花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

ナット・キング・コール- Mona Lisa.

2010-06-30 23:54:25 | 家族
Nat King Cole- Mona Lisa.avi

30日は父の一周忌で里帰りをしていました。Mona Lisaは、父の葬儀の際に流していた曲です。ナットキングコールの曲は葬儀で流していても暗くならず、軽快な感じです。一週間前に父の誕生日を迎えた兄がベスト盤のCDをプレゼントに買って来てたものです。
父には弟がいました。その弟とは喧嘩も耐えず、父が興した会社が倒産しそうになったドサクサの時に弟が建て直して自分の会社にしたりしたことで色々とイザコザがありました。その後、父は経営者から社員という少し寂しい立場になった経緯があります。
仕事のない弟の相談にのって、京都から金沢に呼び一緒にダクトの仕事をしようと教えたのも父で、生活面での援助もしていたこともあり兄弟の立場が逆転して、どんな気持ちだったのかな?と考えると切ないです。弟だけでなく、祖母と妹(伯母)2人も金沢に出て来て生活の面倒を落ち着くまで見てあげたり、妹の旦那にもダクトの仕事を教えたのも父だったそうで、一家の貢献度は高かったのです。「兄さんがいたから私たちの今があるのね。」と伯母が先日の法要の際に言っていましたが、本当にそうだなぁとつくづく思います。

倒産後は一応、専務という役はもらっていたけど、自分は元社長で兄であるという気持ちがあり弟はドライな感じで社長という立場で接するし、母の話しを聞くと「軽視されてた」と言うので父は若い頃は腹も立ってたでしょうね。でも、仕事ができれば満足というお気楽な面もあったと思います。経営と職人の二つは器用にできる方ではなかったでしょうから、結果、よかったのかもね。って感じます。
父は仕事が好きでした。中学を卒業して見習いとして働き、母(祖母)と3人の弟と妹のために仕送りをしながら身につけた仕事でしたが、建物の空調を整えるには欠かせない技術で、その技術は他の業者からも「兄貴に任せておけば安心」と定評があり、私が思っている以上に仕事のできる父だったのだと思います。だから、末の兄が同じ職場で仕事をしていると「兄貴の息子やな~」と納得されることもしばしば。当時のその業界では、名は知れ渡っていたらしいです。
当時は私は幼児だったので詳しいことはわかりません。だから、イザコザがどういうものだったのかわからないけど、今はそれでいいのじゃないかと思っています。伯父(弟)は私たち家族のピンチも助けてくれたので、本当のところ持ちつ持たれつ間柄だったのだと思います。

どちらかというと父が悲しい気持ちでいたのは定年を迎えてからのことです。父の中には定年を迎えても会社内で後進の指導も兼ねて、現場に出ることはなくともまだまだ働けると思っていました。親戚であるから、働かせてくれるだろうと思っていたところに、定年で退職してくれと言われたことが悲しかっただろうと思います。それも、昔のイザコザの借金があるから「退職金をだせないし、解雇という形にして雇用保険をもらえるようにするから」と言われたことにあったと思います。お金は貰えても「解雇」じゃねぇ。そして自分はいつまでも兄弟だと思っていた弟から、関係を切られたような寂しさを味わったこともあるのでしょう。そのショックから定年後すぐに、突発性難聴炎になったり荒れていたそうです。しかし、伯父側にも経営者としての理由はあったことでしょうから、仕方がないのことです。
母にこの話をすると、粘着力の強い感じで話し出すので嫌なのです。話す人が私ぐらいしかいないのはわかるのですが、冷静に聞くと過剰な被害者意識と恩着せがましい感じが溢れて来ます。
肝っ玉母さんも血の濃い親戚が絡むと、過去を消化するには時間がいるようで「そんな風に言うのやめよう」と言ってやっと我に帰ります。自分では粘着力の強い念を出してる気はないのです。この無意識な感じが私は引いてしまいます。

過去は気持ちひとつで、きれいにできるというか、前向きに生きる手立てにもできる思います。相手やその時の状況を想像すると「人は完璧ではない」と感じます。人間だから間違えるし、お金や地位に目が眩むこともあったり。。。
でも、今はこれからは、きっと違う。間違いに気づいて、やり直したい気持ちでいるかもしれない・・・ってそんな気持ちを持つと、明るくもなるし父も喜ぶでしょう。いろいろとあっても兄弟で家族だったのですから。

