ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

数学の世界史 加藤文元 数学史を世界の文明史のなかに位置づける新たな試み

2024年05月10日 | 読書日記
数学の世界史 加藤文元 文明史のなかで数学はどういう位置を占めるのか


 
 数学を世界史のなかで位置づけようとする新たな試みだ。数学史の本は何冊か読んだが、すべて西洋近代数学の歩みを過去から現在まで振り返る視点だった。本書は世界の文明の興亡史の中で、数学がどういう役割を果たし、いかに貢献したかという、これまでにない視点から数学史を読み解こうとする。通常の数学史は古代ギリシャ数学から説き始めることが一般的だが、本書ではそれ以前の四大文明と数学の関係から解き明かそうとする。

 著者は数学者で東工大名誉教授の加藤文元氏。1968年生まれで、東工大教授を2022年に早期退職、現在は設置認可申請中でネット配信を中心にしたZEN大学の設立準備にかかわっている。その講義用として本書はまとめられた。加藤氏は熊本大や東工大の教授を務めてきた。もとになっているのは熊本大や東工大で行った学部生や大学院生向けの講義だ。全15章の構成で、第一章の序論から第二章三平方の定理と古代バビロニア数学、第三章古代エジプト人の割り算、第四章記数法の歴史、第五章古代ギリシャ数学①論証数学の起源など、類書とはかなり構成が異なる。インドと中国の数学、中世アラビアの代数学、和算と円周率など、インドやアラビア、中国、日本の数学に関する章もある。人類の文明史のなかで数学をきちんと位置づけたいという強い意欲のあらわれだろう。

 序章からしてユニークだ。最初に「『数学の始まり』とは何か?」を問いかける。「数える」という行為が始まりのように思えるが、「それは数学の『タネ』のようなもので、それ自体が始まりというわけではない」と言い切る。「タネから地上に芽が出る瞬間こそが『始まり』だ。つまり『数学の芽』とでも言えるものこそ、我々が知りたい『数学の始まり』なのだ。それはワンランク上の抽象性をもち、そこから数学の世界が広がる源泉であり、高度に知的な精神活動が始まる開始点である」(太字は原文)。

 数学の芽とは何なのだろう。「本書の立場は、割り算こそが数学の芽、というものである。割り算にはたし算やかけ算とは本質的に違う難しさがある。そもそも、割り算は答えが一つに決まらない。例えば、16を7で割るという場合でも、
 16÷7=2…余り2
 16÷7=2.285714285714…(小数展開)
 16÷7=16/7(分数)
というように、いろいろな答え方がある。つまり、割り算の答えとして期待されるものは、状況や文脈の影響を受けるのだ。実際、それぞれの文明圏で独特の割り算があった。だからこそ、『割り算』は人間の高度な精神活動の所産と考えられる。まさにそれは『数学の芽』だ」「古代バビロニアでは60進数が使われ、割り算の答えも60進小数で表されていた」。

 第八章「ヘレニズム期の数学②」掲載の「数学史の流れ」の図が面白かったので先に紹介しておこう。


 興味深いのは古代ギリシャ数学と近代西洋数学の間に断絶があり、それをアラビア数学が橋渡ししていることだ。実際、古代ギリシャ数学の成果はいったんアラビア語に翻訳されてアラブ世界に伝えられ、近代西洋はその成果を再度翻訳し直して自らのものとしている。これを著者は「巨大な遠回り」と名づけている(図中の太い矢印)。評者はかねて古代ギリシャ数学が長い断絶を経てどうやって現代西洋数学に伝えられたか不思議に思っていたが、本書はその間の過程を丁寧に記述してくれる。西洋史観に浸りきっているわれわれの硬直的な考え方をただすことの意味は大きい。

