ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

死刑制度と村瀬均裁判官と裁判員制度と

2014年06月05日 | 死刑制度
 死刑制度についてこれまで多くのことをここでも述べてきましたが、私が考える死刑制度は明快です。

 私は、原則として人を一人でも殺した者は死刑でいいと思っています。ただし、正当防衛のためであったり、尊属殺重罰規定違憲判決における被告のように、親から長年にわたり筆舌にし難い人権侵害を受けてきたなどといった特別な場合には、そうした「事件前」の事情を考慮し、死刑ではなく有期刑もしくは無期刑を科せばいいのです。

 ここでなぜ、かっこ付きで事件前と書いたかと言うと、「事件後に」いくら遺族らに謝罪し、自分の犯した罪の大きさに気付いたとしても、そのような事件後の勝手な贖罪など考慮する必要はないと思うからです。これを考慮して死刑を回避していたら、死刑を回避するために謝罪を装う馬鹿も出てくるに違いないでしょう。

 思うに、謝罪は死刑と両立しないものではないのだから、謝りたいのなら死の恐怖に怯えながら謝ればいいし、むしろそのほうが真剣な謝罪が期待できるのではないでしょうか。ただし、ここでも例外として、遺族の方が被告の「生きながらの謝罪」を求めているのであれば、敢えて死刑にする必要もないでしょうから、例外的に死刑以外の刑罰を考慮してもいいでしょう。

しかし、死刑制度の「メリット」は、どんなにキレイごとを並べても、結局は社会から危険分子を排除することにあると思います。そこで、被告を生きたままにすることによる社会への不利益と、そうした危険分子を除去することによるメリットを、この場合には秤にかけて刑を決定すればいいのです。

 奪われた人の命は、その命を奪った者の命によって償われる。それこそある意味において、究極の「法の下の平等」とも言えるでしょう。


 
 こうした私の死刑制度観と、どうやら真っ向から対立するのが東京高裁の村瀬均という裁判官なのでしょう。これまで原審(裁判員裁判)で死刑が言い渡された判決のうち3件は、すべて彼の手によって無期懲役に減刑されています(NAVERまとめ)。しかも、その理由が凄まじい。いわゆる量刑相場というものです。

 つまり、「一人殺したら程度で死刑は不可」というものです。これほどまでに被害者を蔑ろにした基準もないでしょう。端的に言えば、この基準は「加害者の命>被害者の命」と言っているのです。人権を持ち出すのであれば、まず法が考慮すべきは被害者(および被害者遺族)の人権であって、加害者の人権ではないはずです。

 このように、この基準は許されない基準である以上、このような基準にしたがって判決を下すことも許されません。普段、人権を重んじるリベラル勢力は、なぜこの判決を、お得意のフレーズ「結果ありき」と声を上げて批判しないのでしょう。

 このような相場主義に対して全国犯罪被害者の会の松村恒夫代表幹事は「先例主義ならロボットが判断すればいい」と批判されたようですが(産経新聞)、裁判員の人たちがトラウマになるような証拠写真等を見せられ、苦渋の結果出した死刑という選択に対し、量刑相場を理由に死刑を回避した村瀬裁判官は、人間の血が通っていないという意味で、まさにロボットと呼ぶに相応しい存在でしょう。


 
 このような機械的な理由で裁判員が苦労して出した結論を、いとも簡単に覆すのなら、裁判員制度とは何のためにあるのかと、その存在意義に疑問が生じるのは当然のことといえます。

 上級審は裁判員の出した結論に必ず従えとは考えませんが、たとえば原審の刑が極端すぎるといった場合や、新たに提出された証拠からして無罪である可能性が極めて高いといったような場合以外は、裁判員裁判で出された判決に従うべきではないでしょうか。

 裁判員法1条は裁判員制度の目的について、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを挙げています。そうであればなおのこと、村瀬裁判官は死刑判決を破棄すべきではなかったということになるでしょう。

 あるいは、そもそも国民が裁判員になって量刑にまで関与できることがこうした問題の根源であると考えるとするならば、帝國憲法時代に一時行われていた陪審員制度を復活させるのも一考ではないでしょうか。

