ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

林彪事件と習近平 古谷浩一 1971年に起きた林彪事件の真相と中国共産党の権力闘争の本質

2020年01月07日 | 読書日記
林彪事件と習近平 古谷浩一 中国共産党ナンバー2はなぜ死ななければならなかったのか


 1971年9月13日未明に起きた林彪事件。中国共産党ナンバー2だった林彪が軍用機でソ連に逃亡しようとしてモンゴルに墜落、林彪とその妻など9人全員が死亡した。おりしも中国は文化大革命の嵐が荒れ狂い、国内は大混乱に陥っていた。事件は極秘とされ、概要の発表は約9か月後。しかし、半世紀近く経った今も真相が明らかになったとは言えない。本書は朝日新聞中国総局長を務めた新聞記者が事件発生から40年以上を経てモンゴルや中国の現場を訪ね、関連文書を入手して事件を読み解いた労作だ。筆者は中国共産党の強権政治が林彪事件を生み、それが現在の習近平体制にもつながっているとみている。

 評者も林彪事件のことは記憶している。だが、なぜ今、調べ歩いたのだろうという気もした。文化大革命の混乱では1000万人を超える人が死んだといわれる。その反省から、中国では集団指導体制がとられたはずだ。改革開放政策を立案する一方、1989年の天安門事件を弾圧した鄧小平の後、鄧に指名された江沢民、胡錦涛は集団指導の体制で政治運営した。しかし、2012年に国家主席に就任した習近平は2017年に党規約を改正、任期制限を撤廃して権力を集中する。現在の中国は習近平が政敵を腐敗容疑などで次々に摘発、習一強体制を固めた。筆者はそこに半世紀近く前の林彪事件に通じる中国共産党の体質をみる。

 中国では林彪事件のことを9.13事件と呼ぶ。当時の林彪は日中戦争や国共内戦で活躍した将軍とたたえられ、1966年8月には党副主席に、そして69年8月の党大会では毛沢東の後継者に認定された。このころ実権派として糾弾された国家主席の劉少奇が失脚している。だが、林彪と毛沢東との蜜月は長く続かず、林彪が空席だった国家主席のポスト廃止に同意しなかったことから、毛沢東に野心を疑われる。

 公式発表によると、林彪は「毛沢東天才論」を主張し、毛の祀り上げを画策したが、猜疑心の強い毛に逆に警戒された。林彪とその側近に粛清の手が及びそうになると、林彪の息子で空軍作戦部副部長だった林立果が、その年の8月から9月にかけて南方視察中の毛の専用列車を爆破する暗殺計画を立てる。だが、内通で計画を知った毛は予定を変更、上海から北京に戻ったため計画は頓挫した。林彪は妻や長男などごく少数の側近とともに北京近くの空軍基地から軍用機でソ連に逃亡しようとしたが、モンゴルに墜落、全員が死亡した。

 墜落地点はモンゴルの首都ウランバートルから東に行った大平原。軍用機はイギリスのトライデント型で、レーダー探知を避けるためか、モンゴル国境を約3000メートルの低空飛行で超えた。軍用機がなぜ墜落したかは今も謎で、ミサイル撃墜説や機内での混乱などいくつもの推測が出ている。筆者は林彪事件の真相を探るため、墜落地点を訪ねただけでなく、墜落を目撃した当時11歳の少年、墜落翌々日に中国側責任者として、現地入りした中国大使を案内したモンゴル側の要人にも会って、詳しく取材している。

 墜落地点に入った中国大使は「墜落機は軍用機ではない。民間機が誤ってモンゴル領内に入ったのだ」と主張した。衝撃で炎上したため、9人の遺体は激しく焼け焦げていた。筆者は当時、モンゴル外務省の次官だった人物にも会っている。この人物は事件のあった翌14日早朝、ソ連の駐モンゴル代理大使と会った。この段階で、ソ連側はすでに墜落の事実を把握していた。当時のソ連はモンゴルの最大の友好国で、近くの東シベリアには軍の大部隊も駐留していた。林彪機がソ連への亡命を目指し、連絡をとっていた可能性がありそうだ。

