ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

フェミニストを「抉る」

2007年07月08日 | 倫理・道徳関係
 フェミニズムとは、「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようという思想・運動」(「広辞苑」より)である。今回はフェミニズムそれ自体を論じるのではなく、それを信奉する人たち(フェミニスト)の本性とでも言おうか、その根底にあるモノを「抉り出して」みたいと思う。最初に断っておくが、フェミニズムを信奉する人間全員がそうだというわけではないことを留意してもらいたい。

 フェミニズムの発端は、この社会を男性支配の社会と規定することからはじまる。そして、そこからの女性の解放を目指す、というものだ。もちろん、これまでの社会が男性優位であった面が多々あるのは否定し難い事実であるし、そのために女性の「権利」が侵害されてきたということも認めよう。

 男女平等を否定するつもりもない。しかし、フェミニストは大嫌いだ。何故ならば、既に枚挙に暇なく言われているが、実は彼らは男女平等など考えていない(少なくとも上辺ッ面だけのパフォーマンスとして主張することはあるだろうが)からだ。もしフェミニストが本当に男性との平等を志向しているならば、痴漢の冤罪で苦しんでいる男性を支援するはずだろう。

 さて、何が言いたいかと言うと、彼らは今までの社会を男尊女卑と言いながら、女尊男卑に変えたいだけ、ということだ。そのように彼らを突き動かしているものには、以下のような要因が挙げられるだろう。



 1、実は女性を蔑視している。

 2、差別に敏感なくせに、自分たちが差別主義者だということは、決して明かさない。

 3、1~2のような考えになるのは、彼らが「ルサンチマン」であるから。

 4、男性支配の社会では女性は常に侵害される客体として捉えている。



 1、2についてだが、これは例えばいわゆる「従軍慰安婦」の例を出せば分かり易いだろう。全てと言っていい。須らくフェミニストは慰安婦を「性奴隷=男性支配の性社会の被害者」と看做している。当時は売春は合法であったにも関わらずにだ。それは何故か。簡単である。売春をして金を稼ぐ女性に嫌悪を抱いているからだ。「男に体を売って金を稼ぐなど、女としてあるまじきものだ」と。

 では、どうして「従軍慰安婦」という存在を祭り上げるのか。

 これもまた簡単なことである。自分たちのイデオロギーに沿うような女性たちだけをピックアップして、「男の残虐さ」、「女性の権利はこれほどまでにも男に蹂躙されてきた」ということを主張させ、現在の男性支配社会を揺るがそうとしているからだ。そのためには、いわば「受身的」に慰安婦になった女性(決して、日本軍が掻っ攫って「性奴隷」にしたという意味ではない)は格好のプロパガンダの材料になる。

 要するに、女性は女性でも、彼らの「意に沿うような」女性でなければ、彼らの「救済」の対象にはならないのだ。だからこそ、「女性らしさ」という概念すらも否定してしまう。このように、女性差別と毅然と闘うふりをしながら、男性のみならず、自分たちと相容れない女性までも、その差別、批判の対象としてしまうのだ。



 3について。ルサンチマンとは、簡単に言えば、弱者が強者に対して抱くコンプレックスみたいなものだ。そしてその根幹には妬みや憎しみという感情がある。その憎しみや妬みが女性の解放という言葉に凝縮される。

 これは勝手な偏見かも知れないが、フェミニストの女性に多く見られる共通項として、「女性、女性」と言いながら、化粧はほぼしていないか、もしくはしておらず、髪型もいわゆる「女性らしく」なく、行動・振る舞いも男っぽい。これらのいずれか(もしくは複数)に当てはまるフェミニストの女性は、決して少なくない気がする。

 これも(決して認めないだろうが)どこかで「男らしさ」に憧れ、自分たちの理想を勝ち取るには、上記のようにしなければならない、みたいな、ルサンチマンに由来する感覚が働いているのではないか。柳沢厚生労働大臣の俗に言う「産む機械」発言に反発したのも肯けよう。

 「女性らしさ」という言葉に反発し、男社会の変革を訴えるには、自ら「女性らしさ」を捨てなければならないからであろう。何故なら、「女性らしさ」という概念も、男性によって「押し付けられた」ものだと理解しているから。



 4について。そもそもとして、自己が他者から侵害されていると感じる基準は、人それぞれである。フェミニストが主婦として家に入る女性を「女性の自立への侵害だ」と言っても、当の本人がそのように感じていなければ、「女性への侵害」とはならないはずだ。

 何が言いたいのか言うと、フェミニストは往々にして、女性の自立や解放を謳いながら、自分たちの意図する方向へ女性を持っていこうとしているのだ。

 彼らは、「国連の~によれば、日本の女性の社会進出率は先進諸国の中で最低クラスだ」「女性の社長は日本ではこんなに少ない」などと、具体的数値を出して言う。しかし、それがどうしたというのか。

 確かに、女性の社会進出は好ましいことだろう。しかし、では、たとえば女性の社長数と男性の社長数が同数になれば、それが本当に望ましい社会なのか。これには彼らもノーと言うだろう。しかし、それならば具体的数値を出すだけ意味のないことだ。

 視点を変えて考えれば、女性が家庭に入り、家事に専念してくれるからこそ、男性が社会に出てバリバリ働くことができるのではないだろうか。フェミニストはそんなに「黒子としての女性」はいけないと思うのか。

 社会に出て活躍するのは男性だったことは否定し難いだろう。そして、その男性にスポットライトは当てられがちだった(今もそうだが)。そして、その反射として女性が虐げられていたという見方も可能である。しかし、光(男性)は影(女性)があるからこそ光であり得るのであって、どちらが欠けても成り立つことはできないのだ。



 フェミニストはアマゾネスになりたいのか。






 ※重ねて申しておきますが、現在社会に出て活躍している女性、これから社会に出て活躍するであろう女性を非難・蔑視しているものでは、決してありません。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。