〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

周さんの質問に答えます

2018-08-30 22:00:56 | 日記
次に周さんのコメント

田中先生、質問に答えてくださり、本当にありがとうございます。先生のご説明をお読みして、前より大分わかってきたような気がしますが、まだ少し疑問が残ります。
?地下二階を顕にするには、地下一階を囲い込み切る必要があります。この言い方は正しいでしょうか。
?しかし、地下一階を囲い込みきったかどうか、誰にも分からないのではないないでしょうか。
?ナラトロジーは、地下一階までを問題にしますが、地下二階の認識を持っていないから、地下一階を囲い込みきれないでしょうか。
しかし、ナラトロジーは地下一階を囲い込みきれないことが論証できても、そう論証できた側の読みは地下一階を囲い込みきったとは言えないのではないでしょうか。
つまり、作品分析を通して、それぞれの登場人物の地下一階を囲い込みきることによって、地下二階を顕にすることは不可能ではないでしょうか。
以上、再度教えていただければと思います。よろしくお願い致します。


周さんの御質問にお答えします。
 まず最初の「正しいか、正しくないか」は周さんご自身がどんな世界観を持っているかで捉えている対象の現れは変わり、それに応じて客体の対象領域は変容することを学ばれているはずです。そのことを等閑に付すと、ご質問のようなアプリオリに、正しか正しくないかを問うことになります。
「つまり、」以下のお考えは、ナラトロジーのお立場に立たれての発言です。そこから「地下二階」を問うとすれば、そもそも「地下二階」などの領域の実体の有無を問うこと自体がナンセンス、荒唐無稽です。「地下二階」の類が書かれているとすれば、ファンタジックな虚構なのですから。
 
 周さんは、そのままだと常に目先の疑問に襲われ、毎日、毎時間、田中に質問ばかりする、これまでそうですが、それはほとんどの日本人と逆、日本人の研究者の諸先生方はぎりぎり自分のぼろが出ないよう、質問を極めて極限化し、質問したことに相手から質問し返されないようにされる、これに比べれば、周さんは大変よろしい。
 しかし、周さんご自身、〈第三項〉の世界観に立ち、博士論文を書こうと志すならば、例えば、2001年の『文学の力×教材の力理論編』の拙稿「〈原文〉という第三項」と対決し、あるいはこれまでの『日本文学』の拙稿「断想」シリーズと対峙し、その覚悟をもって質問をされると、その質問は生きると思います。具体的に 『日本文学』今月号の難波博孝「「新しい実在論」と第三項理論」と対決し、本気で今、ご自分がどんな世界観認識を持つのか、改めて、考え直しましょう。

 以下は全くの贅言です。
 周さんがわざわざ中国河北大学から日本の都留文科大学大学院に留学してまで学ぼうとして手に入れた世界観とはいかなるものだったかをもう一度、この際、考えてみましょう。

 いや、周さんは既に、そうお考えになって実践してきた、その結果、研究状況の革命的転換を果たそうと図り、超アナログの私にブログを始めさせ、日本と中国の近代文学研究者及びその予備軍に向け、原理論から学び、考えようとなさっている、その志にわたくしは心打たれるものを感じました。 
 現に、周さんのお嬢さんの富士子ちゃん、小学四年生ですか、そのお嬢ちゃんまで、「客観的現実はげんそう」と壁に貼っているとのことです。周さんは今月号の拙稿もよく読まれているはずです。
 ならば、同じ〈語り〉論でも、ジュネットらの物語論(ナラトロジー)と田中の〈第三項〉論とはいかなる相違があるのか、その原理論の相違を周さんご自身、よくお考えになっているはずです。
 ナラトロジーや従来の三好作品論ではその世界観が「地下一階」までしか考えられません。大森荘蔵の言い方をすれば、それは「生活上の分類」で世界を捉えているのです。ここで世界を捉える限り、「地下二階」には辿り着きません。我々地上の生活は「地下一階」の無意識自体が見えないのですから、「地下一階」と「地下二階」との区別はつきません。
 周さんは自然主義リアリズムの立場で、すなわち、「地下一階」を含めた地上の世界でこの世の出来事の中で「地下二階」をイメージしてもそれは「地下一階」までの無意識領域と区別がつかないのですから、「地下二階」はメタファー、何かの比喩として考えるしかないのです。
 これを克服するには、もう一度言いますが、拙稿の『文学の力×教材の力理論編』から始まって、『断想』のシリーズから今月号までを読み返し、そに書かれていることと対決してください。文学作品の読みはアナーキーでも何故、田中は読めると考えるのか、それは実体の文章を読むのではなく、視覚映像を媒介にしてその概念を捉えるという読書行為によって、自身が捉えている領域を自ら捉えると捉える、夏期研究集会の古守さんはこれをよく勉強されていました。共にご研究下さい。 