 モンゴル側は墜落の事実をソ連への通告から3時間後に中国側に通告した。中国は駐モンゴル大使自身が現場を訪ねたが、これも本国からの指示だった。この段階では遺体の返還要求はなかった。「中国大使の心配は明らかに、機内にどんな機密文書が残されていたかということで、乗っていた人間については関心がないようだった」「中国側が遺体の返還を求めてきたのは、許(中国大使)が墜落現場に入った翌日の16日。現場近くで遺体を埋葬した後だった」。モンゴルとソ連はこの要求に応じていない。

 筆者による取材で、いくつかの事実が判明した。ひとつはソ連側がフライトレコーダーなどの入った墜落機のブラックボックスを持ち帰ったこと。さらに本国から急遽、帰国しての報告を命じられた大使館員は列車で帰国したが、北京に着くとすぐ人民大会堂に案内され、深夜の報告会に出席させられた。聴取にあたったのは首相の周恩来はじめ、外相代理だった姫鵬飛などそうそうたる顔ぶれ。周恩来は林彪が中国軍の機密文書を持ち出し、それがモンゴルを通じてソ連側にわたることを極度に恐れていた。深夜の報告会については館員の回想録が残されている。「孫(帰国した館員)の報告書は周恩来から直接、毛沢東の手に渡ったとされる」「しかし、周恩来や中国外務省の幹部たちは墜落機に乗っていたのが誰だったかを孫に明かさなかった。それが毛沢東の後継者である林彪だったと孫が知るのはそこからさらに12日後の10月3日、党幹部向けの内部文書によってだった」。

 墜落地点の大平原は一帯が焼け焦げ、機体や部品が散乱していた。モンゴル政府は機体損傷の様子から、墜落機は不時着を決意し、高度を下げて着陸を試みたが、減速に失敗して地上に激突し炎上したとみている。全員が死亡したほか、フライトレコーダーもソ連が持ち帰り、その内容が明かされないため、それ以上はわからない。

 評者には墜落現場での目撃者や当時の記録探しの過程が興味深かった。モンゴル側はあまり秘密保持にこだわっていないようだが、中国では事件の真相は今もトップシークレットだ。人民大会堂で聴取を受けた当時の館員の回想録が残っていたのには驚いた。

 トライデント機はもともと商用機なので数十人は乗れた。あわただしく北京近くの軍用空港を出発し、機内には林彪と関係者のほか、機長が一人乗務しただけだった。この機材は本来、機長と副操縦士の2人乗務で、筆者は生き延びた副操縦士に会うことにも成功した。副操縦士らは行先を告げられないまま空港に待機していた。翌日に出発の予定だったのが、日付が変わった直後、副操縦士や通信士らを載せないままエンジンが始動し、あわただしく離陸した。このとき、空港に陸軍の兵士がトラックで到着し、「飛行機を止めろ」と命じたが離陸した後だった。追手を避けるための緊急の飛行だったようだ。周恩来は北京の軍司令官に専用機と交信するよう命じたが、交信できなかった。司令官は空軍機を飛ばして飛行を阻止すべきか聞いたが、周は、「毛主席は言った。(中略)『阻止するな。行かせてやれ』と。それに、林彪は副主席だ。撃ち落としたら人民にどう説明するというんだ」と話したという。

 筆者が墜落現場を訪ねてわかった事実がある。当時、モンゴル内務省幹部だった人物によると、「事件から約1カ月後、ソ連の専門家からなる調査団が遺体をここ(埋葬地)から掘り出して、9体のうち2体の頭部などをモスクワに運んだ」。林彪はソ連で頭部の治療を受けたことがあり、人定のための検分だった。遺体は掘り起こされ、ウランバートルで火葬された。

 中国指導部が対外的に林彪事件を認めたのは1972年6月、毛沢東がセイロンの首相と会談したときだ。このとき、「毛は林彪の名前を挙げて事件を認めた。この情報が他国の外交関係者にも伝わり、西側諸国の間でもはっきりと確認されることになった」「当時の国際情勢を振り返ってみると、中国共産党の序列第二位・林彪による最高指導者・毛沢東の暗殺未遂事件とその後の動きを対外的に知られたくなかったという、中国側の事情が浮かび上がる」
「林彪事件からほぼ1か月後の1971年10月、キッシンジャー米大統領補佐官が訪中。翌年の72年2月にはニクソン米大統領が電撃訪中し、世界を驚かせる」。日中国交正常化も72年9月のことだった。

