〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

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若松英輔さんの『走れメロス』解説のこと

2018-08-24 09:33:28 | 日記
一昨日の続きを書いておきます。
NHKのテキストを購入してみました。
読んでみると、若松氏の『走れメロス』の解説は流石に内村鑑三論などの書き手、
全体に好感を持ちましたが、この作品を名作と評価しています。
ところが、私は拙著『小説の力』で「同情の余地のない失敗作」としています。

『走れメロス』は愛と信頼、友情の物語、
これを評価する鍵はどこにあるのでしょう。
これは多年国語教科書教材の定番中の定番、国語教材の代表作のひとつです。
そこで、余りに問題が大きすぎることを言うようですが、
実は、この作品は発表以来、「心」という領域と作品の構造の問題が見過ごされている、
と私は感じています。
何が罪か、文明論がこの作品の〈読み〉の背後に横たわっています。

このお話は末尾近く、メロスが刑場に到着すると、身代わりになってくれたセリヌンティウスに、
「私は、途中で一度、、悪い夢を見た」と告白し、その裏切りを詫びます。
セリヌンティウスも「たった一度だけ、ちらっと君を疑った。」と明かし、二人は抱き合い、
王はこの信頼と友情の証に加担し、民衆の歓喜に包まれて、めでたし、めでたしで物語は終わります。
が、私はメロスが裏切ったのは一度ではなく、二度だと考えます。
作品の〈語り手〉はこれを見逃した、のみならず、読者もまた、
これをほぼ例外なしなしに見逃してしまいます。
読者共同体が人間の内面の働き、「心」という直接目に見えない領域は問題化しないで、
形式、あるい、目に見える出来事を問題する文化にあるから、
こうした読み方になると私には思われます。

確かにメロスは濁流を泳ぎぬき、山賊と闘い、疲労困憊で、身体が動かなると、
「もうどうでもいい。」と投げやりになり、走ることを放棄し、眠りこけます。
目が覚めると元気になっていました。そこで今度は元の約束したメロスの世界に戻ります。
この時、一度、友を裏切っていました。これは明らかです。
しかし、 メロスの裏切りはその時のことのみではなく、その前日、妹の結婚式の宴席で、
「一生このままここにいたい」と願いながら、「いまは、自分のらだて、自分のものではないる」と煩悶し、
翌日を迎え、これを振り切り、疾走するのがこの作品の肝心要の箇所です。

メロスは確かに祝宴の翌日、「我が身に鞭打ち」、出発します。
だから、国語教育を代表する田近さんはこの時の私の考えに対し、
メロスは裏切っていない、刑場に行こうとしているではないかと斥け、
太宰文学を専門にする東大の安藤宏さんは私の説を批判して、前者を「自意識の煉獄」と捉え、
後者は「その自意識の質に根本的な相違がある点に注意が必要だろう。単純で自分勝手な忘却と、
〈挫折〉を〈挫折〉として認識した煩悶との間には決定的な相違があるわけで云々」と論じました。

極限的な疲労困憊、体が動かない時のメロスの心の動きは、もちろん、裏切りを余儀なくせざるを得ず、
投げやりになるのですから、裏切りははっきりしています。
しかし、五体満足で、自由に酒を飲んでいる時、このまま「ここにいたい」と思う、
この心の動きもまた重要なのです。
確かにそういう思いを持ちながらも、他方ではその思いをメロスは否定しています。
この葛藤それ自体をセリヌンティウスに対する裏切りと感じるかどうか、ここが問題の分かれ目、
メロスは山賊と闘った後の時は、走ろうにも身体が動かず、その後、気持ちが変わる。
この時の苦闘を安藤さんは「自意識の煉獄」と呼びますが、
実は、この時、「ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。」との思いになり、眠った後、
目が覚め、体が自由になると、「あれは夢だ。悪い夢だ」と今度はまた百八十度変わります。
まさしく、自身の生理的条件によって、メロスの内面は極から極へと変転しています。
『羅生門』の下人とそっくりでしょう。
視点人物のメロスがどうでも、問題は〈語り手〉がこれを問題化するかどうかです。

メロスはこの変転は彼が情況で世界の見方を得てしまう、センチメンタリストだったことを示しています。
『羅生門』の〈語り手〉なら、定稿になると、視点人物下人を相対化して、
下人のまなざしと〈語り手〉のそれが重なる世界の闇、認識の闇にまで辿り着きますが、
太宰のこの作品は〈迂闊な語り手〉によって、メロスの心の動きが抉られていません。
都留文科大の紀要に書いたように「自意識の煉獄」にいるなら、
『斜陽』の直治の「夕顔日記」のような叙述が要請されます。


イエスの教えは行為ではなく、心で思うかどうかです。
この小説が愛と信頼の物語りなら、行為ではなく、心が問題、姦淫は行為ではなく、
心で思うかどうか、キリスト教世界では罪=裏切りは行為のみならず、心の問題です。
心の問題はキリスト教徒であるなしに問題でしょう。
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1 コメント

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Unknown (山本)
2018-08-28 22:58:19
「この作品は発表以来、「心」という領域と作品の構造の問題が見過ごされている」という言葉で、『少年の日の思い出』と同じであるということの意味を理解したように思います。「このままここにいたい」というメロスの言葉は自身で打ち消し出立しています。けれどだから帳消しになるというように考えるその「心」こそ〈語り手〉が問題にできなかったところだったのだと。
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