 日本では、昭和3年から昭和18年までの間、陪審法が制定され、陪審制が敷かれていました。しかし同制度は現在、執行の停止になっているだけであって、制度そのものがなくなったわけではないのです。

 先ほど裁判員法1条を挙げましたが、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを本当に目指すのならば、村瀬裁判官のような職業裁判官の「鶴の一声」によって「民意」を潰してしまいかねない裁判員制度よりは、陪審員制度を復活させたほうが司法に民意を適切に反映できるものではないかと思います。

 もちろん、今は裁判員裁判が実施されているのであって、しかも戦前の法律ですから様々な修正を行うことも不可避でしょうが、私はこの陪審制度の復活は一考に値するのではないかと思います。

どっちの味方なのですか?

2013年12月12日 | 死刑制度
死刑、またスピード執行 確定から1年4カ月(朝日新聞) - goo ニュース

【西山貴章、大野晴香】法務省が12日、安倍政権下で4度目の死刑を執行した。昨年12月に就任した谷垣禎一法相の下で執行されたのは、これで計8人となった。今年4月には確定から約1年4カ月の死刑囚に対して死刑が執行され、今回執行された一人である加賀山領治死刑囚(63)も、約1年4カ月。早期に執行する法務省の姿勢が顕著になっている。
 加賀山死刑囚は、死刑廃止派の福島瑞穂参院議員(社民党)の事務所が昨年実施したアンケートに回答。「私が今一番謝罪したい相手はこの世にいない。被害者の遺族の方たちにはどんな謝罪の言葉を書き連ねても赦(ゆる)してくれることはないだろう」と記していた。今後、再審請求する予定だとも明かしていた。
 回答では死刑制度について「反対」とし、「執行方法も残酷で、事前通知もないままいきなり執行するのは人道上問題」と記した。また、「悩みは、昔別れた2人の子どもたちと再会できるかどうか」と心情を明かしていた。
 12日に死刑が執行されたもう一人、藤島光雄死刑囚(55)の再審請求を担当したことがある秋田一恵弁護士(東京弁護士会)によると、1995年6月の死刑確定後、少なくとも5回、請求したという。藤島死刑囚は子供のころに虐待を受けていたといい、秋田弁護士は「虐待が犯行に影響を与えていた。執行を聞き、ショックを受けている」と話した。



 朝日新聞は被害者の人権よりも加害者の人権のほうが大事なようですね。この記事は全くもって外れです。一言でいえば、「だから何なの?」です。この記事はあまりにも酷い。

 私は過去にも死刑制度について私見を述べてきましたが、死刑廃止派の主張は、どれも詭弁にしか聞こえないのです。根本の部分を言わせてもらいますと、「人を殺しておきながら自分は生きたいなんて虫が良すぎる」ということです。正当防衛や尊属殺違憲事件判決のように親族から筆舌にし難い虐待を受けていたといった場合や、遺族の方が死刑を望んでいないというような場合を除き、原則は人を一人でも殺したら死刑でいいと思います。

 敢えて死者のことを悪く言いますが、この加賀山死刑囚の主張は、私の心には全く響いてきません。それどころか、随分と都合の良いことを言ってると感じました。他人の命を勝手にも奪っておきながら、よくも死刑は人道上問題などと言えるものですね。その身勝手さには心底呆れ、軽蔑します。


 それから、しばしば死刑囚の虐待などの過去の出来事が犯罪の要因になっているという指摘をみます。確かに、それが一つの要因であることは間違いないのでしょう。しかし、だからといって死刑は廃止されるべき、あるいはそういう加害者には死刑を執行すべきでないというのは、論理の飛躍というものでしょう。

 当たり前ですが、どんなに虐待を受けた人でも、辛い過去を持っている人でも、殺人など犯さずに生きている人はたくさんいます。にもかかわらず、私の邪推かもしれませんが、こういう過去の要因を持ち出し、死刑(制度)を批判するというやり方は、虐待などの辛い過去を持っている人を馬鹿にしているものだと常々感じています。虐待を受けていたから―これではまるでそういう人を犯罪者予備軍のように見ているのと変わらないと思います。