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コメントにお答えします

2018-08-29 17:44:04 | 日記
以下のコメントにこちらで応答します。

まず24日の『走れメロス』に関する記事への山本さんのコメント

「この作品は発表以来、「心」という領域と作品の構造の問題が見過ごされている」という言葉で、『少年の日の思い出』と同じであるということの意味を理解したように思います。「このままここにいたい」というメロスの言葉は自身で打ち消し出立しています。けれどだから帳消しになるというように考えるその「心」こそ〈語り手〉が問題にできなかったところだったのだと。

 山本さんは昨年の大会、『少年の日の思い出』の構造を解き明かし、見事でした。
少年の「僕」は教師の子供で優等生のエーミールの大切な標本にしている蝶を盗み、母に叱られ、それを返しに行く際、壊していたためエミールの厳しい侮蔑に晒され、結局自身の大切な標本を自ら密かに破壊するしかなかったのです。
 自責の想いは行き所を失い、鬱屈した自閉的な人間性を作り上げ、大人になっていました。

 ここから「僕」の話を聴いた主人の「私」はこの「僕」を聴き手に「僕」の物語を「僕」に向かって、語り直します。それによって、「僕」の全くそれまで気付かなかった「僕」の「罪」、傷つけられていたと思っていた「僕」が逆に如何にエーミールを傷つけていたかに気づかせるのです。すなわち、「僕」は「僕」のしてきた「罪」を「私」から聞かされることで、「僕」自らの内なる姿、「心」が明らかになり、「僕」自身が何者であったかが見えてきます。これによって、「僕」は「僕」自身に向き合い、自身の「心」の扉を開くのです。これが私、田中実の、この作品の〈読み〉の基本です。

 「僕」はこれまで自身の傷ついた「心」の重荷を背負って鬱屈し、自閉的に生きざるを得なかったのですが、主人の「私」は「僕」を罪の場に誘うことで、逆に内なる開放の扉を開けます。
 これを考えることと、小学校教材の安房直子作『きつねの窓』の「ぼく」に親を殺された子ぎつねの「心」の問題を考えることとは、決して別ではありません。前者はエーミールを傷付けていた、後者は親狐を殺された子ぎつねを深く、深く傷つけていた、子ぎつねは自分の母親を直接殺した鉄砲をもらい受け、代りになめこをあげるという高徳の僧の如き振る舞いをしていますが、「ぼく」はその後の読者同様、それに全く気づきません。これが安定教材として採用され続けながら、日本の国語教育界は子ぎつねの「心」を全く、顧みません。「心」という領域をどう考えているのでしょうか。
 そして、中学教材「走れメロス」です。前回申し上げた通り、メロスは二度、セリヌンティウスを裏切りながら、王も民衆も、いえいえ、肝心要の「語り手」がこれを問題にしていないのです。
 行為、行動で人を、約束を裏切るのではない、「心」で姦淫することが姦淫すること、イエス・キリストの教えは行為のみならず、心で思うことの肝要さを教えてくれました。
 太宰なら、『斜陽』でこれを凄まじく生きていました。『走れメロス』が失敗作であることを顕わにするためには、近代小説というジャンル、御話を語る物語文学とは異なるジャンル論、その前提の世界観、こうした原理論が必要ですね。
 長くなりましたから、今日はここで一応やめておきます。

 周さんから頂いたコメントついてはまた明日お答えします。
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再び周さんの質問に答えます

2018-08-28 09:40:47 | 日記
26日の記事のコメント欄で、周さんから再び以下のような質問が来ましたので、ここで回答します。
 (ちなみに、昨日は転んで、顔が晴れ上がり、片目がふさがり、ぼんやり過ごしました。遅くなりました。お許しください。)