 筆者はモンゴル政府関係者から「極秘」と銘打たれたソ連・モンゴルの中間調査報告書を見せてもらう。それには「9人全員の死因はいずれも、生前に受けた致命的な傷害による」とし、死因は墜落による衝撃が原因と示唆している。また中国空軍の調査チームは報告書で、「墜落現場は、着陸のために選ばれた場所とみられる」「翼から着陸のためのフラップが下げられている」と不時着態勢に入ったものの、速度が速すぎたために墜落したとみている。空中爆発説は完全に排除できるという。

 林彪事件は中国共産党の大きな暗部として、いまだに真相や全容が明らかにされていない。1960年代半ばからの文化大革命や天安門事件など、中国には秘められた巨大な暗部が少なくない。現在も続く新疆ウィグル自治区での100万人を超えるウイグル族の強制収容もそのひとつだろう。林彪事件に関する詳しい説明の後、筆者は「今、習近平がやっていること」というタイトルで、中国の現在をルポする。

 「中国は変わったなと思う。習近平体制になってから、中国社会は急速にモラルを失っている」。新聞記者らしく、いくつものインタビューをもとに構成する。匿名を条件に話を聞いた老学者は、「文革によって、中国人は信じるものを失ってしまった。信じるものがなければ、道徳はなくなる。本当の意味で国を愛する気持ちもない。金だけがすべてだ」と話した。「どの段階で、文革は誤りだと気づきましたか」と聞くと、「林彪事件だ。昨日まで毛主席の後継者と言われていた人物が、ソ連に亡命しようとしたという。何かがおかしい。あれでもう毛沢東のことも、共産党のことも、何の疑いもなく、崇拝することはできなくなった」と答えた。

 作家の魯迅は日本に学んだとき、医学から文学の道に転じることを決意した。彼の作品は現代中国でも強く支持されている。「もし、今も魯迅が生きていたなら、何を思うだろうか」「中国の友人にそんな話をすると、過去に同じような質問を、毛沢東が受けたことがあると教えてくれた」「出席者からの問いに対し、毛沢東は、あっけらかんとした調子で、答えたという。『(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けているか、あるいは何も言わなくなっているかだな』」。1957年、上海で開かれた文芸関係者らの座談会での発言という。

 筆者は共産党幹部の立場で文革を経験した天津社会科学院名誉院長の王輝氏にインタビューする。氏は文革当時、天津市の革命委員会弁公室主任などの要職を歴任し、文革終結後に職務を一時停止されるが、82年に復権した。氏は造反派や紅衛兵に何度も捕まったという。「社会は混乱し、あらゆる規範を失っていました。恐怖でした。文革の初期、批判を受けた党幹部の自殺が最も多かったのです。私は文革弁公室の副主任として毎日、誰々が川に飛び込んだといった報告を受け続けました」「文革後も基本的には文革のやり方が続きました。文革中、多くの幹部が批判され、それに連なる人々がみな失脚しました。文革が終わると今度は、文革で失脚しなかった幹部が、みな引きずり下ろされました。現在の政治闘争においても、こうした点はいまだに文革の影響を受けています」「現在、中国が抱える問題はすべて文革がもたらしたものだという見方もあります」「共産主義の理想を信じる気持ちがなくなりました。人々は自信をなくし、残ったのは拝金主義と享楽主義でした」。

 筆者は湖北省にある林彪の生家を訪ねるがそのさい偶然、林彪の甥に会った。林彪の兄の長男で、取材当時は69歳。武漢の大手国有企業を定年退職し、現在は北京に住んでいる。甥は林彪事件当時、空軍の軍人だったが、事件から1か月後、突然、党籍を奪われ、7年間にわたって拘禁される。林彪と親しい関係だったわけではなく、事件の12年前に会ったのが直近だったという。「林彪事件とは何だったのでしょう」と聞くと、甥はこう答えた。「林彪事件というのは政治問題なんだ。革命後、いったいどれだけの人が死んだと思うんだ。何人が冤罪で死んだか。これは林彪が個人的に何か問題を起こしたなどという問題ではないんだ」。

 終章は「よみがえる文化大革命」だ。「文化大革命が起きた毛沢東時代を想起させるような習近平の強権政治に対して、党内では不満もくすぶる。だが、権力を集中させる習近平の統治スタイルは、中国の幅広い層でかなりの支持を得ているのも事実だ」「第一の理由として挙げられるのは、いまや共産党は存亡の淵に立たされており、自らの生き残りをかけて、強い最高指導者を求めている、ということだ」「歴史的に見ても、中国の人々は強い指導者を好む傾向にあると言ってもいいかもしれない。中でも、近現代を代表する強い指導者が、毛沢東である」。