そんな伯父は父よりも早く体が弱くなり、父が亡くなる1カ月半前に先に旅立ちました。その3カ月前に車椅子に乗って面会したのが最後でした。伯父は喉を切開していたので話しはできませんでしたが、2人会話はせずとも手に手をとって感慨深い面会をしたそうです。
伯父はどう思っていたかはわかりませんが、父は兄弟の父親代わりをしていた性分もあり、自分が寝たきりになっても伯父のことを心配していました。
だから、先に弟が逝ってしまったことを告げずにこの世を送り出しました。じゃないと、またショックで悪化するかわからないからです。
あの世に逝ってから、弟と再会してびっくりしてるかもしれないですけど。

伯父のお堅い会社葬をした後の、父の葬儀は雰囲気が全くちがって、とても和やかな晴れやかさがありました。いつもと変わらない風景の中、穏やかな気持ちで76歳の人生の幕を閉じることができてよかったと母は言っています。その時も、誕生日プレゼントに贈られたナットキングコールは側で鳴っていたそうです。
前日にお風呂も入って、旅立ちの準備は万全の中でお迎えが来たようです。父の亡くなり方は、旅立ちを準備していったかのようにとても、キレイなものでした。

仕事が趣味とも言える父には、定年後のしばらくは辛かったことでしょう。それでも、家にいるよりは仕事をしていたかったので、知り合いの所に行ってダクト仕事をしていました。
父にとっては「仕事をすることが生きること」だったのかもしれないです。
仕事で嫌なことがあっては、愚痴もいっぱい言ったり喧嘩もしたりしたけど、それでも考えてみたら見習いの時から54年間も同じ仕事をしていたのだから「すごいねぇお父さん」と思っています。
ダクトの仕事は高所作業も多く危険を伴います。私がまだ、生まれていなかった頃に建設中の生命保険会社のビルの2階から地下まで落ちたそうです。命綱を運悪くつけてなかったのですが、不幸中の幸いで脊椎を損傷していなかったから、足が不自由になることもありませんでした。また、今の天皇陛下が即位された「即位の礼」の中継をみたいが為に、慌てて鉄骨を何かの拍子に足に落として、骨折してしまい入院した話は、母に聞いてちょっと笑ってしまったのですが、本当に怪我をしても、仕事が好きで仕事を続けていたのだから「流石だよね。」と思っています。
生まれる前のことで、知らなかった父の苦労も辛さも、楽しい嬉しい思い出と同じくらい、亡くなると輝きの増す宝石のようです。

父が携わったビル・建物は数知れず。高度成長期の建設の際は名古屋や東京にも仕事がありました。空調なので人様から見えることはないけど自分の子供のようにその場のことを大切にしていたと思います。
父の生きて来た何よりも貴重な財産は、仕事人間だったので、この仕事に出会えたことと、他の業者と共にビル・建物をつくり上げたことではないかなーと思います。その勤勉で仕事一筋、天然ボケなお人よしの父の後姿を見て育った私たちも、幸せな子供で過ごせました。

父が亡くなった6月30日は私たち夫婦の結婚記念日でもありました。

でも、父も神様と結婚してお迎えが来たのかもしれない。ってそんな風に思うと良い旅立ちでもあったので寂しさより、安堵感とこの日を迎えられた全てのことに感謝の気持ちでいっぱいでした。

Mona Lisaを流した会場はとても暖かい空気に囲まれていて、父も喜んでくれたことだと思います。お父さん、ありがとうね。
家族のことを書くのは、どうかと思う気持ちがありました。照れくさい恥ずかしい気持ちもちょっとあったり。だけど、旅立ってる父のプレゼントは手紙かと思いました。6月は父の日と誕生日もあったので。今日も、ありがとうございます。

















パラグアイ

2010-06-30 23:41:08 | 世界
ワールドカップが終わりました。とても心に残る試合でしたね。負けは負けですけど、パラグアイと互角の戦いで選手の皆さんは、延長の末によく頑張ったと思います。他の国でこのような負け方をすると、熱狂的なファンから責めを負う場合もあるのですよね。それがない日本は、安全でいい国だなーと思います。
日本が負けたパラグアイには、日系の方も多くいらっしゃいます。今回の試合も日系の方にとってはもちろん、自国を応援されたかと思いますが、日本人にも思いを寄せてる方もいたのではないでしょうかね。

