花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

19日 春日大社

2010-11-28 15:31:24 | 神社・神話

春日大社の表玄関、一之鳥居をくぐると東へ、馬場としても用いられた真っすぐな参道が続きます。藤原氏の貴族たちが、華やかな行列を整えて進んだ道でもあり、入ってすぐ右手の丘の上には、おん祭に神様が降りてこられるという影向の松があります。二之鳥居までの途中に、隣接の奈良公園に属する、飛火野の小高い中央部を流れる水流は、春日山に発する神聖な水谷川の水を分水したもので、興福寺境内へ流れ込んでいます。

 二之鳥居をくぐれば、いよいよ神域の感が強くなり、その昔、貴族たちは、車舎(車やどり)に牛車や馬を繋ぎ、祓戸神社で身を清めてから二之鳥居をくぐりました。二之鳥居には瀬織津姫を祀る祓戸神社があり、参拝者はここでまず身を清めてから参拝するのが習わしとなっています。春日祭の祓戸の儀はこの御社前で行われます。

二之鳥居をまっすぐ表参道を上がると春日大社の高さ12m楼門「南門」があります。 回廊は四方を巡る建物で、南回廊は南門を中心に東西に21メートルずつ広がり、両端は北折れして東西の回廊につながります。

境内には多数の摂末社があり、本殿の東側に天押雲根命(比売神の御子)を祀る若宮神社があり、第2番納札社:三輪神社、第3番納札社:兵主(ひょうす)神社、第4番納札社:南宮神社第、5番納札社:広瀬神社 、第6番納札社:葛城神社、 第7番納札社:三十八所神社、第8番納札社:佐良気(さらけ)神社、第9番納札社:宗像(むなかた)神社、第10番納札社:紀伊神社、第11番納札社:金龍(きんりゅう)神社、夫婦大国社(めおとだいこくしゃ)があり、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めています。

平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。

春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、藤原不比等が、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を春日山に遷してまつったのが春日大社の始まりとされています。そして、千葉の香取神社にまつられていた経津主命(フツヌシミコト)と大阪の枚岡神社にまつられていた天児屋根命と比売神様の四柱の神をもって春日神と総称されました。比売神とは「比め神」とも書かれ、天照大御神だったとも言われ、天児屋根命の妃神と伝えられています。「平和と愛の尊い神」であり、この四柱の神々は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座され、春日四所明神、春日大明神と言われています。

天児屋根命は神事と政治を守り導かれる神様として有名で、武甕槌命の「武」は武勇を表し、「甕槌」は御雷(みかづち)の意で、文字通り「神鳴り」の猛々しさを表し、武勇・戦勝・勝運の神としての信仰のほか、その業績から開拓・平和外交の神として祀られています。日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡(理)に治められた功績ある神様です。春日大社では経津主神が武甕槌命と共に祀られており、香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものだそうです。 名前の「ミカヅチ」はイカヅチ雷に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の縮まったもので雷神は剣の神とされています。

この時、武甕槌命は白鹿に乗って御蓋山(三笠山)に来られたという伝説から、鹿を神鹿として現在も保護、敬愛されていますが鹿は予知能力に長け、昔の人は、泣き声などで嵐、地震、天変地異を告げる様子を見て、対策をしたと言われ、鹿に助けられてきました。そして今は、人間が鹿を守り「共存」しています。

経津主命(フツヌシミコト)は『日本書紀』でイザナギがカグツチを斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしています。(カグツチは、イザナギとイザナミとの間に生まれた火の神でで、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、イザナミは死んでしまい、怒ったイザナギに十拳剣「天尾羽張で殺された。)

『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記され、経津主神は香取神宮でも祀られている神で、神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるそうです。

また一説には、比売神とは瀬織津姫のことであったとあります。瀬織津姫は祓戸四神の一柱災厄抜除の女神とされ、瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多く、天照大神の荒御魂とされることもあります。兵庫県西宮の廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としており、戦前の由緒書きに「瀬織津姫を主祭神とする」と明確に記されていました。武甕槌命か経津主神のどっちかのお嫁さんだったのかしら~!?

春日大社は藤原北家の氏社として創建されたようで、平安時代には藤原北家の隆盛と共に栄え、同じく藤原氏の氏寺である興福寺との関係が深く、813年に藤原冬嗣が興福寺南円堂を建てた際、その本尊・不空絹索観音が、春日大社祭神・武甕槌命の本地仏とされたこうして神仏習合により興福寺・春日大社は一体のものとなっていたとされています。

 この日はお参りに行くと、結婚式が執り行われていて白無垢姿のお嫁さんと袴羽織姿のお婿さんが小さく写っているのですが、わかりますか?お天気も良くてとてもいい雰囲気でした。平日でのこういった結婚式に遭遇するのはとっても珍しいですけど、幸せのおすそわけを頂いたようでした。そして巫女さんは、慶賀門と呼ばれるところにある、砂ずりの藤をイメージにした「藤の花」を髪飾りにして、可愛らしい感じがしました。巫女さんと言うと、ちょっと話はズレますが歌舞伎の創始者といわれる女性芸能者「出雲の阿国」は、伝承によれば、出雲大社の巫女となり、出雲大社勧進のため諸国を巡回したといわれています。そして、天正10年5月(1582年)『多聞院日記(奈良興福寺)』に「加賀国八歳十一歳の童が春日大社でややこ踊り」を行ったという記事があります。「8歳の加賀、11歳の国」という二人の名前と解釈し、「出雲の阿国」(1572年生まれ)であったとされています。

春日大社で特に目立ったのは、灯篭の多さです。本殿内の回廊につり下げられた灯篭や参道の脇にも多くの灯篭があり、神仏習合の地であるかの象徴のように個人的に思いました。Kちゃんが修学旅行の旦那へのお土産が「鹿」の携帯のストラップだったのですが、厳島神社にも鹿さんがいたそうで、神仏習合といい鹿といい、何だか帰り道は修学旅行生が参道にいっぱいたから私も、修学旅行に来た気分でした。今は珍しくなった私たちの世代のセーラー服と学ラン姿の中学生もいて懐かしくもありました。

今日11月28日は通常は入山が厳しく制限されている神域に入り春日山原始林にお鎮まりになる、摂末社を巡拝する「春日山錬成会」が行われているそうです。年4回の一回で、午前8時半から開催されているそうです。お天気が良くてよかったですね。

今日もありがとうございます。