 先生、第三項理論と物語論の違いは、「語り-語られる」相関関係を問題にするだけではなく、その相関のメタレベルで捉えるとおっしゃいました。
つまり、第三項理論は既存の「語り-語られる」相関(プロット)を捉えるだけではなく、何故このような相関関係になっているか(メタプロット)を更に問題化すると理解してよろしいでしょうか。
教えていただければと思います。
よろしくお願い致します。



 周さん、
 語る行為を問題にするのですから、ナラトロジーの理論家たちこそ何故そのような相関関係にならなければならないかを考えてきたのです。しかし、それはなお、〈語り―語られる〉枠内にあります。バルトの用語で言えば、彼らは「容認可能な複数性」を想定しているのです。
 〈第三項〉論はそれとはもはや、原理的に異なった地平、同じくバルトの用語で言えば、「還元不可能な複数性」に立っています。

 バルトはともかく、私は何故客体そのもの、第三項は捉えられないと考えたのか、
 その学問的根拠はソシュールの言語論に基づくからです。こうしたことはこれまで『日本文学』に限らず、何度も、何度も論じてきました。2001年教育出版の『文学の力×教育の力 理論編』の本には実に詳しくこれを論じたのです。
 その書物では、今思えば、読書行為が教育科学研究会に限らず、当時の文部省も同じ、時代の強固な偏見である世界の実体論を斥け、読書行為は「還元不可能な複数性」にならざるを得ないことを詳しく論じたのです。
 いまだに左翼思想を信じ、文科省と対立しているのはナンセンス、
 以来、今日の『日本文学』八月号まで、執拗に毎回のほど、〈第三項〉の根拠について触れてきました。
 「読むこと」の学問の基盤と考えるからです。
 文学作品を「読むこと」は〈第三項〉の世界観にならざるを得ません。

 周さんはじめ、日文協の国語教育部会の人たちは〈第三項〉論が上滑りして、これを他の学会に向かって、拡張されています。難波さんが田中チルドレンと言って、批判しているのはこのことです。
 従って、これまでに幾度も拙稿で書いてきましたことですから、これ以上、繰り返したくない思いがしますが、敢て、を述べておきます。

 ナラトロジーは「還元不可能な複数性」の観念に辿り着いていません。
 私は、今回の八月号の拙稿の図「地下二階」を問題化しています。
 〈第三項〉論はナラトロジーのその外部をも問題化して、始まります。
 リアリズムを捉えるとともに、そこから超越した領域を問題化しま。実は、小説の神髄は逍遥のそれでは決定的にダメで、鷗外の「小説論」でなければ、神髄を穿つことは出来ないと私は感がています。
 リアリズムの通用する〈わたしのなかの他者〉と対になった、了解不能の《他者》が〈第三項〉です。
 これは八月号の拙稿の図二の「地下二階」に〈語り手〉を措定します。
 そこから作中に現れたそれぞれの人物のパースペクティブ、世界観を捉えます。
 すると、それぞれは多次元空間にあることが露わになります。
 ナラトロジーはこれがありません。
 何故か。
 ナラトロジーでは、従来の人類発生、有史以来の世界観に立っていたからです。

 主体の捉えた客体の外部には客観的現実が実在するとの観念のイデオロギーを信じ込んでいたからです。
 今もこれは圧倒的に続いています。ブログを読んで下さる方もほとんど、客観的現実を実体と信じていると思われます。私が八月号の拙稿を書き、難波さんがマルクス・ガブリエルの『なぜ世界はないのか』を持ち出した所以です。ガブリエルの言う「世界はない」というのは、「世界」とは抽象的な全体性のこと、それは人類の思考する観念でしかないから、すなわち、それをもっと明確に言えば、そもそも客観的的現実は幻想だから、これが根拠です。

 そこで、その翌日、昨日のコメント、

 ナラトロジーは地上一・二階を問題にするか、それとも地下一階も問題にするのか、

 これはもはやあり得ない質問、
 素朴なリアリズムも「地下一階」の無意識は問題にしています。そもそもリアリズムを問題化することが「地上一・二階」の新たな意味付けであると同時に、「地下一階」を抉り出そうとするのです。
 近代文学研究において、いや、近代文学研究に限らず、そもそも、近代という時代、モダンは意識を基に無意識をも問題にしてきました。「近代的自我」=「まことの我」を追究し、発見、確立しようとし、社会が、時代が、国家がこれを許さない、これとの闘いと思考してきた、「近代的自我の覚醒と挫折」の図式をベースにしていたのです。
 無意識だったものを意識化、真実を手に入れようとしてきたのてす。
 ポストモダンの際、ナラトロジーが登場したのですが、「地下一階」までを問題にするのは当たりまえ、で問題外と言ってよいのですが、
 しかし、私が周さんを尊敬するのは、逆にその素朴に過ぎる質問をされるところにあります。私の周りはこの逆で自分で分かっていると信じ、〈第三項〉理論の指導者としてふるまいます。
 それに反して、周さんはその逆、周さんや第三項の指導者の皆さんに向けて、このブログはあります。
 周さん、ありがとう。

