明日土曜日の文学講座のテーマを「近代小説の未来」としたのは
「近代小説の終り」という柄谷行人氏の説に対して、
かつて『これからの文学研究と思想の地平』(2007・7 右文書院)で
「小説は何故(why)に応答する―日本近代文学研究の復権の試み―」で論じたことを
改めて論じたくなったからです。
と言うのも、柄谷氏の最新の大著『力と交換様式』を前にしたことが
一つの動機になっています。
私見の前提になるのは、これまで前回・前々回と読んできた村上春樹の『木野』論です。
『木野』は本当に「難しい」小説でしたが、改めて興味深く読めてきました。
彼の小説がいかに所謂リアリズム小説とは異なり、「目ざまし時計の分解」をしているか、
そして、近代小説がいかに「目覚まし時計」として捉えられているか、このお話です。
私は実は、平野啓一郎さんが京都大学法学部の三年生の時に書いた『日蝕』に本当に驚愕、
感動したことを憶えています。
現在芥川賞の選考委員にもなって、小説界をリードしているのは尤もです。
しかし、小説の読み方はまるで違います。
明日はそんな話もします。
なお、12月10日は埼玉大学に出かけて行って講演します。
明日の話の続きをそこでする予定です。
「近代小説の終り」という柄谷行人氏の説に対して、
かつて『これからの文学研究と思想の地平』(2007・7 右文書院)で
「小説は何故(why)に応答する―日本近代文学研究の復権の試み―」で論じたことを
改めて論じたくなったからです。
と言うのも、柄谷氏の最新の大著『力と交換様式』を前にしたことが
一つの動機になっています。
私見の前提になるのは、これまで前回・前々回と読んできた村上春樹の『木野』論です。
『木野』は本当に「難しい」小説でしたが、改めて興味深く読めてきました。
彼の小説がいかに所謂リアリズム小説とは異なり、「目ざまし時計の分解」をしているか、
そして、近代小説がいかに「目覚まし時計」として捉えられているか、このお話です。
私は実は、平野啓一郎さんが京都大学法学部の三年生の時に書いた『日蝕』に本当に驚愕、
感動したことを憶えています。
現在芥川賞の選考委員にもなって、小説界をリードしているのは尤もです。
しかし、小説の読み方はまるで違います。
明日はそんな話もします。
なお、12月10日は埼玉大学に出かけて行って講演します。
明日の話の続きをそこでする予定です。