パラグアイの日系人には不思議なほど日本語が通じるそうです。昔、パラグアイは周辺諸国との戦争で疲弊して人口が激減し、60~85万人いた人間が1886年には26万人にまで減りました。パラグアイの面積は日本よりも少し大きく、それでこの人口だから経済的社会的な状況は深刻だったそうです。そこでまずヨーロッパ諸国からの移民が受け入れられ、さらに1936年から第二次世界大戦までに、700人余の日本人が移住をしました。
第二次世界大戦後でいったん打ち切られたものの再開されて、50年代から60年代初頭にかけてパラグアイへの農業移住は盛況を極めイグアスへの移住も1961年から始まりました。
その後日本が高度経済成長の時代を迎えると、移住の動機は薄くなり入植者も減っていきましたが、戦前、試験的という厳しい条件の中、日本人移住者達がラ・コルメナにおいて数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において「勤勉な日本人」という印象を与え、日本人移住者に対する大きな信用を与えました。
また農業分野での貢献は大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人食生活の改善に大きく貢献しています。現在のパラグアイにおける日本人移住者は約7千人、人口から見ると0.14%の少数民族ではありますが、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、今では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国となりました。
特に日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培(水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法)」は、非常に高い生産性を誇っています。
また、それまでは輸入に頼っていた小麦も、現在はその29%が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく、輸出により外貨獲得にも貢献しています。日本人移住者たちは原生林であった土地を切り拓き、生産性の高い耕地へと変え、高い農業技術を持ってパラグアイの農業経済を支えてきたといえます。現在は、農業のみならずあらゆる分野においても、日系人は勤勉で正直であるという高い評価を得ています。
ワールドカップがなければ、パラグアイのこともここまで興味を持ちませんでした。日本人って本当に素晴らしいと思います。
日本人の入植当時、ラ・コルメナは一面原始林に覆われ、いくつもの困難に立ち向かいながらも力を合わせて開拓していったのですからね。これは、昔から農耕で生活していた故の粘り強く、真面目な遺伝子が日本人にあるからじゃないでしょうかね。
当時、入植された方たちは言葉も気候も日本とは違う環境の中で、よくここまで働かれたなーと、本当に感心します。この地には、2006年11月2日パラグアイ日本移民七十周年を記念して秋篠宮さまがラ・コルメナをご訪問されています。
日本にとってのワールドカップは終わってしまいましたが、この際だからパラグアイには勝てるところまで頑張ってほしいです。
強い国に負けたなら、負けても何となくすっきりもしますよね・・・って浅はかですかね。
今日もありがとうございます。  

ナット・キング・コール~ L-O-V-E (日本盤)~

2010-06-28 10:22:50 | 世界
nat king cole L-O-V-E (Japanese)