 再審請求をしていたのに、という指摘もよくありますが、これもどうかと思います。再審請求中で、しかもほぼ間違いなく冤罪だったのに死刑が執行されてしまったという場合もあり、これは私も問題だと思います。しかし、再審請求の予定だったというのは、些か死刑執行を批判する論拠としてどうかと思います。その理屈でいけば、再審請求さえすれば、いたずらに死刑執行を無期限に延期することができてしまいます。それこそが死刑廃止派の「狙い」なのでしょうが、このような「戦術」は、絶対に多くの人の支持を受けることはないでしょう。


 死刑の「スピード執行」という批判も失当です。刑事訴訟法475条では、死刑の執行までの期間を6ヶ月と定めています。確かに、判例によれば、この規定は訓示規定であり、これに反したからといって特に違法の問題は生じないといいます(東京地裁判決平成10年3月20日)。実際、この期間内に死刑の執行が行われることはまずなく、執行まで平均して約7年かかっているといいます。

そして、刑事訴訟法475条の6ヶ月という期間は、死刑が一度執行されてしまうと取り返しがつかないため、法務大臣が政治的・人道的な視点から恩赦の可能性も含めて検討するために設けられた期間であるといいます。と同時に、刑の迅速な執行とも調和をとったものだとされています。

 つまり、法制度的にも政策論的にも、熟慮をして死刑を執行すべきであるとの点で共通しているのです。谷垣大臣も事件の重大性および「記録を精査した上で慎重に判断した」とのことですから、朝日新聞の「スピード執行」という批判は全く的外れということが分かります。



 むしろ、私は、このような「お前はどっちの味方なんだ!」と言いたくなるような死刑廃止論こそ、逆に死刑制度の存置に貢献しているのではないかと思う次第です。

江田の理屈は死刑肯定論

2011年01月28日 | 死刑制度
江田法相、死刑は「欠陥のある刑罰」発言を訂正(読売新聞) - goo ニュース

 江田法相は26日、報道各社のインタビューに応じ、今月14日の大臣就任時の記者会見で、死刑制度について、「いろいろな欠陥を抱えた刑罰だ」と発言したことについて、「『欠陥』というと言葉がきつすぎるので訂正したい」と述べ、事実上、発言を撤回した。
 ただ、江田法相はその後、「(死刑制度が)悩ましいのは確か。人の命はどんな命も大切。死刑廃止が国際的な流れになっている気もするが、さはさりながら、という思いもある。しっかり悩みたい」とも語り、死刑制度に慎重な姿勢を示した。江田法相は過去に国会で「私は死刑廃止論者」などと発言している。



 死刑制度に欠陥があるのか、はたまたこのア法務大臣に欠陥があるのかはともかく、江田の「人の命はどんな命も大切」という論理に潜む決定的な論理矛盾を暴いてみたい。


 「人の命はどんな命も大切」ということは、たとえ殺人者の命であろうと、その殺人者によって殺された被害者の命であろうと、両命の間に優劣はなく平等、すなわち同価値であるという理解を前提にしているものと思われる(もし、江田の言うところの「人の命」の「人」が死刑囚を指すのであれば、死刑囚間の人の命はどんな命も大切、ということになるので、私がここで述べる理屈は成立しないが、彼の法相という立場、本来的にかかる発言の持つ意味等を考慮すれば、このように考えることは正しい解釈とは言えないだろう)。


 さて、上記の理解を前提にして死刑制度を考えると、江田の理屈に立つからこそ、実は死刑制度は絶対に必要という結論になるのである。以下、それについて述べよう。

 まず、この江田の見解に立って死刑制度を廃止したとしよう。一見するとこの結論は江田のかかる発言からして当然の帰結のように見えるが、実はここには大きな矛盾が存在するのである。

 というのは、人の命はどんな命も大切=同価値、と言いながら、人を殺した者の命は奪われず、殺された者の命だけが奪われたままとなると、ここでは人殺しの命のほうが殺された者の命よりも優越するという価値判断がなされているからだ。

