ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

一人殺せば原則死刑でいい(余談つき)

2010年11月21日 | 死刑制度
石巻3人殺傷 裁判員裁判 少年に初の死刑求刑 「更生期待できず」(産経新聞) - goo ニュース

 元交際相手の姉や友人ら3人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた宮城県石巻市の元解体工の少年(19)の裁判員裁判の論告求刑公判が19日、仙台地裁(鈴木信行裁判長)で開かれ、検察側が「被告人の犯罪性向は根深く、更生の可能性はない」と指摘して死刑を求刑し、結審した。裁判員裁判の死刑求刑は4例目で、少年が被告では初めて。判決は25日午後に言い渡される予定。
 裁判員は今後の評議で、少年の健全育成を掲げる少年法の精神を考慮しつつ、3人殺傷という結果の重大性に向き合うことになり、難しい判断が迫られる。
 論告で検察側は、最高裁が昭和58年に示した死刑選択の指針とされる「永山基準」を提示。さらに、被告少年の犯行時と同じ18歳の少年が母子2人を殺害し、広島高裁での差し戻し控訴審で死刑判決(少年側が上告中)が言い渡された山口県光市の母子殺害事件と比較しながら、求刑の根拠を説明。「命ごいする被害者を無視し、3人を殺傷した」と犯行態様の悪質性を改めて強調した上で、「母親への暴行により保護観察中に起きた事件で、もはや更生は期待できない。光市事件と同等かより悪質ともいえ、命で償わせることが正義にかなう」と結論づけた。
 一方、弁護側は最終陳述で「専門家も更生の可能性があると判断しており、死刑を下すべきではない」と主張して少年院送致などの保護処分を求めた。少年は結審にあたっての意見陳述で「僕みたいな最低なことをしてしまう人が現れないように、厳しく処罰してください」と述べた。
 裁判員らは今後の評議で、まず仙台家裁による検察官送致(逆送)の是非を判断。逆送を妥当とした場合は量刑を含む刑事処分の内容を決め、不当とした場合は保護処分相当として家裁に移送する。



 死刑制度についてはここで一つのカテゴリーとして掲載しているのでこちらを参照してもらいたい。

 さて、今回は敢えて法律論からすればナンセンスだとしても、私の死刑制度についての考えを再度書いてみたい。



 私は、原則として人を一人でも殺した者は死刑でいいと思っている。ただし、正当防衛のためであったり、尊属殺重罰規定違憲判決における被告のように、親から長年にわたり筆舌にし難い人権侵害を受けてきたなどといった特別な場合には、そうした「事件前」の事情を考慮し、死刑ではなく有期刑もしくは無期刑を科せばいいと思っている。

 ここでなぜ、かっこ付きで事件前と書いたかと言うと、事件後にいくら遺族らに謝罪し、自分の犯した罪の大きさに気付いたとしても、そのような事件後の勝手な贖罪など考慮する必要はないと思うからだ。これを考慮して死刑を回避していたら、死刑を回避するために謝罪を装う馬鹿も出てくるに違いない。

 はっきり言おう。謝罪は死刑と両立しないものではないのだから、謝りたいのなら死の恐怖に怯えながら謝ればいいし、むしろそのほうが真剣な謝罪が期待できるのではないか。謝罪は地獄ですればいい。

 ただし、ここでも例外として、遺族らが被告の「生きながらの謝罪」を求めているのであれば、敢えて死刑にする必要もないと言えなくもないので、例外的に死刑以外の刑罰を考慮してもいいかも知れない。

 しかし、死刑制度の「メリット」は、どんなにキレイごとを並べても、結局は社会から危険分子を排除することにあると思う。そこで、被告を生きたまま謝罪させることによる社会への不利益と、そうした危険分子を除去することによるメリットを、この場合には秤にかけて刑を決定すればいい。



 以前にも書いたが、人殺しに自分の生き死にを決定できる権限はない。それは被害者遺族や司法が決定することだ。人殺しはまな板の鯉のように、自分が生きるか死ぬかの決定をただ待つことしか許されない。

 奪われた人の命は、その命を奪った者の命によって償われる。それこそある意味において、究極の「法の下の平等」とも言える。




 ところで、裁判員の中には、自らが死刑判決を下すのにためらいを覚える者が多いという。しかしながら、ここには「自分の手は汚したくないが、死刑制度は必要」という、非常に身勝手な心理を読みとってしまう。

 周知のことだが、世論調査の全てで、圧倒的多数が死刑制度を支持している。ということは、裁判員の多くも死刑制度を支持している者たちによって構成されていると解釈してもあながち間違いでもないだろう。

 
 死刑制度という以上、誰かが死刑を執行しなければならない。のみならず、誰かが死刑を決定し、命令しなければならない。にもかかわらず、こうした死刑制度のプロセスの一翼をいざ自分が担うことになったら、死刑にためらいを覚えるとはどういうことか。

 確かに、人間の考えすべてが矛盾なく筋が通っているものではない。しかし、いざ自分が当事者となったら、死刑に対して抵抗を覚えるというのであれば、最初から死刑制度に反対したほうがいいと思う。

 もし、私が裁判員になったとしたら、(いくら殺人者とはいえ、人ひとりの命がかかっている以上気持ちは楽にはなれないが)私は死刑を下す「覚悟」をもって裁判に臨むつもりだ。それが死刑制度を支持する者の責任の果たし方であると思っているからだ。



 死刑制度を支持しておきながら、その制度のプロセスを自分が一部担うことになった場合に、そこから逃げるような態度を取るにもかかわらず自分に関係のない死刑は賛成するとなれば、死刑を執行する刑務官らに申し訳ないし、相手がたとえ人殺しであっても、その者も報われないだろう。

 当然、ここで書くほどたやすいことではない。しかし、死刑制度を支持するからこそ、裁判員に選ばれた場合にも、当事者として死刑を言い渡す用意をしておきたいものだ。

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