花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

住吉さん

2010-11-17 04:22:54 | 神社・神話

天王寺動物園の中に何度かこのポスター「特別展 住吉さん」http://sumiyoshi.exh.jp/をみかけました。住吉大社の赤い「反橋」は、太鼓橋とも言い川端康成の小説『反橋』(1948年発表)の舞台にもなり(中央部の高さ4.4m、最大傾斜は約48度)浪速の名橋50選にも選定されるなど有名です。住吉大社にはたくさんの樹木が残 っており昔、海岸が近くにあったので海の近くで育つ植物なども多く見られます。

姉妹とチビ雄も住吉さんで、初宮参りをしたし、チビ雄が生まれてない時に姉妹は七五三もしました。「住吉さん」って阿倍野に住んでいた頃からとても馴染みのある神社です。

祭神は、第一本宮(底筒男命)第二本宮(中筒男命)第三本宮(表筒男命)第四本宮(息長足姫命= 神功皇后(じんぐうこうごう)となっており、古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中で、由緒が深く信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられています。現在は全国の住吉神社の総本宮でもあり、住吉大社は、昔から伊勢神宮や香取・鹿島・賀茂社などでも同様に20年ごとに本殿を新しく建て替える遷宮を行い、来年には御鎮座千八百年を記念して、49回目の式年遷宮祭が行なわれます。
また、
社殿配置は独自の特色を示しています。直線状に並ぶ第三、第二、第一本宮には筒之男三神が、第三本宮横の第四本宮には神功皇后かまつられ、いずれも西向きに建てられおります。神社本殿は通常、南向きか東向きで、西向きは類例がなく、現在、参道の入り口にある高灯籠の前は埋め立てられていますが、かつてはすぐ近くまで海が迫り、西方の朝鮮半島、そして大陸への門戸であったと言われ、住吉津に開かれた高台に西向きに鎮座するのは、このような理由によると考えられています。

祭神の由緒は、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行き、妻を連れて戻ることができず、逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために[筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原(現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町)]でミソギハラへをされたときに伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) から生まれた神が、住吉大神である底筒男命 (そこつつのをのみこと) 中筒男命 (なかつつのをのみこと) 表筒男命 (うはつつのをのみこと)の三神が海上の無事を祈る海の神として祀られています。

住吉大神をお祀りする神社が全国に2129社ありますが、福岡市博多の住吉神社は住吉の最初の神社と言われ、古書 にも「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されているそうです。しかし、十四代仲哀天皇の妻である神功皇后 が新羅 (しらぎ) に出兵する際に住吉大神の力をいただいたことがきっかけで新羅遠征により、大いに国の安定を築くことができたため、住吉大神のお告げによって神功皇后摂政元年2月に[『我が和魂は、大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながそ)<大阪市住吉区>に鎮まらせる。それにより往来する船を守護しよう』と仰せがありました。そこで神の教えのままに鎮め祀ると、平穏に海を渡ることができるようになった」とあります。そして三神の荒魂を現在の下関に、和魂を大阪市に祀ったことが知られます。

『釈日本紀』には、「この神(三神)の荒魂は、なお筑紫にあり。ただし和魂だけは墨江(住吉)にある。…そのため神功皇后は初めて、摂津の墨江(住吉)にお遷しになったものである」と、和魂が筑前(福岡)から攝津(住吉)へ遷霊されたと記されています。これが住吉大社が全国の住吉神社の総本宮となった由来であるようです。
新羅から凱旋の帰途、三神に船路を守ってもらった神功皇后が皇后摂政の11年、辛卯(かのとう)の歳に住吉大神を鎮座し、やがて皇后も「われは大神と共に相住まむ」としてこの地に宮殿を定め、遣唐使を送る折には丁重に奉祀されました。

海の神である住吉三神と息長足姫命(神功皇后)を祀り、「住吉大神」、「住吉大神宮(すみよしのおおがみのみや)」ともいい、大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社、の三社が「日本三大住吉」とされています。また、住吉大社の石舞台は、四天王寺(大阪市天王寺)の石舞台、厳島神社の平舞台と日本三舞台の一つです。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよのごだん)を祖とされ、また八幡神である応神天皇の母の神功皇后を加えた住吉大神は、八幡神の祖神とされ河内王朝の守護神とし、八幡神が陸の軍神であるのに対して住吉神は海の軍神ともされ、さらに後年は和歌の神(和歌三神の一つ)になっています。住吉大社は、文化・芸能(げいのう)の中心でもあり、平安時代(794年~1192年)には和歌の神として信じられていました。それは人々が海浜の美しさに感動し、和歌をささげたり、神様が和歌でおつげをすると言われていたためで1684年6月5日には、井原西鶴(江戸時代の歌人・作家)が1日で23,500句の和歌を住吉大社でつくりました。

