ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

死刑制度と村瀬均裁判官と裁判員制度と

2014年06月05日 | 死刑制度
 死刑制度についてこれまで多くのことをここでも述べてきましたが、私が考える死刑制度は明快です。

 私は、原則として人を一人でも殺した者は死刑でいいと思っています。ただし、正当防衛のためであったり、尊属殺重罰規定違憲判決における被告のように、親から長年にわたり筆舌にし難い人権侵害を受けてきたなどといった特別な場合には、そうした「事件前」の事情を考慮し、死刑ではなく有期刑もしくは無期刑を科せばいいのです。

 ここでなぜ、かっこ付きで事件前と書いたかと言うと、「事件後に」いくら遺族らに謝罪し、自分の犯した罪の大きさに気付いたとしても、そのような事件後の勝手な贖罪など考慮する必要はないと思うからです。これを考慮して死刑を回避していたら、死刑を回避するために謝罪を装う馬鹿も出てくるに違いないでしょう。

 思うに、謝罪は死刑と両立しないものではないのだから、謝りたいのなら死の恐怖に怯えながら謝ればいいし、むしろそのほうが真剣な謝罪が期待できるのではないでしょうか。ただし、ここでも例外として、遺族の方が被告の「生きながらの謝罪」を求めているのであれば、敢えて死刑にする必要もないでしょうから、例外的に死刑以外の刑罰を考慮してもいいでしょう。

しかし、死刑制度の「メリット」は、どんなにキレイごとを並べても、結局は社会から危険分子を排除することにあると思います。そこで、被告を生きたままにすることによる社会への不利益と、そうした危険分子を除去することによるメリットを、この場合には秤にかけて刑を決定すればいいのです。

 奪われた人の命は、その命を奪った者の命によって償われる。それこそある意味において、究極の「法の下の平等」とも言えるでしょう。


 
 こうした私の死刑制度観と、どうやら真っ向から対立するのが東京高裁の村瀬均という裁判官なのでしょう。これまで原審(裁判員裁判)で死刑が言い渡された判決のうち3件は、すべて彼の手によって無期懲役に減刑されています(NAVERまとめ)。しかも、その理由が凄まじい。いわゆる量刑相場というものです。

 つまり、「一人殺したら程度で死刑は不可」というものです。これほどまでに被害者を蔑ろにした基準もないでしょう。端的に言えば、この基準は「加害者の命>被害者の命」と言っているのです。人権を持ち出すのであれば、まず法が考慮すべきは被害者(および被害者遺族)の人権であって、加害者の人権ではないはずです。

 このように、この基準は許されない基準である以上、このような基準にしたがって判決を下すことも許されません。普段、人権を重んじるリベラル勢力は、なぜこの判決を、お得意のフレーズ「結果ありき」と声を上げて批判しないのでしょう。

 このような相場主義に対して全国犯罪被害者の会の松村恒夫代表幹事は「先例主義ならロボットが判断すればいい」と批判されたようですが(産経新聞)、裁判員の人たちがトラウマになるような証拠写真等を見せられ、苦渋の結果出した死刑という選択に対し、量刑相場を理由に死刑を回避した村瀬裁判官は、人間の血が通っていないという意味で、まさにロボットと呼ぶに相応しい存在でしょう。


 
 このような機械的な理由で裁判員が苦労して出した結論を、いとも簡単に覆すのなら、裁判員制度とは何のためにあるのかと、その存在意義に疑問が生じるのは当然のことといえます。

 上級審は裁判員の出した結論に必ず従えとは考えませんが、たとえば原審の刑が極端すぎるといった場合や、新たに提出された証拠からして無罪である可能性が極めて高いといったような場合以外は、裁判員裁判で出された判決に従うべきではないでしょうか。

 裁判員法1条は裁判員制度の目的について、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを挙げています。そうであればなおのこと、村瀬裁判官は死刑判決を破棄すべきではなかったということになるでしょう。

 あるいは、そもそも国民が裁判員になって量刑にまで関与できることがこうした問題の根源であると考えるとするならば、帝國憲法時代に一時行われていた陪審員制度を復活させるのも一考ではないでしょうか。

 日本では、昭和3年から昭和18年までの間、陪審法が制定され、陪審制が敷かれていました。しかし同制度は現在、執行の停止になっているだけであって、制度そのものがなくなったわけではないのです。

 先ほど裁判員法1条を挙げましたが、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを本当に目指すのならば、村瀬裁判官のような職業裁判官の「鶴の一声」によって「民意」を潰してしまいかねない裁判員制度よりは、陪審員制度を復活させたほうが司法に民意を適切に反映できるものではないかと思います。

 もちろん、今は裁判員裁判が実施されているのであって、しかも戦前の法律ですから様々な修正を行うことも不可避でしょうが、私はこの陪審制度の復活は一考に値するのではないかと思います。

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