 しかしながら、どんな命も同価値ならば、同価値である存在に対し価値判断をすることは無意味なはずである。

 すなわち、もしどんな命も平等=同価値であると言うのならば、だからこそ、その価値を毀損した者に対しては、同等のサンクション=死刑が適用されて然るべきということにならなければならないはずである。それが、「どんな命も大切」という命題から導き出される正しい結論ではないのか。

 もう少し換言すれば、どんな命も大切=同価値だからこそ、その命を奪った者に対しては、同価値である命に対してなされたのと同じ報い、すなわち死刑という罰を与えることこそ肯定されなければならない。


 繰り返すが、どんな命も同価値と言いながら、その命を奪った者の命は奪われないということを保証すること(=死刑廃止)は、奪われた命と奪った命とを秤にかけ、後者の命のほうが重いと価値判断を下すことになるのだから、これは矛盾した結果と言わざるを得ない。



 したがって、実は江田の「人の命はどんな命も大切」という価値観は、死刑制度を肯定する何よりも有力な理由に他ならないのである。

死刑廃止論者の言いがかり

2011年01月16日 | 死刑制度
死刑「欠陥抱えた刑罰」=世論踏まえ執行判断―江田法相(時事通信) - goo ニュース

 江田五月法相は14日夜の記者会見で、死刑執行について「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」と述べ、世論の動向などを踏まえて慎重に判断する考えを示した。
 江田氏は「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」とも指摘。ただ、制度の存廃に関しては「勉強したい」と述べるにとどめた。



 江田氏は就任早々、自分の職務の一つを放棄する可能性があると言い切った。本来なら、これだけで罷免に値する。死刑執行は法相の重要な職務である以上、死刑制度に否定的な社会党出身者を法相に充ててはならない。


 江田氏は「死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う」と述べたというが、それならば彼には、死刑制度がどのように、なぜ欠陥を抱えているのか具体的に説明する責任がある。「思う」だけでなく、どうしてそのような結論に至ったのか、きちんと説明する義務がある。

 何故ならば、死刑制度は憲法上容認され、法律において規定され、また国民の大多数の支持も受け、裁判上実際に言い渡されている刑罰であるにもかかわらず、その刑罰の執行権限を有する大臣がこれに異議を唱えたからである。


 また江田氏は、死刑制度について「世界の流れ」を考慮すべしと言うが、これもまたおかしな理屈である。

 というのは、死刑制度は死を扱うものであって、その国や地域のもつ死への考え方が如実に表れるものであり、その国や地域の死生観にかかわることである。そういった問題を、文化や宗教の異なる海外の国が死刑を廃止しているからといって、これに従うべきと考えるべきではないと思うからである。

 したがって、死刑制度を存続させるか廃止するかを決定する基準は、海外の動向ではなく、死刑という法制度を有している国の国民の考え方であるのではないか。



 そもそも、「欠陥」を抱えていない刑罰など果たして存在するのだろうか。刑罰の根拠である法は人間が作る以上、人間は無謬の存在ではないのだから、人間が作ったものに欠陥がないと考えるほうがどうかしている。人間の作ったものに無謬性を求めるというのは、左翼の発想である。

 また、欠陥性を言うのであれば、それこそ「子ども手当」や「高校無償化」のほうが、死刑制度よりもはるかに多くの欠陥を抱えていると、私は「思う」のだが。



 法務大臣に就任したからには、職務の一つに欠陥があるからといってこれの放棄を示唆するような発言は断じて許されない。彼の理屈に従えば、「子ども手当」を欠陥と考える役所の職員が、市民への子ども手当の支給を拒否することだって可能と言わなければならない。

 つまり、彼の理屈でいけば、いくらでも職務の放棄が許されるということになってしまう。これでは国家として立ち行かなくなるのは明白である。


 法相の職務として死刑執行が現にある以上、これにイチャモンをつけて署名を拒否するのではなく、同制度に欠陥があると考えるのなら、その「欠陥」はどうすれば除去ないしは緩和できるのか考えることこそ、彼の職務遂行においてあるべき姿である。

一人殺せば原則死刑でいい(余談つき)