いよいよ、はじまりますねW杯。今回は現地時間・16:00日本時間・23:00スタートです。
場所は南アフリカ共和国ハウテン州プレトリアにある球技場でロフタス・ヴァースフェルド・スタジアムです。『ハウテン』は、ソト語で『金がある場所』を意味していてヨハネスブルグに金鉱が発見されてから言われるようになり、同州の州都で南アフリカ最大の都市です。南アフリカのみならず南部アフリカ経済の中心都市ともなっていて、国内最大の都市で、人口は3,888,100人で世界第31位のメトロポリスを形成しています。近年は経済や治安の悪化、貧困、エイズ問題などの不安材料も多く、外務省からは南アフリカに対しては危険情報が出されています。
ヨハネスブルグは特に、ダウンタウンやヒルブロウ地区について「可能な限り公共輸送機関の利用は避け、同地区には立ち入らないように」という勧告も出されています。地元警察は「いかなる理由があろうとも、車外に出るとは非常識で、何かあれば携帯電話で警察の救援を求めるべき」と警告しています。観光客が駅周辺を歩くことは、昼間でも危く空港・商店・ホテルなどの建物内から移動するときは、必ず車を使用することが身の安全の為には気をつけなくてはいけないそうです。
日本のような安全な場所に住むことができるのは、実はスゴイことなのかもしれませんね。
このように治安が悪化しているのも、アパルトヘイト政策の廃止後の爪跡からだと言われています。
黒人が殆どを占める場所では、体も力も大きいから圧倒はされそうで、アパルトヘイト政策は居住地区条項を制度的に確立することで白人の安全を確保し、また、黒人に白人の生活をみせないことにより、格差感情を和らげるのが目的であったのがはじまりだそうです。当初は「差別ではなく、分離発展である」と主張していました。
格差により、心がすさんで今も現地は、国民の感情のままに荒れているのかなー?と思ってしまいます。日本でも士農工商以外での職業で差別がありましたね。そのなごりで、現在でも差別を受ける集落もあるそうです。そのような立場にもし、なったら・・・と思うと差別は同じ人間である以上、生まれた地域や肌の色・お金の有る無し、職業などでしたくないですね。
でも、何処に意識をもって何を思うかで変わって来ると思います。差別をする方には妬まれているという危機感と自分の方が優位であるという優越感があると思います。
差別をされる方は、人と生活を比較して私もほしいといった妬みや生活の不満を抱えた気持ちがあり、自分を卑下してしまうコンプレックスみたいな感情があると思います。中には、こんな感情と無関係な方もいると思うけど、荒れている原因はこうなんでしょうね。
差別は実は、自分が自分でしているのかもしれません。生まれた時からの環境で無意識にすることになっているのかもしれないけど、まずは「自分で自分を」差別をしないでありのままを有難く受け入れることが大事なのかなぁ?と思います。そうすることで、自信もつき生きることにも希望を持っていけます。
差別をする方も、自分のことだけに意識を向けず他を思い遣る心を考える時代じゃないかと思います。
そして、このふたつの感情は、ひとりの人間の心に同居していることがあったりします。時と場合によって都合よく、理由をつけて不満に思ってみたり時には人と比べて優越感に浸ってみたり。。。。自分で自分を信じて今を生きていることは、生きている限り大切なことだと思います。
微々たることですが、ひとりひとりの気持ちが大切かなーと思うので、”小さなことからコツコツと~”西川きよしさんみたくを心がけます。
韓国が負けてしまったので、アジアで残ったのは日本だけになってしまいました。サッカーが強い国も残ってるように見えますけど、フランスもイングランドも、メキシコも負けています。この展開はどうなるかわかりません。
日本人のいい所は、「人がいい」ところだと思います。人に優しくて礼節を大切にすることを何となく、潜在的にもっているのじゃないかと思います。だから、犯罪などの発生率も少なくて治安もいい生活しやすい国でもあります。
スポーツでもとてもスポーツマンシップのある気持ちのいいプレーをするので印象はすごくいいように思います。
パラグアイのサポーターは日本をからかい気味に「ポンハたち、もうここまでだ!」と言っているそうです。ボンハって何かというと、日本をひっくり返した言い方だそうです。
この強気な言葉に押されることなく、自分たちのプレーに集中して「勝つ」には強気な姿勢でゴールすることを先に思い描いてほしいです。
日本人は、相手チームのことを悪く言ったりしないし、礼儀礼節のある国だと思います。
「今回のW杯は拮抗(きっこう)した大会で、強豪国の信じられないような敗退が続いている。」とメディアで言われています。だったら日本が最後まで進むっていう夢を見るのもあり?と、私なんかは、軽く思ってしまいます。でも、本当にベスト4意識して頑張ってほしいです。

ナットキングコールが日本語で歌っている歌は、はじめて聞きました。歌詞の内容は簡単で、聞いていて明るくなります。「LOVEは世界の言葉」が印象的です。サッカーの勝利と共に日本の愛も世界に届いて~。。。

今日もご訪問、ありがとうございます。





ワールドカップ ~イナズマジャパン~

2010-06-24 15:59:20 | 日記

イナズマイレブン 

yちゃんは最近、仲の良い(多分好きな?)男子が観ているテレビがお気に入りです。丁度、W杯もやっていますがイナズマイレブンというサッカーのアニメを、テレビの前でかじりついて観ています。

先日のW杯、日本は凄かったですね。国際試合なのにリラックスしてるような、余裕のある試合で安心して観ていられました。攻撃もしかっり手を抜くことなく強気だったのがよくて、チームの雰囲気もいいし、今、乗っていますね。デンマーク戦に勝った日はyちゃんの10歳の誕生日だったので「凄くいいプレゼントが届いたね」と言ってお祝いしました。

その、W杯で大活躍中の本田圭祐選手は、大阪府の摂津市出身で石川県の星稜高校へと進学し、3年時の全国高等学校サッカー選手権大会で石川県勢としては初のベスト4入りの原動力となった人物です。実家に電話すると、本田選手のことが話題になっていました。

