ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

北朝鮮よ、ありがとう

2009年04月06日 | 憲法9条
北朝鮮が「衛星」名目のミサイル発射(読売新聞) - goo ニュース

 北朝鮮は5日午前11時30分ごろ、「人工衛星」と主張して準備を進めていた弾道ミサイル1発を発射した。
 同37分ごろ、1段目のブースターは秋田県西方約280キロの日本海に落下した。ミサイルは日本本土上空を通過し、自衛隊は日本の東方約2100キロで追尾を終了した。米軍の早期警戒衛星の情報などをもとに、日本政府が確認した。日本国内への落下物や被害は報告されていないが、政府は船舶などの安全の確認を急いでいる。
 北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射は2006年7月以来。日本上空を越えるのは1998年8月以来だが、米本土に迫る長射程化に成功した可能性がある。ミサイルが日本のはるか上空を通過したことから、自衛隊はミサイル防衛(MD)システムによる迎撃措置は取らなかった。



 MDによる迎撃はどうせなされることはないだろうと最初から踏んでいたので、予想通りの結果となったが、いつもはならず者国家として忌み嫌われる存在の北朝鮮を、今日だけは感謝したいと思う。

 まず、北朝鮮は今まで実戦モードに入ったことのない政府ならびに自衛隊が、目の前にある危機に対してどこまで対応できるのか白日の下にしてくれた。そして、多かれ少なかれ、国民が戦争というものを、テレビやネットを通じて知るヴァーチャルなものから、「今そこにあるもの」として認識するようになれた。対岸の火事感覚の戦争(軍事衝突)から、自分のこととしての戦争として捉え直すきかっけにはなっただろう。

 前者について、北朝鮮のミサイル発射騒動は、これまで世界でも有数の最新兵器を備えているとされる自衛隊が、実際に有事になった場合、適切な行動ができ、他国からの攻撃に迅速に対応できるか、そして政府が国民保護のために同じく適切かつ迅速な行動ができるかの両者を試す絶好の機会となった。

 今回の騒動を体験し、国民への情報伝達体制の不備等、改善すべき個所を如実に浮かび上がらせることができたのはある意味よかったと思う。政府もミサイル発射の誤報に踊らされ失態を演じたが、私個人の感想としては、これはいわば本番(有事)に向けての練習みたいなもので、練習段階で欠陥が発見できたのだから、政府や自衛隊のミスをここぞとばかりに批判するのではなく、いつ来るか分からない本番に向けての検討課題として、これを冷静に受け止めることこそ必要なのではないか。

 後者について、これもいい意味で危機感を共有できたものとして積極的に評価していいと思う。実際に迎撃ミサイルを配備するシーンなどがテレビや新聞で連日報道されることにより、平和というものがいかに壊れやすく、脆いものなのか、実感できたのではないか。

 以前もここで書いたが、石原都知事の言ったように、「変なものが例えば間近に落ちるようなことがあった方が、むしろ日本人ってのはある危機感というか、緊張感を持つんじゃないかな」ということは、まさにこのことである。北朝鮮の今回の暴挙は、危機意識が欠如し、平和ボケをかまし、「自分だけは大丈夫」と心のどこかで思っている、(私自身を含めての)日本人全員に対する北朝鮮からの「警告」として受け止めたいところだ。



 何よりの成果は、憲法9条がいかに無力な存在かということを、リアルな事象を通じて知り、実感できたことだろう。

 護憲派は憲法9条を持っていれば日本が戦争に巻き込まれることはないと言っていた。しかしご存じのとおり、こうなった。曲がりなりにも、今回は一歩間違えれば戦争になっていただろう。このことは憲法9条の敗北ということを明確にあらわしている。平和主義を唱える憲法9条を有する日本に、武力攻撃を仕掛けようとしている国があることが証明されたのだ。

 そこで護憲派はこう反論するかも知れない。日本が戦争に使える武力を持っているから北朝鮮もそれに張り合うかたちになり、事態がエスカレートしていったのだ、と。しかし、これは大間違いな主張なのである。

 北朝鮮の「瀬戸際外交」の目的は何か。それは外貨を獲得し、自国の存命を図ることである。そのためには自国にとって不利な交渉材料を相手に持たれたとしても、それをもって譲歩してしまうことは自国の弱体化を招き、国家存亡の危機に立つことを意味する。だから北朝鮮は拉致問題で一歩も引こうとしないのだ。

 しかし、拉致問題は国家の主権にかかわる問題である以上、これを放置することはできない。したがって当然に、日本としては拉致被害者の全員の帰国を求めることになる。そのために武力によらない経済制裁等をかけ、北朝鮮に圧力をかけているのだ。しかし、これに対してかの国は一歩も譲歩できないために今回のように、相手を恫喝することによって交渉を自分に有利な方向に進める瀬戸際外交を展開することになる。よって、日本が非武装であっても北朝鮮が同じ行動に出る可能性は十分に考えられ、上記仮説は否定されることになる。



 私は殴りません。日本は憲法9条によってこう宣言した。しかし今回の一件によって、相手も同じように、「あなたが殴らないなら私も殴りません」ということにはならないということが明らかになった。こちらが崇高な平和主義に酔って武力を放棄したところで、諸外国がこれに追随することはないし、それどころかそんなのはお構いなしにぶん殴ろうとしてくる国があるという、当たり前のことがようやく証明された。

 ではそれはなぜか。答えは非常に簡単である。戦争は政治の延長だからである。プロイセンの軍人であったクラウゼヴィッツは「戦争は手段を替えた政治である」と述べた有名な言葉を遺しているが、まさにそうなのである。政治(今回はこれを外交に置き換えてもいい。)の目的とは国益の最大化であると定義すれば、そのためには国家はいかなる選択肢も考慮に入れ、行動するであろうことは容易に理解できる。

 国益の最大化を志向する国家が、そこから戦争という選択肢を排除することなど、普通に考えればあり得ないことなのである。自身で選択肢の幅を狭めることは、それだけ国益の最大化が望めなくなり、外交においては戦わず(戦争の意味ではない。)して敗北することを意味することになりかねない。国益の最大化のためには戦争であろうと、常に選択肢の一つに入れて行動することが望まれる。



 そもそも今回の政府ならびに自衛隊の不手際、そして過剰な不安の拡大は、これまで安全保障、殊軍事というと腫れ物に触るようにしてきたり、これに関する議論は戦前の日本を彷彿とさせるといってタブー視してきた(旧社会党などは、憲法9条を守るために自衛隊機の燃料タンクに対し、敵国まで行って来れるだけの量が入るものは違憲などと、聞いて呆れるような低俗な議論をしてきた。)サヨク勢力が大きな原因になっているのだ。

 よって私は、こうした危機を招いた原因は、実は平和主義を吹聴するサヨク勢力にあるものと考えている(もちろん、保守派にも原因はあるが)。平和主義を主張しながらそれがかえって平和を脅かすことになるとは、皮肉なことこの上ない。

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