花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

チビ雄、遠足へ行く

2010-11-02 15:32:03 | 日記

Kちゃんのことでバタバタしていた10月でしたが、22日 チビ雄さんもバス遠足があり枚方パーク(通称:ひらパー)って大きい遊園地へ遠足に行ってきました。
枚方パークの前身は寝屋川市にあった「香里遊園地」で周辺を住宅地として開発するために移転される事になり、枚方駅の周辺の用地を買収、1912年10月6日~11月25日第三回菊人形展が枚方で開催され、これが『ひらかたパーク』開業の起源となりました。

菊人形展は1919年~1922年に宇治で開かれていたそうで、1923年以降は枚方での開催が定着しました。菊人形展は第二次世界大戦中も「戦力増強決戦菊人形」と呼称されて1943年(昭和18年)まで続けられました。1948年ごろまで吹田市にあった遊園地:千里山遊園でも菊人形展を開催していた記録もあり、1948年以降は枚方での開催のみとなっておりそのことが千里山遊園の閉鎖の一因とも言われてる!?らしいです。

1996年7月20日、80億円を投じてひらパーは敷地内を大規模改装しリフレッシュオープンを果たしました。関西の大手私鉄が運営していた歴史のある遊園地もそのほとんどが閉園となっていきつつも、その中でもひらパーは、堅調な運営を続け、数少ない私鉄運営遊園地の1つとなっています。
毎年秋季に開催されていた大菊人形展は、後継者不足などを理由として2005年で大規模なものは終了となって、義父母は楽しみに毎年出かけていたので残念がっていましたが、今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」のお陰で菊人形も復活。京阪沿線上に寺田屋などもあるから、賑わっているようです。

私は、乗り物には乗らないんだろう~って思ってました。だって、みんなで乗るのって大変そうだから。開催している『枚方大菊人形』でも見学して、薔薇園で遊んで帰ってくるんだろうなぁ~って思ってたのです。

そしたら、菊人形は見ずに乗り物にのって帰ってきたというからびっくり。。。「何に乗ったの?」って聞くと「まひろくんとね、観覧車に乗った。」(私のお友達にまひろちゃんっていますが、チビ雄のクラスにも男の子ですがいるんです。)「そしたらね~ブツブツのお兄さんが観覧車にくっついてた!」

ブツブツのお兄さんとは・・・ブラックマヨネーズの一人『吉田 敬』さんのことで、「観覧車に貼り付いて、こっちの方ブチューってしとって、まひろくんもブチューってしそうやったで~笑」ってなんのことかわかります?私もよくわかりませんが、観覧車にブラックマヨネーズの二人のシールが貼ってある車体があるらしく、チビ雄とまひろくんはタマタマ吉田敬さんの観覧車に乗ったようです。貼ってない車体もあるんですけどね。
「チビ雄はどうしたん?一緒にブチューってしたの?」と聞くと「僕なぁ。気持ち悪いから叩いとった」だそうです。
観覧車の窓は頑丈に出来てるから割れなくてよかった。。。でも、高い所に上がる観覧車だったのでちょっと怖かったみたいです。

でも、楽しそうでよかったわ。

今、ブラックマヨネーズの二人はひらパー兄さん選挙中です。当初は『小杉竜一』さんだけでひらパーのCMをしていたのですが、テレビ番組でユニバーサル・スタジオ・ジャパンとの「テーマパーク二股疑惑」が発覚し、小杉さんが相方・吉田敬の追及を受けることになったため、2代目ひらパー兄さんは来園者の投票によって決められることになって、相方との一騎打ちとなり、投票受付中で開票は「いい兄さんの日」である11月23日に行なわれる予定だそうです。吉田敬さんって、よくあるお名前なのかなぁ。。。

ここでは土日にキャラクターショーも行われいて、ウルトラマンシリーズ、『仮面ライダー』シリーズ、プリキュア5 GoGoなどで、子供たちを惹きつけています。

こちらの動画はとても上手に編集されています。ただ、電車の場面が長いので05:00以降から観ると丁度いいかもって思います。

今日もありがとうございます。


【京阪沿線旅日記】ひらかた大菊人形龍馬伝ヘッドマーク撮影記録(10/10)


ちょっと復習タイム

2010-11-02 11:49:28 | 日記
大河ドラマの坂本龍馬は今、どうなっているのでしょう?私はたまにしか観ていないのですが実家の母は欠かさず観ているようです。歴史好きな方は、読むまでもないと思いますが、私は復習がてらちょっと書き込んでみます。

 坂本龍馬は、土佐国土佐郡(高知県高知市)の下級武士、父、坂本八平、母・幸の間の次男として生まれ兄(権平)と三人の姉(千鶴、栄、乙女)がいました。本家は富商才谷屋で、曽祖父の兼助が郷士(ごうし)株を取得して分家した町人郷士といこともあり、領知197石など家産があり裕福であったそうです。龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て、また、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったこともあり、それで龍馬と名づけられたという言い伝えがあるそうです。

12歳のときに母・幸が死去して、幼年の龍馬は寝小便癖が治らず、泣き虫で漢学の楠山塾に入学したもののいじめにも遭い、騒ぎを起こして退塾させられてしまいました。それゆえ、三姉の乙女が武芸や学問を教えたとのことです。 龍馬の人格形成において、もうひとつ多大な影響を与えていったのは、後妻・伊与の前夫の実家である川島家といわれています。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、川島家をたびたび訪れて、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞き、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたそうです。 1853年3月、江戸に出て北辰一刀流千葉定吉道場に剣を学び1年余で帰国し、1856年8月にふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許を得て、1858年9月帰国。1861年8月土佐勤王党が結成されるとこれに加盟して、10月剣術修行を名目に出国、翌年1月に長州萩(はぎ)に久坂玄瑞を訪れて帰国後3月24日脱藩して大坂、京都を経て江戸へ出ます。 龍馬は、江戸で異色の幕臣、勝海舟を訪れ、その見識に感激して入門、単純な攘夷(じょうい)論を捨てて、航海術を修業し、勝を補佐して活動しました。
1863年には、勝の主唱による「神戸海軍操練所」の設立に東奔西走、10月その塾頭となったものの、1864年10月、勝の突然の失脚により操練所は解散となりこの間、龍馬は松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)ら開明の人士らから能力などを認められ、西郷隆盛とも知り合いになりました。
操練所解散後、龍馬は薩摩藩の保護を受けて、1865年5月頃に同志を率いて長崎に亀山社中を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎と協力して翌年1月20日には京都で薩長同盟を成立させました。

旦那は歴史が好きでちょ―詳しいですが、私はこの時代がバタバタと激しいので苦手です。ですが、丁度、修学旅行から帰ったばかりのKちゃん達は次「明治新聞」という題で宿題をしていて、いい機会なので一緒にお勉強となりました。 Kちゃん達は「修学旅行新聞」と国語の「宮沢賢治新聞」作り、修学旅行報告会の準備とで忙しいと言ってます。