 日本人としては肉体的にも精神的にも強靭で優れたサッカーセンスを持ち、外国人選手との一対一でも当たり負けすることは少なくて、キック力が有り、スルーパス、ロングパス、シュートの能力、デンマーク戦でも見せた、フリーキックの精度はもの凄く高く無回転とカーブする球を蹴り分けることができるそうです。また全ての中盤のポジションと、サイドバックも務め、数多くの仕事をこなせる逸材です。 2004年[彩の国まごころ国体]で石川県は4位になった時に、視察した岡田監督は「タイプじゃない」とのことから、2人の縁はこの時は、結ばれないままに終わったものの、本田選手が2010年欧州チャンピオンズリーグで大活躍すると、態度を軟化させて同年3月のアジア杯予選バーレーン戦の後、会食した本田選手の星陵高校時代の恩師、河崎氏に、「ものすごくアグレッシブになった。日本代表をワンランクアップさせた。」と絶賛しました。最近では走行距離もチーム内で上位を争うほどで、カメルーン戦で、FWでありながらチーム内で2位となり献身的なプレースタイルにと進化してきたとも言われています。ゲームの攻撃時には、プレーの効率性を上げメリハリを重要視しているためゴール前へ飛び出すこともよくあり、W杯本戦では岡田監督にフィジカル面の強さと積極性を買われ、FWとして出場を決めています。

利き足が中村俊輔選手と同じ左足で、中村選手から定位置を奪うという旨の発言をしているほど強気ですが、右サイドハーフのポジションに中村選手が、そして本田選手はトップ下に入るという形で同時出場する策もあるそうなので、今度もし中村選手が出場することになれば協力して点数をパラグアイから取ってほしいです。

私が気になる、中村選手ですが横浜市立深谷中学出身で桐光学園高等学校へ進学し、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現して、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝に導き、チームに大きく貢献しアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場し、当時の期待の星でした。 プレースキックの名手とされ、特に直接FKを得意としています。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込んで、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜き、独特のフォームでゴールを見事に決めて点数を奪います。

フィールドプレーにおいては、中盤で溜めをつくりながら正確な中・長距離のパスでボールを散らして、隙を見て前線へスルーパスを送りまた、フェイントを織り交ぜた柔らかいタッチのドリブルが特徴で発想力やテクニックに優れてもいます。レッジーナ時代には、その創造性とテクニックを駆使するプレースタイルから「東洋のバッジョ」と称され、多くのサッカー関係者からの高い評価を得ており、名将プランデッリ監督は中村選手について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評していて、また、レッジョ・カラブリア市で最大の勲章である「サン・ジョルジーノ・ドーロ(黄金の聖ジョルジーノ)」を授与されています。

さらにセルティック時代には、恩師ゴードン・ストラカン氏は中村選手について「彼は天才だ」と語るほどだそうです。これほどの選手が、ここ一番の試合で出場する機会をもっと与えられその能力を発揮できれば日本の勝ち点も増えて8強入りも現実のものとなるに違いない!!と勝手に想像しています。中村選手はフィジカル面で心配な要素がありますが、今大会では余計なプレッシャーもないでしょうし、体調的にコンディションも良さそうです。次に出番があれば、今、ノリにノッテル日本ですからのびのびとプレーでき、実力を出すことができると思います。左足も心配ないと岡田監督も前、言っていましたから活躍が観たいものです。

日本人の持つ、粘り強さと精巧な技術をこの世界の大舞台で見せてくれたらいいなぁと思います。16強入りは奇跡ではなく、実力で勝ったのです。日本のもつ神秘的な能力はデンマーク戦での各メディアでは高い評価を受けていますが、これは各選手が能力をそのまま勝つことに集中して発揮したからだと思います。 11人だけでなく、控えの選手も含めた23人全員でモチベーションを高め合い、特訓を重ね得ることがきた結果だと思います。パラグアイ戦もリラックスして、挑んで積極的に攻撃してゴールを決めて勝ち進み、笑顔でパラグアイの選手の赤と白のストライプのユニホームを交換してほしいです。

今日も読んで頂いてありがとうございます。

 

    

このトロフィ、アジアに持って帰ってもらえないものでしょうか(^^)

                                    


日本とW杯・開催地の南アフリカとの関係

2010-06-22 15:42:10 | 世界
先日のサッカー盛り上がりましたね。次も応援しよう~と思っています。今大会は南アフリカ共和国で開催され、南半球での大会は1978年アルゼンチン大会以来32年で、7月11日まで出場32チーム開催されますね。今度のデンマーク戦は25日(金)午前3時半です。眠い目を擦りながらでも見とこう。
南アフリカは治安が悪いとされ、本当に開催できるか懸念されました。ヨハネスブルク、プレトリア、ケープタウン、ダーバンの4都市については特に注意とのことで南アフリカでの殺人事件の発生率は、日本の35倍となっており南アフリカ国民もネットで、観戦に来る際は注意するようにと警告しています。