また、住吉大社には薩摩藩祖の島津忠久(惟宗忠久)が住吉さんの稲荷で生まれた場所と言われる誕生石があります。忠久の母が、ある理由で鎌倉を追われた際に命からがらたどりついた大阪の住吉大社の境内で産気づき、そこで忠久が誕生したとき雨が降り、暴雨風の中を守ってくれたのが稲荷大明神の狐火だったと言い伝えがあります。そういった理由で島津忠久は、自分を守ってくれたお稲荷様を敬い、自分の治めていた領地の3か所に稲荷神社を創建したといわれています。

住吉大社は、大阪市住吉区住吉にある神社で大阪の総鎮守と言われ地元では親しみを込めて「すみよしさん」「すみよっさん」と呼ばれています。毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名で平成23(2010)年で御鎮座千八百年を迎え、この特別展では住吉さんの歴史に関わる史料、歌枕の地[住吉]を歌う和歌、住吉神や住吉社を描いた絵画、工芸品など200件を展示し、日本美術における[住吉]像の変換をかつてない規模で紹介しています。
その中で、目を惹いた作品が[住吉神像]という住吉神の絵姿です。
住吉神は頭巾をかぶり、団扇をもち、杖をついて腰を屈める老翁に描かれることが多くて、住吉の地を象徴する松と神の使いであるサギも共に描かれています。
また、神功皇后の新羅遠征を手助けするために、住吉神が老翁の姿で現れ、陣痛力を発揮し、軍船の航海を導く葺屋の津では(福岡県)、住吉神が海中の大岩を矢で射貫いて人々を驚かせたという絵巻物や漁夫として小舟に乗った和歌の神(住吉神)と、唐の詩聖で大船に乗った、白楽天が筑紫の海で詩歌を交わしてやり取りをする能の演目[白楽天]の一節が描かれた屏風・重要文化財に指定されている[舞楽面綾切]など興味深い作品が出展されています。

 結婚前に友人のお姉さんがこの住吉大社で結婚式を挙げた際の写真を見て、太鼓橋と白無垢の花嫁姿が印象的でした。太鼓橋は本当にきれいです。お天気のいい日は池にくっきりと橋が映るのでこれまた、見とれてしまいます。最初に住吉大社にお参りに来たのはkちゃんの安産祈願で当時は谷町線の八尾の方に住んでいたのだけど、そんな憧れもあり住吉さんがよくて電車2つ乗り継いで来ました。最初、お宮が四社もあったのでびっくりしました。でも巫女さんは頭に松をつけてらして、何だか神秘的ですよ。太鼓橋の架橋当時は住吉大社付近に海岸線があって本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされていたそうですが、この太鼓橋は実際に歩いてみると結構な勾配です。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っている構造になっているんだそうです。最大傾斜は約48度ですもんね。。。老朽化に伴い何度か、かけ直され最近で2009年におこなわれ、今は新しい橋なようです。

住吉さんは、大阪を誇る!?大切な神社なのだですねきっと。確かに、都会にある割には森も豊で情緒がありますからね。住吉区から住之江そして南港といくと大阪港へと繋がります。
住之江と聞くと競艇ボートでにぎわっていますが、「住吉神が老翁の姿で神功皇后の新羅遠征を手助けをした」と知って、この老翁って・・・火の用心おじいちゃんみたい・・・って秘かに思いました。火の用心おじいちゃんって正しくは日本船舶振興会(日本財団)の元会長笹川 良一さんですけど、福岡工業大学理事長を務めたりして本当に老翁とダブります。1995年に96歳で亡くなっておられますが、社会奉仕活動、特にハンセン病患者の救済活動については神じゃないかと思うほどです。ハンセン病についてはまたの時に、お勉強しようと思います。

住吉神社が福岡の博多にもあることも、はじめて知りました。博多・・・ラーメンとめんたいこの街。機会があれば行ってみたいです。

今日も長文、読んでいただいてありがとうございます。