五兵衛と長男・喜太郎、次男・佐八郎は共犯として永牢(無期懲役)とされました。喜太郎は、獄中、身の潔白を信じて日々を送りました。すると、五兵衛の孫娘で喜太郎の娘、千賀は無実を信じ、身代わりとして牢に入ることを願い出て、直接公事場へ「百日駆込訴」といって早朝、顔も髪も洗わず素足で百日の間、数里の道を駆けて公事場へ哀訴(あいそ)したといいます。
でも、無常で氷のような役人らは、暴力をもって彼女を門外に突き放し、足けりにするのが常でした。
しかし、神仏の加護を深く念じた彼女の血涙の孝行心が世間の同情を買い、藩主を動かして、喜太郎・佐八郎は釈放されます。
が、その千賀も「百日駆込訴」がたたってか、26歳で病死し喜太郎は、先を思うあまり自害し、佐八郎も病死しました。
これにちなんで、銭屋五兵衛の長男の喜太郎が福光に逃れて来て自殺をとげた悲しい物語があります。
喜太郎は、家名断絶の上、生業も家財もなく、途方に暮れたのですが、富山・福光の糸問屋、前田屋源兵衛(のちの前村源治)を訪れることにしました。
福光の生糸は、今から三百六十年前慶長の昔、美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)から来た医者の奥様が座繰製糸(ざぐりせいし)を伝授したことに始まったもので、福光の生糸は曾代(そよ)糸ともいい、旧来は福光の産業として国内は勿論、徳川鎖国時代、銭屋五兵衛の密貿易によって外国にも渡り、その名声を博していました。
前田屋源兵衛は銭屋の資本のひとつ、福光の糸を残らず買占めて預け置いた家で、喜太郎は妻を従えて福光の前田屋を訪れ、行末を相談しましたが、前田屋は小判数枚となにかしの涙銭で、非情にもとりあってくれず、喜太郎夫婦は城端の善徳寺に参り、刑死した一家の菩提を弔い、山田野の路を苦悩に充ちた姿でたどり、遂に駕篭(かご)の中で自殺を計り、駕篭からしたたる血潮を、妻が草履をもって消して行くというお話で56歳の生涯を閉じるのでした。
無一文で放りだされ、世間からの風当たりが強く、娘も死んでしまい、今までの暮らしがよかっただけに、農民になるわけにもいかず、商売をする元手もなく、財を得るための生きる術も希望が持てなかったのかもしれませんね。
でも、できるなら娘の血のにじむ思いを胸に生き抜いて欲しかったな・・・と、思います。
長男といえば、うちの実家の兄から子供たちに、今年もX'masプレゼントが届きました。
兄、自分の子供できたらね、姪っ子にまでしかもKはもう、中学生だから配らないと思うのだけど(^_^;)子供たち喜んでるし、有り難いのだけど、複雑。
っていうか、兄は以前とっても好きなかわいい彼女がいて、長くつきあっていたのだけど別れちゃって、まだ、気持ちが残ってるのかなぁ…。気のせい?
兄は、前にも書いたかもしれませんが、早くして死ぬのが理想とか言ってた人で、彼女が出来たことは、とてもいいことだと思ったんだけどなぁ。
早く死ぬのが理想って言うのを知ったのは、あれは、私が1、2年生くらいのことです。
小立野の親戚の家に、兄弟で遊びに行った帰り、私と三男と兄だけでフラフラと歩きで涌波の家まで帰る途中に、大学の自販機でハンバーガーを買って、道々、3人で食べながら帰っていました。
私「歩くの疲れた~」って言ってしゃがみこんだら、なんか将来の話になって兄は「結婚はせんと、40くらいで死ぬのがいいな」とか言ってたのを記憶してます。
兄は覚えてないかもしれないけど、衝撃的だったのか、ずっと頭に残ってて、現実にならないよね~と願ってました。
兄は、この時、小学5、6年生くらいだったから、今、考えると、なんでこんな子供が、未来に希望もないことを考えるんじゃあ~って感じですね。
死ぬことを希望しながら生きる、小学生って…。
両親はこんな、子供の会話は聞いたことないと思います。子供たちだから、出た話なのかもしれないけど。
今、思えば兄は、いじめられてたわけでもなく、友達もいたので、交友関係からこんなことを言うわけでもない思います。
長い間、両親の側にいた長男として、色々な場面を見て来たからでしょうかね。
兄が生まれた頃は、父も会社を立ち上げて、仕事も波に乗って一番いい頃だったらしく、材木町という浅野川の近くにに家を構え、若い衆を下宿させて、母は飯炊き係と会社の経理と忙しくしていたそうです。