現在の気候は南アフリカの冬期にあたり(南半球は北半球とは季節が逆)、平均最高気温18℃、平均最低気温6℃で6月の気温は各都市によって異なるそうですが1年を通じて太陽に恵まれています。高原部などでは1日の寒暖の差が大きいので、今度の試合は夜ですし気温も下がるでしょうから、日本選手の皆さんは体調管理を万全にしていてほしいです。

南アフリカ共和国とは、どういった国なのか、日本とのこれまでの関係も知りたくなりました。

日本はアパルトヘイト政策に反対し昭和60年以来、対南アフリカ経済制裁を強化してきました。【アパルトヘイト】とは、南アフリカ共和国で行われてきた、白人支配者層による有色人種に対する人種差別・隔離政策です。1948年に法制化されて以来、強力に推進されましたが、国内の差別撤廃闘争の激化と激しい国際的非難を浴び91年、法的には廃止されました。

人種の割合が黒人 (79.3%)、白人 (9.1%)、混血(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%) 国内には、周辺国からおよそ500万人(300万人がジンバブエ出身)におよぶ不法移民が流入しており、治安悪化の原因となっています。そのため、未だに人種差別もあり、エイズの蔓延も多く国民の約4~5人に1人の割合でHIVに感染しています。

IMFの統計によると、2008年の国内総生産(GDP)は2767.64億ドル(約25兆円)であり、神奈川県の県内総生産(約31兆円)よりやや小さい規模とされています。

W杯の日本対デンマーク戦が行われる南アフリカのバフォケン王国「ロイヤル・バフォケン・スタジアム」のある地域はプラチナ生産量の世界シェア60%を占めます。プラチナからの利益によって政治家の発案で建設されました。
治安が悪い、貧しいなどのイメージのある南アフリカですが、人種差別をなくして多民族同士でも人々がお互いを認め合い、よりよい国づくりを目指して協力すれば、治安もよくなり住みやすくなることでしょう。金やダイヤモンドの世界的産地でもありますから、人々の心にも宝石の原石となるものが必ずあるのだと思いたいです。今は原石の状態で、人種差別などから傷ついて生きて来た思いから荒々しくなっているかもしれませんが、その心が穏やかになり落ち着いて行き、皆が豊かで安心して生活ができればいいですね。
地価資源も豊富なことですから発展するところがたくさんある為、政治さえまとまっていけば、W杯を機に経済効果も得られ、これから社会的にも豊かになっていくことも可能だろうと思います。

アフリカ諸国をはじめとする国際社会から孤立していた当時の制裁下でも、日本は、アパルトヘイトの犠牲者である黒人に対して、平成2年以降、草の根無償資金協力などを実施し、1994年5月の新政権の成立に伴い、南アの国づくり・人づくりに協力し、同年7月に今後2年間に13億ドルの対南ア支援策を実施。
その後、1999年まで延長され、総額15億ドル、2007年度までの累計援助実績は、有償資金協力201億4500万円、無償資金協力128億7000万円、技術協力72億2700万円となっています。

また、1995年7月には大統領マンデラが国賓として来日し、1996年4月には当時の池田行彦外相が南アを訪問、1998年には副大統領のムベキ氏(1999年大統領就任)が2回にわたって訪日するなど経済・文化を含めた幅広い交流が行われています。
1999年1月には前年まで首相であった故、第82代・83代 内閣総理大臣・橋本龍太郎氏が南アを訪問しムベキ氏と会談、日・南ア・パートナーシップ・フォーラムが発足し、2003年には日・南ア科学技術協力協定が結ばれました。

日本は額にするとかなりの金額を援助しています。そのお金は税金からです。
このスタジアムに関わる方にも、様々な形で行きわたっているかもしれません。南半球のあまり馴染みのない国と思いがちですが、親が子に仕送りしているような関係の国?と思って、南アフリカ共和国は日本を応援している「ホーム」のつもりで、また、賑やかなブブゼブ?の音は日本の動きで音が出でいると思って日本の選手の皆さんには、頑張ってほしいです。

今日も読んで頂いてありがとうございます。