 第二章は三平方の定理と古代バビロニアの数学だ。三平方の定理はピタゴラスの定理と呼ばれ、直角三角形の斜辺を一辺とする正方形の面積は、高さと底辺をそれぞれ一辺とする二つの正方形の面積の和に等しいというものだ。エジプトの中王国時代には辺の長さ3、4、5で直角三角形ができることが知られていた。またインドでも祭壇の設営に辺が5、12、13となる直角三角形を使っていた。ピタゴラスの定理を満たす辺の長さの組み合わせはピタゴラスの三つ組と呼ばれ、古来から知られている。古代バビロニアで発見された粘土板からはピタゴラスの三つ組を知っていた証拠が見つかっている。イラク南西部から出土した「プリンプトン322」と呼ばれる粘土板で、古代バビロニアの60進法で記されている。年代測定によると、今から約3800年前(紀元前1800年ごろ)に作られたとみられる。ハムラビ法典で知られるハムラビ王の時代だという。粘土板は横13センチ、縦9センチ、厚さ2センチと小さい。そこに楔形文字で15行4列の60進数が書かれている。楔形文字の解読によって、ピタゴラスの三つ組のひとつ(120、119、169)が書かれていたことがわかった。粘土板の意図は不明だが、2007年に日本人の研究者が古代の三角比の表だったのではないかという新説を出して注目された。三角比は直角三角形の辺の長さの比を角度から計算するための表で、測量に重要だ。著者はこの粘土板の解読から、数学は第一級の考古学資料になり得る、と指摘している。

 第二章は古代エジプトの数学だ。これは当時使われていたパピルスを手がかりにする。その解読から、かけ算、割り算は二進法で計算されていたことがわかった。なぜ二進法を使っていたかはわかっていない。

 第四章は記数法の歴史だ。ここでは位取りの重要性が説明される。10進法では0から9までの数字を使い、数が自由に記述できる。だが、0が発見されたのはそれほど古いことではない。数としての0が使われ始めたのはインド・アラビア地域で、6世紀か7世紀ごろと考えられている。

 第五章からが古代ギリシャ数学だ。著者は古代ギリシャで数学が発達した理由として、ギリシャという国の風土や自然条件を強調する。ギリシャ人は当時、海上貿易の担い手だったフェニキア人からメソポタミア発の学問を吸収した。メソポタミア地域、とくに古代バビロニアでは古代ギリシャの1000年以上も前から系統的で高度な数学を発達させていた。著者は古代ギリシャが大きく貢献したのは抽象性と論証性を重んじた論証数学だという。「論証数学とは、図形や数に関する抽象的な構成や命題を『定理』の形で述べて、論理的に『証明』するというスタイルの数学である。(中略)ギリシャ人たちは、いくつかの『明白な出発点』から出発して、複雑な数学の『定理』を『証明』するという、それまでになかった(そして現代の数学では主流になっている)やり方を数学に導入した」。古代ギリシャ数学は古代ギリシャ哲学と発展をともにしている。古代ギリシャ数学の発展は四段階にわけて考えられる。草創期(イオニア学派、ピタゴラス学派)、プラトン時代、ヘレニズム時代(ユークリッド、アルキメデス)、古代後期の四つだ。「古代ギリシャ数学の最大の特徴は、それが論証数学の先駆であるとともに、その一つの完成形でもあるという点にある。(中略)ギリシャ数学で初めて『定理を証明する』というスタイルが生まれ、それまでの経験的個別的知識の集まりから抽象的で統一的な理論体系の構築に向かったのである」。著者は数学史上の謎として「(現在の数学にとって)これほど自然な『証明する』という方法が、歴史の中では、どういうわけかギリシャだけで生まれ、他の文化圏では生まれなかったということも事実である」と述べる。なぜ、先行する古代バビロニアや古代エジプトでは生まれなかったのかという強い疑問だろう。

 第六章は古代ギリシャ数学の続き。ここで有名な「ゼノンの逆理」が紹介される。代表的なのは「アキレスと亀」の説話だ。足の速いアキレスが、先を行く歩みののろい亀に追いつけるのかという話だ。アキレスは最初、亀の後方にいる。亀が先にいた場所にアキレスが着くと、遅いながらも亀は着実に前に進んでいる。アキレスは永遠に亀に追いつけないというのが「逆理」になっている。時間や速度を考慮に入れないことで逆理が成立するように見えるわけだ。

