花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

寿老神社・天満神社

2012-08-28 15:30:38 | 神社・神話

白髭神社の稲荷社を真ん中に、右手に寿老神社、左手に天満神社がありました。

寿老神社は、昭和57年に七ヵ所の社寺が集まって結成されました「西近江七福神めぐり」と、新しい高島市の観光名所の一つになったのを記念して建立されました。

寿老神社については、あまり聞いたことがないので、東京都江東区森下の深川神明宮より抜粋させていただきます。

寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神であります。また中国の老子の化身の神ともいわれています。
寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っています。鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされています。寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されてきました。

 天満神社、御祭神は菅原道真公です。

菅原社社伝に「陽成天皇の御代の天慶七年四月、従五位弐部少輔兼文書博士菅原道真公加賀守に任ぜられ爾来此国に於て仁政を施されしを以て爾今天満宮を尊敬し祀れちと伝ふ」と、記載されており、加賀国(石川県)の国守に任命せられて、赴任の途中に七ヵ所の社寺の一つ、福禄寿天様のある「阿志都弥大明神(阿志都弥神社)」に立ち寄ったとあります。

阿志都弥神社(あしづみじんじゃ)は、社殿を持たなかった時代、この地にあった山桜の木に木花開耶姫命を勧請し「桜花大明神」と称し、長徳4年(998年)に菅原輔正が菅原道真公を勧請し、行過天満天神(ゆきすぎ)を併せ祀ったと伝えられています。また、阿志都弥神社の中に、摂社として白山神社があります。 

でも道真公は、いろいろなところでお祀りされてますね。。。

稲荷社のお隣なのは少し、変わってるような?納得のような気がしました。気のせい?

道真と牛の関係は深く、数々の逸話があります。道真公は丑年にお生まれで、牛を愛し常に愛牛に召して庭上を散策され又、薨去の祭には喪車を引いた牛が動かなくなったというような由縁があり、道真公が牛を愛していたことがわかります。

天満宮では必ず神使(祭神の使者)として臥牛の像が置かれています。

 


波除稲荷

2012-08-27 01:12:04 | 神社・神話

波除稲荷社と、書かれてます。波除さん・・・あまり聞いたことないですね。以下は東京都中央区築地の波除稲荷さんよりです。

波除稲荷神社の起立は万治年間(1658-61)といわれています。衣食住 殖産工業 商業の守り神である「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」をお祀りし、波除様と尊称されます。

当時、築地一帯の埋立てに際し、堤防がたびたび波に崩されて工事が難行していました。ある日、海面を光りを放って漂うものがあり、これを祀ったところ、風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。

「波除」という尊称もこの伝説に由来するもので、以来、厄除や航海安全の神として、人々に厚く信仰され、祭りでは数多くの獅子頭が町をねりあるき、獅子祭りと呼ばれていました。

今でも3年に一度、6月に行われる例大祭では、嘉永元年(1848)に造られた獅子頭が築地周辺を練り歩き、その伝統を伝えています。

お稲荷さんって、畑のイメージがあるのだけど、このお稲荷さんは海から来て、風と波をおさめたのねー。変わってるなー。

 

 

波除稲荷神社東京都中央区築地中央区築地6-20-37(03-3541-8451) 

 


内宮、外宮

2012-08-27 00:46:36 | 神社・神話

八幡三社の隣が、天照皇大神宮・豊受大神宮で、平成12年高島町指定文化財第1号に指定され、平成の修復で現在は新殿となっていますが、境内の地図では、内宮(祭神は天照大神:平成13年修復)・外宮(豊受姫命:平成14年修復)とされているので、目を惹きました。

その上にまだ、お社が5つあります。

 


秦氏と猿田彦と稲荷と八幡

2012-08-26 15:05:03 | 日記

秦氏(はたうじ)は九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして山城(現在の京都)、さらには全国に広がっていきましたた。
松尾大社、伏見稲荷大社などを創建、氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でもっとも創建年代の古い神社で、秦氏の末裔はこれらの社家となりました。

猿田彦は秦氏が創設した伏見稲荷大社が主神の一つとしてしていいて、猿田彦命(佐田彦大神)、倉稲魂(ウカノミタマ:穀物神)神、
大宮女(オオミヤメ:職業神)命で明確な人格神は猿田彦だけでこれが秦氏の祖先神か民族神なことを示してます。

稲荷神社は秦氏最高の氏神で現在でも秦氏の荷田氏が祀っているそうです。

秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦であったことが分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があります。

山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与したとあり、山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされています。


日本書紀によると秦氏は、応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:『新撰姓氏録』では融通王)が朝鮮半島の百済より百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられています。


弓月君は、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしく、この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、ハン(Khan)は族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言い、この山が「天狗」のルーツではないかと言われます。


応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したとされ(新撰姓氏録)、当時の中国は、後漢(25~220年)の時代だったと思われるが、後漢が弓月国あたりまで勢力を伸ばし、 後漢の弓月国への圧迫や万里の長城の苦役の強制があったと思われます。

そこで、弓月国の人々(秦氏)は、満州を経て朝鮮に逃げたらしいが、 朝鮮でも迫害を受けて、日本に来てやっと、日本の天皇に助けられたのだそうです。

また佐伯好郎は1908年1月、『地理歴史 百号』に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえました。


上之宮~中央は八幡社、右は加茂社、左は高良社