が巨勢にとっては娘、王にとっては母に見え、
王は狂人と社会からはみなされていますが、〈語り手〉はそう描いてはいないところがミソ、
王にとって、再会したその女性は紛れもなく母マリイなのです。
あり得ない、王は狂人だからと思うのはこれまでの読み方、
恐らく、今のところ、眉唾だと思われていると思いますが、
これは原理論から考え直す時期です。
是非先の拙稿をもう一度、読み返してください。
ポイントは〈語り手〉を読むこと、『うたかたの記』は三人称の〈語り手〉が
作中人物二人の主体をそれぞれ内側から語り、そのそれぞれを否定してはいません。
そうなると、この作品の文学空間には読者の「通念」を裏切るあり得ないことが
描かれています。
と言って、近代的自我意識の中ではその〈語りの構造〉は決して現れ来ませんが・・・。
現実は常に一つ、間違えていけませんと『1Q84』の冒頭に登場する運転手が言うとおり、
現実はひとつ、これが普遍的世界観です。
だから私は大森に従って、この世界観を覆す原理を講座でお話しました。
『1Q84』では明確にヒロインは月が一つと二つの世界を行き来します。
多次元空間です。
多次元空間を可能にするのが、「地下一階」の外部、虚空(void)から観た
現実の世界です。
「私」=反「私」という現実にはあり得ない等式の世界観を
村上春樹は表出していると私は理解しています。
これが今年、都留文科大学の『紀要』に掲載した拙稿「無意識に眠る罪悪感を原点にした
三つの物語―〈第三項〉論で読む村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』と
『一人称単数』、あまんきみこの童話『あるひあるとき』―」のベース、
数多の批評と田中の捉える所の相違です。
長くなりました。
今日はここでやめます。