それが、京都から弟や妹が来てから、もめ事が増えて、喧嘩が絶えなくなったようでした。
父は父親(祖父)を幼い頃に亡くし、本当は兄もいましたが、兄も死に、母(祖母)と共に家計の柱として15の頃から働きに出しました。
自分の他に弟と妹が3人いたため、必死に空調の仕事を覚えて、若くから親方の下で下積みして仕送りをしていました。
その甲斐もあって技術は、その業界では一目置かれ、仕事には妥協しない人でした。
そして、幼い頃からの性分なのか、父は母と結婚してもいつも、母・弟・妹のことを気にする家族思いだったのでした。親戚で集まっても従兄弟には優しいけど、私達本当の家族は後回しとか日常茶飯事で、悪くいえば、外面がよかったのかも(^_^;)
父が独立したころ、仕事を手伝うようになった弟から「もっと給料上げて」と言わて本当は余裕もないのに、家に来て「もっと儲かってるはずやのに、給料少ない」と言われ、当時としては破格な100万近くを給料として渡したり、父の妹の叔母も、京都からタクシーを使って着払いで支払いをもってきて金沢に住むわ、勝手に家に上がって「貸して」と言って母が、嫁に行く時に持たされた着物をそのまま借りパクされたり…と、好き放題な兄弟たちだったようで。^^;
父の妹[叔母]が結婚する時には「結婚費用を出せ」と祖母が、母の実家で包丁を持ち出して暴れたりもしたそうです。なぜ、母の実家に行ったのかというと、母がお金を隠し持ってるのに、出さないからだとかで…なかったのだけど、人の家ってお金持ってる様に見えたのでしょう。
「社長」って聞こえはいいですが、実情は若い衆を雇って、家に下宿させて世話したり、飲みに連れて行くはで火の車なのに…その兄弟の言うことをなるべく叶えてあげて、父は気前がいいというか、人がいいというか。
給料というより、家族の面倒をみるのは家長として?の気持ちからしていたのかもしれませんが、父が落ち着いた土地に家族して、移り住むのはいいとして、仕事も生活も、祖母も兄弟みんなが、父におんぶに抱っこで誰一人独立しようとせず、援助してもらうのが当たり前かのようで、その癖、自分達の思う通りにならなかったら激怒するという、家庭内のもめ事がとても多かったそうです。
それから、金沢で結婚した妹(叔母)夫婦の紹介の知人に手形の詐欺みたいものにあって、不渡りを出し小さな会社は負債を抱え倒産しました。後で聞けばその話に義弟は一枚噛んでいたとか…それでも人のいい父は、変わらず親戚付き合いをしていました。
その倒産のバタバタな時に、叔父が立て直し、道具や取引先など下準備の出来た会社を、社名を変更して、弟が社長・兄が専務という変な立場?になり再スタートとなりました。
母にしてみれば、あれだけいいときは我が儘を聞いたのに困った時に助けるどころか、最初の基礎を作った父の会社を乗っ取っとられたという思いがあったようです。
それでも仕事が好きな父親はその立場を甘んじて受け入れました。
そんな様子を幼いながら、冷静に側で見て耳にしたら、兄は家庭を持つことに夢も希望も持てなかったのかもしれませんね。
私が生まれる前のことで、私は母から聞いたことですが、実際に見たり聞いたりした衝撃は、違ったでしょう。
母が父に、兄弟とは、一線を置いて欲しいと頼むと、ビール瓶を割って、母を追いかけるほどの痴話喧嘩やベルトを振り回して、威嚇するとか、何かとんでも話をいっぱい聞きました。
びっくりしただろうし、不安だったと思いますよ。幼稚園の年少さんだから4歳くらいの話ですからね。
どんなに生きていても、肩を叩かれ、追っ手が来てなじられ、平和に暮らす日が遠く感じるような、子供がそんな大人の修羅場をみて「自分は、幸せに暮らすことはいけないことなんだ」って気持ちになったのかもしれません。例えば、結婚したとしても、家族をこんな目に遭わせてしまうのは、嫌だなって。
追っ手って…血の繋がった親戚なんですが、いる限り吸いとられてしまうような、死ぬのが理想って言うのは、子供ながらに祖母や母が「殺される」恐怖の気持ちから、近くで死を感じたから、未来に光って見えなくなって、生きることができるか、不安だから出た言葉だったのかもしれません。