 つまり、実は「地下一階」を問題化することが難問なのです。だから、周さんの疑問はあり得ない質問かに見えて、本当は極めて重要、例えば、『舞姫』の太田豊太郎は母の遺書を無意識に封じて、母の許さぬエリスと同棲生活することを可能にし、母の代理として登場した相沢謙吉に対し、「姑く」この相澤の言に従って、留保する形を取ります。地下一階と向き合いきれないのです。


 周さんのお嬢さんの富士子ちゃんは小学校の四年生位ですか。「客観的現実はもうそう」と張り紙をなさって私のメールを待っているとのこと、中国の張先生のお嬢さんも同年齢位、同じような反応をなさると聞いています。鳥肌が立つ想いをします。

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周さんの質問に答えて

2018-08-26 16:24:08 | 日記
 今朝、四泊五日の西安から帰国された途中、周非さんが拙宅に立ち寄られました。
 その際、西安交通大学での周さんの講演の際に寄せられた中国の大学院生、先生方の質問を三点、答えてほしいと言われましたので、このブログでお答えします。もちろん、際立った難問にして、根源的な質問ですが、これに私見をご披露しましょう。

第一点、
 物語論(ナラトロジー)と〈第三項〉論との相違

 両者は同じ〈語り〉論でも、原理論、グランドセオリーが異なるため、必然的に〈読み〉の方法論が異なり、結果、〈読み〉の実践は随分と違ってきます。〈第三項〉の捉え方は物語る行為を分析し、構造化するだけでなく、その〈語り〉をあるいは構造分析をメタレベルでもう一度、捉え直します。それは大森荘蔵の言い方を借りて言うと、「生活上の分類」で捉え、構造化するだけでなく、これを「世界観上の真偽の分類」と併せて捉えます。
 
 すなわち、双方とも読書行為である〈語り―語られる〉相関を問題化し、構造分析をするのも同じです。双方とも、〈語る行為〉に着目し、〈語り―語られる〉相関を読むのです。しかし、〈第三項〉論は語られた出来事、その〈語り―語られる〉相関のみならず、その相関のメタレベルで捉えるのです。〈語る行為〉による出来事は主体のパースペクティブに拘束されているため、その主体による真実であっても、それはその主体の一回性に過ぎないのです。別の主体には別の出来事が現象します。〈第三項〉論はこの〈語り〉の虚偽性を捉えるのです。すなわち、我々の世界観が「生活上の分類」でなされていることを新たに「世界観上の真偽の分類」で捉え直すのです。

 ナラトロジーは「生活上の分類」しかありません。自然主義リアリズムを虚偽とするまなざしは〈第三項〉を必要とします。マルクス・ガブリエルとの共通性は〈第三項〉論でなければあり得ません。
 
第二点、
 芥川文学とはいかなることか。

 これについては丸山義昭さんが長岡で主催する講演会・研究会で、九月二十九日にお話しし、画像と共にブログで公開します。

第三点、
 「客体そのもの」は存在するのか、しないのか。

 これは言い方に注意が必要です。存在するかしないかは、常にそう捉える主体を前提にすることが肝心です。明確に前提にして、これを考えてみましよう。客体そのものは捉えられないけれど、その捉えられないという認識を前提にして、客体そのものは存在します。何故なら、主体によって捉えている客体は主体では永遠に捉えられない客体そのものがあるから、主体の捉えている客体もあるのです。これは例を出して考えればすぐわかります。

 我々は『三四郎』が読めるのは、誰も『三四郎』そのものは読めないけれど、『三四郎』そのものがあるからです。客体そのものはあるけれど、永遠に捉えられません。客体そのものとは単に客体のことを言っているのでなく、捉えている客体の外部、〈向こう〉なのです。「そのもの」という観念、それ自体が一つの世界観を示しているのです。
主体と客体と客体そのものという世界観、この〈第三項〉を介在して、世界を捉えようというのが、〈第三項〉論です。

