ひとり井戸端会議

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江田の理屈は死刑肯定論

2011年01月28日 | 死刑制度
江田法相、死刑は「欠陥のある刑罰」発言を訂正(読売新聞) - goo ニュース

 江田法相は26日、報道各社のインタビューに応じ、今月14日の大臣就任時の記者会見で、死刑制度について、「いろいろな欠陥を抱えた刑罰だ」と発言したことについて、「『欠陥』というと言葉がきつすぎるので訂正したい」と述べ、事実上、発言を撤回した。
 ただ、江田法相はその後、「(死刑制度が)悩ましいのは確か。人の命はどんな命も大切。死刑廃止が国際的な流れになっている気もするが、さはさりながら、という思いもある。しっかり悩みたい」とも語り、死刑制度に慎重な姿勢を示した。江田法相は過去に国会で「私は死刑廃止論者」などと発言している。



 死刑制度に欠陥があるのか、はたまたこのア法務大臣に欠陥があるのかはともかく、江田の「人の命はどんな命も大切」という論理に潜む決定的な論理矛盾を暴いてみたい。


 「人の命はどんな命も大切」ということは、たとえ殺人者の命であろうと、その殺人者によって殺された被害者の命であろうと、両命の間に優劣はなく平等、すなわち同価値であるという理解を前提にしているものと思われる(もし、江田の言うところの「人の命」の「人」が死刑囚を指すのであれば、死刑囚間の人の命はどんな命も大切、ということになるので、私がここで述べる理屈は成立しないが、彼の法相という立場、本来的にかかる発言の持つ意味等を考慮すれば、このように考えることは正しい解釈とは言えないだろう)。


 さて、上記の理解を前提にして死刑制度を考えると、江田の理屈に立つからこそ、実は死刑制度は絶対に必要という結論になるのである。以下、それについて述べよう。

 まず、この江田の見解に立って死刑制度を廃止したとしよう。一見するとこの結論は江田のかかる発言からして当然の帰結のように見えるが、実はここには大きな矛盾が存在するのである。

 というのは、人の命はどんな命も大切=同価値、と言いながら、人を殺した者の命は奪われず、殺された者の命だけが奪われたままとなると、ここでは人殺しの命のほうが殺された者の命よりも優越するという価値判断がなされているからだ。

 しかしながら、どんな命も同価値ならば、同価値である存在に対し価値判断をすることは無意味なはずである。

 すなわち、もしどんな命も平等=同価値であると言うのならば、だからこそ、その価値を毀損した者に対しては、同等のサンクション=死刑が適用されて然るべきということにならなければならないはずである。それが、「どんな命も大切」という命題から導き出される正しい結論ではないのか。

 もう少し換言すれば、どんな命も大切=同価値だからこそ、その命を奪った者に対しては、同価値である命に対してなされたのと同じ報い、すなわち死刑という罰を与えることこそ肯定されなければならない。


 繰り返すが、どんな命も同価値と言いながら、その命を奪った者の命は奪われないということを保証すること(=死刑廃止)は、奪われた命と奪った命とを秤にかけ、後者の命のほうが重いと価値判断を下すことになるのだから、これは矛盾した結果と言わざるを得ない。



 したがって、実は江田の「人の命はどんな命も大切」という価値観は、死刑制度を肯定する何よりも有力な理由に他ならないのである。

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