 筆者は毛沢東を崇拝し、集団生活する若者のグループを取材している。北京から車で3時間ほどの河北省の農場で、約50人の若者が自給自足の生活を送っている。参加者の多くは20代だが、既婚者もいる。彼らは経済発展の陰で拡大している社会格差や厳しい言論統制、人権軽視などの問題を「欧米由来の民主主義によってではなく、共産主義や毛沢東思想によって解決すべきだ」と考えている。彼らは取材の1年ほど前、中国で毛沢東思想の村として有名な「南街村」に向かった。そこでは市場経済ではなく、集団所有を推進し、村が農地を所有・管理し、村人たちはそこで農作業をし、収入を得る仕組みだ。ところが現実は大違いだった。若者たちはインスタントラーメン工場で働いたが一日12時間労働で残業代はゼロ。しかも厳しいノルマが課せられていた。村で実際に働いているのは村外から来た出稼ぎ労働者ばかりで、村の幹部たちはみな、裕福な生活をしていた。若者たちはいっせいに会社を辞め、残業代の支払いを求めて提訴したが敗訴してしまう。そんな苦い経験にもかかわらず、毛沢東思想を捨ててはいない。共産主義を素朴に信じる純粋な若者なのだろう。

 こうした若者にはブレーンも存在する。毛沢東主義者を代表する左派知識人で、中国航空航天大学の韓徳強副教授だ。彼は中国には毛沢東のような偉大な領袖が必要と考えている。「疑いないようのない事実として、中国にはそうした領袖が欠けていた。だから今、習近平が登場したのだ。私はこれをとてもうれしく思う」「(習近平の支持率調査をするとすれば)プーチン大統領よりは間違いなく高い。90パーセントを超えていることは確かだ」。発言の中身より、中国でこうした取材が可能だということに驚いた。いくつもの難題があるだろうが、中国語が堪能で、必要な支援があれば、一定の取材は可能なのかもしれない。

 だが、筆者は中国共産党の将来について、明るい見方はとっていない。1950年代、毛沢東は萎縮していた知識人に自由な発言を呼びかけた。「百花斉放・百家争鳴」運動だ。この中で、「何を言っても罪にならない方針が示されると、堰を切ったように中国共産党への批判が続出した。しかし、そうした批判を口にした知識人は、次々と迫害を受けた。もしかすると習近平は、この歴史にならって、権力闘争を通じて、側近たちの忠誠心を試しているのではないか。そうした穿った見方もある」。評者には、身の毛がよだつような恐ろしい話に思える。

 終章の終わりには、「かつてレーニンは『すべての国の共産党は、党組織の人的構成の定期的な粛清が行われなければならない』とした(1920年のコミンテルンで決まった加入条件)という。「民主的な党内人事の仕組みを持たない共産党は、組織を維持し、規律を保つために何らかの粛清を行わなければならない。そして規律維持あるいは腐敗摘発を名目とする粛清は、往々にして権力闘争の具にされてしまう。共産党のDNAとも言い得る『負の連鎖』が、こうして起きる。まさに林彪事件はその象徴である。習近平体制となった今も、こうした事件を生む構造自体は何一つ変わっていない」。

 まったく救いのない結論だ。一冊を読み終えて筆者のモンゴルや中国各地での精力的な取材に感心するとともに、アメリカで特派員を経験した評者はアメリカの科学担当で助かった、と心底から思った。だが、中国という巨大な隣国は、メディアの取材対象としても、貿易やさまざまな交流の対象としても、ますます大きな存在になっていくはずだ。中国にさまざまな関心を持つ人々に是非、一読を勧めたい。巻末の主要参考文献はほとんどが中国語だ。その国を知るにはまず言葉を学ばなければならないということがよくわかる。21世紀は中国の時代なのかもしれないが、この巨象を相手にするのがいかに大変なことか、その片鱗をうかがうことができる。だが、こうした中国共産党批判の書を出して、新聞記者生活に影響は出ないのだろうか。中国通の日本人や日本在住の中国人が中国に入った途端、拘束される事件が相次ぐだけに、余計なことが気になった。