〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

前回の続きです。

2022-06-22 13:28:00 | 日記
前回の記事の続きです。

前回は何故「映画の早送り」をしながら映画を観るという若者の広がりを私が気にしているか、
と言うと、それはこれが二十世紀末のポストモダン問題の陥った昏迷の一つの現れ
と考えているからです。
生命の在り方、根幹に向かえずに途中で折り返し、
情報化社会の様々な情報に身を任せることになった結果と考えたからです。

文学研究を進めていくには、それまでの文学研究では収まらなくなった、
そのため、私は原理に向かわざるを得なくなりました。
原理解明のため、私は教育という異分野を必要とし、
広く国民の視線と関わろうとしました。

こうしたことの中には二律背反の矛盾を孕んでいます。
誰にでも伝わるように、他方、誰も考えていないところに進むようにという背反です。
この克服が必須、そこでこの半世紀を経てみると、自身の書いてきたこと、
矛盾の克服ではなく、誰にで伝わるようにとのみ書いたものがあり、
これを今は恥じ、深く反省をしています。
当然今はこれを斥けなければなりません。

李勇華君や呉暁東氏のような論文でなければなりません。
前回の記事で、呉氏と私との通訳を交えてのやり取りが公開されていると書きましたが、
それは小さい会での公開であり、一般公開ではありませんでした。失礼しました。
(既に記事は訂正しています。)

ともかく、「映画の早送り」が広がるのと、文学研究の現状で近代小説の作品が
「手っ取り早く読まれること」、その既存の読みの枠組みで読まれることとは、
共通しています。
ではこれに対してどうしたらよいか、田中、お前はどうしているか、と問われるでしょう。
私は作品論を書く傍ら、原理論に向かってきましたが、今年三月にはこれを正面に据えて、
都留文科大学の紀要掲載の「近代小説の《神髄》―「表層批評」から《深層批評》へ―」で、
近代小説の神髄をリアリズム批判に求めました。
これは原理と具体的な作品論との連環が要請されているため、
具体的な作品論を次に紹介します。
鷗外の小説として代表作とは言えない、近代小説を敢えてご紹介します。
先日、津和野の鷗外記念館で話したばかりの『鶏』という小説です。
長くなりましたから、次回そのレジュメを取り上げます。
今日はここまで。

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