 ちょっと難しかったかな。

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成さんの質問に答えます

2018-08-25 08:42:30 | 日記
今日のブログのコメント、

成さんから以下のような質問がコメントに寄せられましたので、
こちらでお答えします。

田中先生、一つ質問があります。
ロランバルトは「還元不可能な不可能」の境地を開いたのに、「読む」ことは「爆発」だの「散布」だの、「横断」だのと言って、相変わらず文学の「生命の《尊重》」の価値を無視したのはなぜでしょうか。それはロランバルトという人が愛という言葉自体を信じていないからだと感じております。それに対して、「第三項」論は「愛」を前提としていると感じております。いかがでしょうか。


ちょっと難しいですよ。もう二十年ほど言い続け、いや、その前の三十年前から語り、今月号の八月号の拙稿もこの問題を言いづけています。

 まずバルトの「爆発」とか「散布」とかは客体の対象を書かれた文字として捉え、「テクスト」は読みのアナーキー、永遠にこの書かれた文字には辿り着かない、客体の文章はそのまま捉えることは出来ない、正解は永遠にないという考えです。つまり、客体の対象の文字に「還元不可能」であり、バラバラな「複数性」になるという考えです。私はこれを現在、了解不能の《他者》,〈第三項〉、あるいは「客体そのもの」と呼んでいます。田近さんに限らず、まだ多くの研究者に伝わっていません。

繰り返しておきましょうね。

 バルトの第一期、「物語の構造分析」の時代はまだ「テクスト」概念はありませんでした。構造をなす文字群は実体としてきっちりあると考えていました。「容認可能な複数性」の時代です。
 ところがバルトはこれを脱し、「テクスト」概念になると、客体の対象の文章は「エクリチュール」、書かれた文字として、この「構造分析」から百八十度転換、「テクスト」分析になり、世界観認識が大転換します。
 すなわち、読書行為は客体の対象の文章の文字の羅列、「エクリチュール」であるため、これに届かない、と考えるように転換したのです。
 何故ならソシュールの言うように、文字=「クリチュール」は概念(シニフィエ)と視覚映像(シニフィアン)とが任意に一体化することで成立し、両者は一旦、分離することによって、読み手に機能する、言語は、こうした機能だったのです。
 読み手は眼前の文字の形、シニフィアンを視神経で知覚し、この連続が脳内現象を起こし、概念の連続をコンテクストとすることで、一定の意味内容をつかみ取り、読書行為が成立します。
 文字の痕跡が紙の上に残っている瞬間、脳内では読み手各自の一回性によって知覚した概念の連続の現象が文脈を生成していきます。これが読書行為をなすのです。
 もう一度言います。
書かれた文字は紙の上のインクの跡と読み手各自の脳内現象という分離を起こし、これが読書行為をなすのです。
 読むとは元の文章に戻りません。「還元不可能な複数性」です。田近先生と何度も論争でこれを言っています。是が読む事の学問の基本だからです。
 第二期のバルトは生命の尊重ということの不可能性のに立ち会っていたのです。無視したのではありません。その逆です。読むこと、聖書を読んでも聞こえてくるのは自分の声だったのです。ここからいかに立ち上がるか、それがつぎの「明るい部屋」の世界です。

 聖書の言葉もまた読み手によって読み取られ、客体の文章そのものは読めない、みんな読み手次第、バラバラです。一旦、神の言葉は人間の言葉に置き換えなければなりません。これにバルトは気づき、第二期に入りました。
 神学論争です。
 客体の文章は正しくは読めず、読み手に捉えられた文字の意味を読み手が自分で捉えていることでしかない正解のない行為、そこで読むことを「爆発」だの「散布」だの、「横断」だのと言うしかなかった、
 文学研究は一旦、文化研究に転換するしかない、研究を学門として進めていくとこうならざるを得ませんでした。
 一般の文学研究や国語教育は言語とは何かの問いを持たず、こうしたごく基本的なことがまだ学問として十全に行われていません。
 私はバルトとは別に、独自に1988年の「〈他者〉へ」という拙稿で、「了解不能の他者」という観念を提出、私のなかの他者を読む行為が読むことだという考えを提出、二冊の本を書き、のちに「第三項」という観念に至り、今月号に至りました。

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