家賃滞納情報の共有構想が波紋=入居差別に懸念も(時事通信) - goo ニュース
入居者の家賃滞納状況などの信用情報をデータベース化する構想が波紋を広げている。連帯保証を有料で引き受け、家賃の支払いが遅れると立て替える保証業者が計画しており、悪質な滞納者が見分けやすくなると利点を強調する。一方、市民団体や有識者は「社会的弱者の入居差別に使われる恐れがある」と反対、対立が収まる気配は見えない。
保証業者9社は10月、「全国賃貸保証業協会」を設立し、データベースの準備を始めた。来年2月ごろから入居者の同意を得て滞納の履歴などを登録、将来は入居の申し込みがあれば業者が照会する仕組みだ。参加は20社程度まで増える見通し。
一方、悪質な家賃債務保証業者の被害防止に取り組む「全国追い出し屋対策会議」は9月、「社会的弱者が民間賃貸住宅市場から排除されることにつながる」と抗議。日本司法書士会連合会も11月、同様の理由で構想の中止を求める声明を発表するなど、「ブラックリスト化」を心配する声が出ている。
これに対し、保証業協会はきちんと家賃を払っている人の信用補完につながるなどと強調。「審査はデータベースの情報だけで決めない。決してブラックリストではない」として、構想推進の構えを崩していない。
ただ、業界側も一枚岩ではない。11月には別の団体「賃貸保証機構」が発足し、参加業者はデータベース構想を批判。生活の不安定な入居者への相談業務などに取り組むとして、同協会と距離を置く姿勢を見せている。
本記事を読んで、私は「新潮45」11月号に寄稿された内田樹「ほんとうは恐ろしい『草食系男子』」を思い出しました。以下、ここでの内田の考えに沿ってこの問題について考えていきたいと思います。
内田はまず、「ある社会的態度が集団的に採用される場合には、それが生存戦略上有利であるという判断が下されたからである」と推測します。
そして草食系男子が、身体的には細身でお洒落、かわいいしぐさが得意で幼生の哺乳類と通じる風貌をしている等と述べ、このような草食系男子のふるまいがもたらす有利さについて分析します。
そこで内田は、このように「弱い立場」にあることを強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを抑止する機制として機能しているのではないかと考えます。これにより、弱者、被害者、受難者のポジションを先取りすることができ、それが一種の「安全保障」として機能することになると考えます。
普通ならば、弱さをアピールすることは自己にとって不利にはたらくため、生存戦略上不利なはずであるが、日本ではそうではなくなってきているのではないかとし、ここからできる推論として、日本ではむしろ、「弱さ」をアピールすることのほうが有利な場合が多い社会である、という推論を展開します。
このような「弱者のポーズ」は、とりわけ「権利請求」の場面において顕著に見ることができると言います。こういうクレーマー紛いなことができるようになった背景には、チープでシンプルな物語が存在するからであるといいます。
その「物語」とは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理されている「弱い個人」という二元的な対立図式においては、つねに「弱い個人」のほうに正義があるという物語です。そしてこうした物語は、とりわけマスコミが偏愛してきたと言います。
内田はさらに、こうした考え方というのは、起源としてマルクス主義に辿り着くとします。
マルクス主義の左翼的な運動がいつの間にか、「不当に社会的資源を収奪されている弱者」であるという「倫理的優位性」を自覚した人々が、「資源の返還」を要求するものに変わってしまい、それは「他人の有罪性の告発」の運動であるといいます。現在では、もっぱら「弱者の立場から強者に対して非寛容に権利請求する」言葉が氾濫するようになったと述べます。
そして、草食系男子という「生き方」は、この「弱いふりをすることで自己利益を増大させる世渡り術」からの一種のスピンオフであるとしています。
とまぁ、ここまで内田の論考を要約してみましたが、まさにこの記事にある「市民団体」にまるっきり当てはまるものではないかと思います。この記事で取り上げている問題だけでなく、いわゆるサヨクが主導する「市民運動」の類は、ほぼすべて内田のこの理論で説明がつくと思います。
彼ら「市民」の常套手段はまず、自分たちを真っ先に「弱い」立場であると定義し、弱い立場の者たちから収奪しようとする「強者」を、必ず対置して置き、この両者を比較するかたちで自分達の「優位性」を訴えます。
ほぼすべからく、人間は「弱者」を攻撃する態度に対して拒否反応を抱きます。そうした「倫理的反応」をサヨクが主導する「市民団体」は、今までも、そしてこれからも利用し続けることでしょう。そうしなければ、自分達の「弱者としての強者」の立場が揺らぎますから。
ところで、最近のサヨクの大好きなフレーズは、「格差」、「社会的弱者」、「貧困」です。しかし、これらを見てみると、内田が述べた理論がすべて当てはまることでしょう。
すなわち、どのフレーズからも、そうした集団なり個人が「強い」、「体制的」などといった「収奪する側」的な意味合いは感じられず、ただただ「弱い」イメージを連想させます。ここが「ミソ」なのです。
つまり、やはり内田の理論にいうように、弱者を装うことにより、権利請求を容易にし、他者の有罪性を告発することにより、自身の集団なり個人が倫理的優位性を得、またはそれを保とうするのです。
この運動を主導する「市民」の中には、一体どれぐらいの割合で、本当に「社会的弱者」な人が含まれているのか、気になるところです。
