**ももくり日記**

なんでもない日常が大切で・・・

それから

2011-07-13 | にちじょう

1か月たった。家のこと、体が動かなくて、後回しにしていたことがひとつずつかたづけていった。
体が重くてどうにもならなかったのに、ひょいひょい動ける。もう息切れもしない。動いていないと、
自分を責めてしまいそうで。自宅勤務に切り替え、仕事と家事と・・そんな感じで夏が始まった。
そして、あとちょっと。あとちょっとの猶予をもう少し頑張る事に。あらふぉー妊娠騒動第2弾。
子供・・いなきゃいないでいいや。は、もう少し後ろにおいておくことにして。
以前のあらふぉー子作りとは違う意思が、オットと私に芽生えたのも確かだ。

妊娠が中断された途端に、私の血圧は速攻正常に戻り、下半身の苦痛がウソのようにラクになり、
不必要に出血もせず、お乳がはることもなく、体は数か月ぶりにバカみたいにラクになってしまった。
まるで何もなかったかのように。そうなると、いかに自分が異常な状態をおしていたのかがよくわかった。
つわりからお腹が大きくなる間で、私はそれに慣れてしまっていたのだ。それが切なかった。
もっともっとケアが必要だったと思う。
相変わらず気持ち同様、私の体もセルフィッシュだったわけだ。母体として不完全だった。
もし次にChanceがあるならばと、リスクをひとつでも減らして、体を整えて、高齢出産に臨む気でいる。


家に連れて帰れた我が子は、毎日、寝室で猫たちとお留守番している。
1日の始まりと終わりはいつも家族と一緒である。庭の花をいつも飾っている。
オットが入院中、めそめそしてる私に持ってきた本は、「じゃらん」だった。
ここに載ってる温泉に全部行くぞ。そう彼は言った。たくさん笑ってたくさん出かけよう。俺たちが
幸せじゃないと、彼女は戻ってきてくれないから。そう彼は言った。全部なんて行けるわけないのに。
オットはいつもバカみたいに前を向いている。

彼が絶対大丈夫って事はおそらく絶対大丈夫なのだ。と。私も少しずつだけど、そう思ってきている。
子作りがどうでもよくなった時、筋腫が発見されてもういいと落ち込んでいた時も彼は大丈夫。
絶対妊娠できるとそう言ってくれた。
妊娠してからあれこれ不安を口にする私に、絶対大丈夫。ちなみにこの子は、女の子だから。彼はそう言っていた。
私が常々ネガティブに「絶対」を使うのに対し、彼の「絶対」は全て、ポジティブなのである。
信じる力が、やはり何かにつながるのだとしたら、私に何より足りないのは、自分を信じる気持ちだと思う。

にゃん5匹が相変わらず元気なのが救いだ。退院してきた日、泣きながらみんなを、ぎゅうぎゅう抱きしめる私に、
猫たちは静かに私のそばにいてくれた。入院中もとてもいい子でいてくれたし、
帰ってきたその夜から、5匹が私のそばを離れる事はない。こんなに暑くなった今でも。
不思議なことにやっぱり猫たちは全てを見抜いている。そんな感じ。
仕事も変わらず続けている。いつもと変わらない夏。のようで、それはいつもと全く違う夏。

あの時、38歳の誕生日を病院で迎えた。
父から初めてメールをもらった。誕生日とは毎年その日を節目に人が生き直す機会を得る日だと、
そう書き出しがあり、
人生において辛い出来事というのは、本当の意味で本人にしかわからないもので、
たとえ連れ合い、家族・友人であってもその慰めの言葉は救いにも癒しにもならない。
言葉は実に空虚である。そのことを知りながらもそれを発する人は、君に
なんとかその思いを伝えたいと発するのである。と。だから敢えて、私にがんばれ。と父はそう言った。
乗り越えて欲しいと願うと。
近年、本当に思うようにいかない人生であったと思う。それも自分が今まで生きてきた結果であり、
私は今年の誕生日を境に生き直す。を考えて今を生きている。

幸い私はその後、外出先で赤ちゃんを見ても、特に心乱れ泣くことはない。
外にいるたくさんの赤ちゃんは、生まれるべくして生まれてきたよその子で、私の子ではないからだ。
長いこと大人ふたりで生きてきたので、元々子供が視界に入る習慣がないのと、子連れ世界とは別のところにいるのと、
様々な持ち物は比べるものでない事をもう中年の私は知っている。
私だって本当なら今頃・・そういう風には全く思わなかった。私の子は生まれなかった。それだけだ。
まだたまに思い出しては泣いたりもするけれど、前と同じように仕事に戻り、休日はオットと外出しながら、
いつもの日常の中で、のんびり元気を取り戻している。
お腹の子が、私をしっかり更生していってくれたのを無駄にしないよう、健康的な生活を心がけて。



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