 第七章は「ヘレニズム期の数学①ユークリッド原論」だ。紀元四4世紀、マケドニアに敗れたギリシャはその支配下におかれる。マケドニアのアレキサンダー大王のペルシャ遠征を区切りに、古典ギリシャ時代は終わりを告げ、ヘレニズム(ギリシャ主義)時代に入る。このころの学問の中心は現在のエジプトに位置するアレキサンドリアだった。プトレマイオス一世が学術研究センター・ムセイオンを建設し、数学、天文学、物理学などの研究者を各地から集めた。ムセイオンで活躍した数学者のひとりがユークリッドだ。彼が記した13巻の原論は多くの人に読まれた。「『原論』の重要性は、それが当時の数学の知識を、厳密な論理構成によって統一的にまとめ上げているという点にある」。この本の記述は徹底した論証数学のスタイルで書かれ、本の記述は定義、公理・公準、命題、証明と明確に分かれている。原論第一巻には定義が23個ある。定義1は「点とは部分をもたないものである」。定義2は「線とは幅のない長さである」。定義3は「線の端は点である」といった具合だ。これに対し、公準は5つある。公準1は「任意の点から任意の点に直線を引くこと」、公準2は「有限な線分を直線に延長すること」といった具合だ。公準は、論証の出発点となる約束事・仮説といった意味合いだ。この章では、数学好きにはたまらないようないろいろな論証が紹介されている。

 第八章で登場するのがアルキメデスだ。アルキメデスは紀元前287年ごろ、シチリア島に生まれ、エジプトに遊学して数学の基礎を学んだとされる。入浴中に「浮力の原理」を使って偽物の金細工を見破る方法を発見した逸話は有名だ。実は浮力の原理以外にもうひとつのアルキメデスの原理が存在する。「こちらはどんなに小さい数でも、それを何度もたし合わせていけば、いかなる大きな数をも超えることができる」というものだ。「円の面積が『円周率π×半径の2乗』に等しいことを初めて厳密に証明したのはアルキメデスである」。

 著者は古代ギリシャの論証数学を高く評価したうえで、その限界をも指摘する。「一般的に言って、『運動の否定』から入っている古代ヘレニズム人には、極限や無限小概念を基礎に組み立てられる微分積分学を発見することは不可能だった。(中略)その豊かな学統も古代の終わりとともに終焉の時を迎え、古代ギリシャの進んだ数学・自然科学はシリア・アラビアを経て十二世紀以降のヨーロッパに伝播した」。著者はこれを巨大な遠回りと表現している。

 第九章は「中世インドと中国の数学」。インド数学の最大の貢献は「0」の発見だ。0は数字でもあるし、位取りにも使われる。記号としての「0」は位取り記数法の「空白」を埋める記号だ。位取りの「0」の発見で、11、101、110が明確に区別できるようになった。インド数学は10進表記を用いた筆算のアルゴリズムを発展させた。一方で中国数学も古代から独自の発展を遂げ、江戸時代の和算にも影響を与えたが、その後の宣教師による西洋数学の紹介で、インドとともに発展は止まってしまった。

 第十章は「中世アラビアの代数学」。アラビアの数学に一章を割くのは著者の慧眼だろう。イスラム帝国ではアッバース朝7代目カリフのアル=マムーンの時代、紀元830年ごろに「叡智の館」という名前の図書館・天文台をバグダッドに開設し、ギリシャ由来の学問(数学・科学・哲学)に精通した学者たちを招聘した。以後、この場所は学問の中心地となる。そこではギリシャ文献・サンスクリット文献などを国家事業として組織的にアラビア語へ翻訳させる、いわゆる『大翻訳活動』が展開された」「『叡智の館』では、アル=マムーンによる設立の後、約一世紀半もの間、多くの書物が翻訳された。例えば、哲学ではアリストテレスやプラトンの著作が、(中略)天文学ではプトレマイオス『アルマゲスト』、数学ではユークリッド『原論』がアラビア語に翻訳された」「当時のバグダッドはギリシャ数学とインド数学の合流地点であり、アラビア語への大翻訳運動によって、アラビア数学はこの両者の深い知見を彼ら独自の数学の出発点に据えることができた。こうして『叡智の館』は、アラビアの独自の科学や数学の研究の一大拠点となったのである」。

 9世紀初めにイスラム帝国で活躍したアル=フワリズミーは初期アラビア数学・天文学を代表する学者で、宮廷学者として活躍した。本格的な代数学を創始したことで知られ、彼の名前がアルゴリズムという言葉の語源にもなっている。出身は中央アジアのアラル海南部で、ペルシャ系の出自を持つと考えられている。「アラビア数学の特徴は、なんといっても、アル=フワリズミーの代数学に象徴されるような『手順的(アルゴリズム的)数学』にある。この点は、『論証的数学』をその特徴とするギリシャ数学と鮮やかな対照をなしている」。

