花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

廣田神社・生田神社・長田神社

2010-11-20 21:30:46 | 神社・神話
廣田神社[歴史]

日本神話に当社の創建のことが書かれている。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。

皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。

戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。

荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。

そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社に祀られることになると神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

朝廷より篤い崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。

※ 山背根子(やましろねこ)は、山城国久世郡水主村(みずし)現在の城陽市久世にある、水主神社(みずし)」に祀られている。この神社の祭神は、始祖「彦天火明(ほあかり)」から九世孫の「山背大国魂命」となっており、その「山背大国魂命(やましろおおくにみたま)」は、「玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)」のことで、この地域の祖としている。

生田神社[歴史]
201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。“海上五十狭茅(うなかみのいそさち)”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。祭神の稚日女尊は「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも言われる。

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

*海上五十狭茅(うなかみのいそさち)
神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代生田神社祭主となったという。麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。なぜ戦った相手の子に奉祀させたかは不明。本当であるとすると、壬申の乱の後の石上麻呂の様に、敗者側関係者が栄達?を遂げたこととなる。子だけ、神功皇后、応神天皇側についたのかも知れない。

長田神社[歴史]
神功皇后が新羅征伐の後、難波へ凱旋の折り、武庫の水門(みなと)において、「吾が御心長田の国に祀れ」というお告げを受け、山背根子の娘・長媛をして創祀せしめた神社。廣田神社を創祀した葉山媛は、長媛の姉。鎮座1800年。

祭神は、事代主神。国津神で唯一の宮中神殿八神の一柱。皇室の崇敬が篤く、明治29年には官幣中社に列せられた。


*麛坂皇子(かごさかのみこ、? - 神功元年(201年)2月)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。香坂王、麛坂王とも。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄(景行天皇の皇子)の女・大中姫。応神天皇の異母兄に当たる。

『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は誉田別尊(後の応神天皇)を産んだ。このことを知った麛坂皇子は次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、同母弟の忍熊皇子と共謀し、筑紫から帰京する皇后らを迎撃しようとした。皇子は播磨の赤石に陵を築くと偽って陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖)に兵を興させた。しかし、菟餓野(とがの、大阪市北区兎我野町か)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)の最中、に食い殺されたという。

*忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 神功皇后元年(201年)3月)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。忍熊王、忍熊別皇子とも。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。麛坂皇子の同母弟。

『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)を出産したとの報に接した忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の麛坂皇子と共謀して、筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を興させた。
ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を占う狩を行った際、麛坂皇子が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。

皇子軍は更に退いて菟道(うじ)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れた(『書紀』。『古事記』のこの戦闘場面に武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上、WIKIより引用

日本書紀巻九第三話より
表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお)の住吉三神は皇后に自分を荒魂を穴門の山田邑に祭るように言った。穴門直の先祖の田裳見宿禰が助言していった。
田裳見宿禰> 神の居りたいとおもわれる地に祭りましょう。
皇后> わかりました。そのようにしてください。
そこで践立(ほむたち)を荒魂をお祀りする神主として、社を穴門の山田邑に立てた。

日本書紀巻九第四話より

皇后は忍熊皇子が軍を率いて陣取り待ちかまえていると聞いて武内宿禰に命じて、皇子を抱いて迂回し南海から出て紀伊水門(きいのみなと)に泊まる。そして真っ直ぐに難波に向かったが舟が海中でグルグルと回り進まなくなった。そこで務古水門(むこのみなと)に帰って占う。
天照大御神> 我が荒魂を皇后の近くに置くのは感心せぬ。広田国に置くがよい。
稚日女尊> 私は活田長岐国に居たいと思う。
事代主命> 吾を長田国に祀るように
稚日女尊を祀った活田とは生田であり、神功皇后が応神天皇を育てた「生立」(イクタ)であり、卑弥呼の墓のある「生立」(オイチ)のことです。
事代主を祀った長田とは京都の卑弥呼宮のあった狭長田の「長田」のことであり、ニニギ命が出発した天の浮羽の狭長田の「長田」らしい。日本書紀の「天照大御神は天狭田と長田に神田を持っていた」の「長田」で共に神功皇后の山代(ヤマタイ)国の「生立」のすぐ近くらしい。

一方天照大神は「皇后の近くに置くのは感心せぬ。広田国に」と言われ、「広田国」とは「碩田国」のことで「碩田国」とは景行が土蜘蛛退治のときに、九州東海岸に、上陸した国。「碩田」は「ひろた」としか読めず、「碩田」は、「大分」の古名と言われいる。




The Ivy / the HIATUS

2010-11-20 16:31:38 | 音楽(男性vo)

The Ivy / the HIATUS

ELLEGARDENのボーカル、細美武士が立ちあげたバンドです。細美さんは千葉県香取市出身。そしてほぼ全楽曲の作詞・作曲を担当していて過去の職業経験を活かし、作詞する(歌う)大半の曲が英語詞になっています。

2ndアルバム『ANOMALY』をひっさげて、the HIATUSが7月~10月まで全国35公演を巡ったツアー〈ANOMALY TOUR 2010〉
その中から9月25日にZEPP TOKYOで行なわれたライヴの模様が11月20日(土)の22:00~22:30にスペースシャワーTVにてライヴ特番としてオンエア。