入居者の家賃滞納状況などの信用情報をデータベース化する構想が波紋を広げている。連帯保証を有料で引き受け、家賃の支払いが遅れると立て替える保証業者が計画しており、悪質な滞納者が見分けやすくなると利点を強調する。一方、市民団体や有識者は「社会的弱者の入居差別に使われる恐れがある」と反対、対立が収まる気配は見えない。
保証業者9社は10月、「全国賃貸保証業協会」を設立し、データベースの準備を始めた。来年2月ごろから入居者の同意を得て滞納の履歴などを登録、将来は入居の申し込みがあれば業者が照会する仕組みだ。参加は20社程度まで増える見通し。
一方、悪質な家賃債務保証業者の被害防止に取り組む「全国追い出し屋対策会議」は9月、「社会的弱者が民間賃貸住宅市場から排除されることにつながる」と抗議。日本司法書士会連合会も11月、同様の理由で構想の中止を求める声明を発表するなど、「ブラックリスト化」を心配する声が出ている。
これに対し、保証業協会はきちんと家賃を払っている人の信用補完につながるなどと強調。「審査はデータベースの情報だけで決めない。決してブラックリストではない」として、構想推進の構えを崩していない。
ただ、業界側も一枚岩ではない。11月には別の団体「賃貸保証機構」が発足し、参加業者はデータベース構想を批判。生活の不安定な入居者への相談業務などに取り組むとして、同協会と距離を置く姿勢を見せている。
本記事を読んで、私は「新潮45」11月号に寄稿された内田樹「ほんとうは恐ろしい『草食系男子』」を思い出しました。以下、ここでの内田の考えに沿ってこの問題について考えていきたいと思います。
内田はまず、「ある社会的態度が集団的に採用される場合には、それが生存戦略上有利であるという判断が下されたからである」と推測します。
そして草食系男子が、身体的には細身でお洒落、かわいいしぐさが得意で幼生の哺乳類と通じる風貌をしている等と述べ、このような草食系男子のふるまいがもたらす有利さについて分析します。
そこで内田は、このように「弱い立場」にあることを強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを抑止する機制として機能しているのではないかと考えます。これにより、弱者、被害者、受難者のポジションを先取りすることができ、それが一種の「安全保障」として機能することになると考えます。
普通ならば、弱さをアピールすることは自己にとって不利にはたらくため、生存戦略上不利なはずであるが、日本ではそうではなくなってきているのではないかとし、ここからできる推論として、日本ではむしろ、「弱さ」をアピールすることのほうが有利な場合が多い社会である、という推論を展開します。
このような「弱者のポーズ」は、とりわけ「権利請求」の場面において顕著に見ることができると言います。こういうクレーマー紛いなことができるようになった背景には、チープでシンプルな物語が存在するからであるといいます。
その「物語」とは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理されている「弱い個人」という二元的な対立図式においては、つねに「弱い個人」のほうに正義があるという物語です。そしてこうした物語は、とりわけマスコミが偏愛してきたと言います。
内田はさらに、こうした考え方というのは、起源としてマルクス主義に辿り着くとします。
マルクス主義の左翼的な運動がいつの間にか、「不当に社会的資源を収奪されている弱者」であるという「倫理的優位性」を自覚した人々が、「資源の返還」を要求するものに変わってしまい、それは「他人の有罪性の告発」の運動であるといいます。現在では、もっぱら「弱者の立場から強者に対して非寛容に権利請求する」言葉が氾濫するようになったと述べます。
そして、草食系男子という「生き方」は、この「弱いふりをすることで自己利益を増大させる世渡り術」からの一種のスピンオフであるとしています。
とまぁ、ここまで内田の論考を要約してみましたが、まさにこの記事にある「市民団体」にまるっきり当てはまるものではないかと思います。この記事で取り上げている問題だけでなく、いわゆるサヨクが主導する「市民運動」の類は、ほぼすべて内田のこの理論で説明がつくと思います。
彼ら「市民」の常套手段はまず、自分たちを真っ先に「弱い」立場であると定義し、弱い立場の者たちから収奪しようとする「強者」を、必ず対置して置き、この両者を比較するかたちで自分達の「優位性」を訴えます。
ほぼすべからく、人間は「弱者」を攻撃する態度に対して拒否反応を抱きます。そうした「倫理的反応」をサヨクが主導する「市民団体」は、今までも、そしてこれからも利用し続けることでしょう。そうしなければ、自分達の「弱者としての強者」の立場が揺らぎますから。
ところで、最近のサヨクの大好きなフレーズは、「格差」、「社会的弱者」、「貧困」です。しかし、これらを見てみると、内田が述べた理論がすべて当てはまることでしょう。
すなわち、どのフレーズからも、そうした集団なり個人が「強い」、「体制的」などといった「収奪する側」的な意味合いは感じられず、ただただ「弱い」イメージを連想させます。ここが「ミソ」なのです。
つまり、やはり内田の理論にいうように、弱者を装うことにより、権利請求を容易にし、他者の有罪性を告発することにより、自身の集団なり個人が倫理的優位性を得、またはそれを保とうするのです。
この運動を主導する「市民」の中には、一体どれぐらいの割合で、本当に「社会的弱者」な人が含まれているのか、気になるところです。