 これ以降が近代西洋数学の発展となる。「12世紀ルネサンス」と呼ばれる変革運動では、アラビア地域の科学や数学、哲学などの書物をラテン語に翻訳する動きが始まった。「古代ギリシャの書物の中には、ギリシャ語→アラビア語→ラテン語という重訳によって、初めて読まれるようになったものも多かった」。ユークリッドの原論やプラトン、アリストテレスの哲学書など古代ギリシャから伝えられたもののほか、インドから伝わった古典もあった。このころ西欧は大航海時代に入るが、印刷技術の進展に伴って数学など科学の担い手の層は大きく広がった。また、職人や商人階級を中心に計算術や代数学など実用的な数学への需要が高まっていく。

 こうした流れの中で、17世紀には微分積分学が発見された。ニュートン、ライプニッツなどの貢献で微分積分学は急速な発展を遂げる。物質の運動を数学的に正確に記述することが可能になって、その後の科学技術の進歩に大きく寄与した。

 第十三章は「和算と円周率」だ。和算に章を割く数学史も珍しい。円周率πは無理数で、その正確な値を分数で表すことは不可能だ。古代から円周率はさまざまな形で近似計算がなされてきた。古代では3プラス1/7といった近似値がよく使われた。アルキメデスは円に近接する内接多角形の計算で円周率の小数点二桁が3.14であることを確定させた。これは57角形以上の多角形でないと計算できない。中国では3世紀ごろ、劉微(りゅうき)が3072角形の計算からπ=3.14159という当時としては最高峰の精度で円周率を計算している。

 日本では17世紀の和算家村松茂清が正32768角形の周長を計算することで、円周率の値を小数点以下7桁目まで正確に計算している。和算家としてもっとも有名なのは関孝和だ。彼は江戸幕府6代将軍の徳川家宣に仕える勘定方で中国の天元術(一変数代数方程式の解法)を改良し、代数的計算のもとをつくった。関孝和は円周率も小数点以下19桁まで計算し、これは小数点以下9桁まで正しかった。円周率の計算は洋の東西で盛んに行われたが、アルキメデスが「〇〇よりは大きく××よりは小さいという形の厳密な評価で)」円周率の小数点以下二桁を3.14であると確定させたのに比べ、日本や中国ではこうした確定がなされなかったことが、東西の数学観の違いではないかと指摘している。

 第十四章は宇宙の幾何学だ。日蝕の予測がかなり正確(95%の精度)で行えるようになったのはヘレニズム期だ。これは天動説のモデルで計算された。ユークリッド幾何学は宇宙の幾何学とも考えられたが、十九世紀に覆される。非ユークリッド幾何学の登場だ。非ユークリッド幾何学から見ると、ユークリッド幾何学は「ひとつの幾何学体系」でしかない。非ユークリッド幾何学の成立に大きく貢献したのは19世紀の数学者リーマンで、彼の提唱した幾何学はリーマン幾何学と呼ばれている。リーマン幾何学はアインシュタインの相対性理論の数学的な基礎ともなった。

 著者は二十一世紀以降の未来の数学について、「空間的直観と論理・計算の融合による、新しい普遍数学の姿」をイメージしている。「十六世紀以降の西洋数学は、ギリシャ的な論証的幾何学とインド・アラビア的な代数学を融合して普遍数学になることを目指した。二十一世紀の今、また新しい普遍数学が目指されようとしているのかもしれない」と述べる。

 「数学の芽」から始まった数学は実に遠くまでやってきた。二十二世紀の数学が二十一世紀の数学とはまた異なったものになることは確かなのだろうか。文明と数学のかかわりを見てくると、数学の発展は一本道と決まっているわけではなく、過去にも曲折を経たうえで別の道筋をたどっていくことがあり得たのかもしれないという気もする。人類の営為は何と複雑で精妙なものなのか、ということに驚かされる。数学に限らず、自然科学の営為の多くはそうしたものかもしれない。唯一の科学的真実ということにとらわれたり、こだわりすぎたりしてしまうと、アインシュタインが貢献したような20世紀の物理学の大発見や大転換は起きなかったのかもしれない。科学の営みを相対化する意味でも、自然科学を愛する多くの人に読まれ、知的刺激を与える一冊になってほしい。内外の文献を渉猟し、ギリシャや中国など多くの現場に自ら足を運んで、頭だけでなく足でも考えた著者の熱意や努力に敬意を表したい。