2010年11月21日 | 死刑制度
石巻3人殺傷 裁判員裁判 少年に初の死刑求刑 「更生期待できず」(産経新聞) - goo ニュース

 元交際相手の姉や友人ら3人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた宮城県石巻市の元解体工の少年(19)の裁判員裁判の論告求刑公判が19日、仙台地裁(鈴木信行裁判長)で開かれ、検察側が「被告人の犯罪性向は根深く、更生の可能性はない」と指摘して死刑を求刑し、結審した。裁判員裁判の死刑求刑は4例目で、少年が被告では初めて。判決は25日午後に言い渡される予定。
 裁判員は今後の評議で、少年の健全育成を掲げる少年法の精神を考慮しつつ、3人殺傷という結果の重大性に向き合うことになり、難しい判断が迫られる。
 論告で検察側は、最高裁が昭和58年に示した死刑選択の指針とされる「永山基準」を提示。さらに、被告少年の犯行時と同じ18歳の少年が母子2人を殺害し、広島高裁での差し戻し控訴審で死刑判決(少年側が上告中)が言い渡された山口県光市の母子殺害事件と比較しながら、求刑の根拠を説明。「命ごいする被害者を無視し、3人を殺傷した」と犯行態様の悪質性を改めて強調した上で、「母親への暴行により保護観察中に起きた事件で、もはや更生は期待できない。光市事件と同等かより悪質ともいえ、命で償わせることが正義にかなう」と結論づけた。
 一方、弁護側は最終陳述で「専門家も更生の可能性があると判断しており、死刑を下すべきではない」と主張して少年院送致などの保護処分を求めた。少年は結審にあたっての意見陳述で「僕みたいな最低なことをしてしまう人が現れないように、厳しく処罰してください」と述べた。
 裁判員らは今後の評議で、まず仙台家裁による検察官送致(逆送)の是非を判断。逆送を妥当とした場合は量刑を含む刑事処分の内容を決め、不当とした場合は保護処分相当として家裁に移送する。



 死刑制度についてはここで一つのカテゴリーとして掲載しているのでこちらを参照してもらいたい。

 さて、今回は敢えて法律論からすればナンセンスだとしても、私の死刑制度についての考えを再度書いてみたい。



 私は、原則として人を一人でも殺した者は死刑でいいと思っている。ただし、正当防衛のためであったり、尊属殺重罰規定違憲判決における被告のように、親から長年にわたり筆舌にし難い人権侵害を受けてきたなどといった特別な場合には、そうした「事件前」の事情を考慮し、死刑ではなく有期刑もしくは無期刑を科せばいいと思っている。

 ここでなぜ、かっこ付きで事件前と書いたかと言うと、事件後にいくら遺族らに謝罪し、自分の犯した罪の大きさに気付いたとしても、そのような事件後の勝手な贖罪など考慮する必要はないと思うからだ。これを考慮して死刑を回避していたら、死刑を回避するために謝罪を装う馬鹿も出てくるに違いない。

 はっきり言おう。謝罪は死刑と両立しないものではないのだから、謝りたいのなら死の恐怖に怯えながら謝ればいいし、むしろそのほうが真剣な謝罪が期待できるのではないか。謝罪は地獄ですればいい。

 ただし、ここでも例外として、遺族らが被告の「生きながらの謝罪」を求めているのであれば、敢えて死刑にする必要もないと言えなくもないので、例外的に死刑以外の刑罰を考慮してもいいかも知れない。

 しかし、死刑制度の「メリット」は、どんなにキレイごとを並べても、結局は社会から危険分子を排除することにあると思う。そこで、被告を生きたまま謝罪させることによる社会への不利益と、そうした危険分子を除去することによるメリットを、この場合には秤にかけて刑を決定すればいい。



 以前にも書いたが、人殺しに自分の生き死にを決定できる権限はない。それは被害者遺族や司法が決定することだ。人殺しはまな板の鯉のように、自分が生きるか死ぬかの決定をただ待つことしか許されない。

 奪われた人の命は、その命を奪った者の命によって償われる。それこそある意味において、究極の「法の下の平等」とも言える。




 ところで、裁判員の中には、自らが死刑判決を下すのにためらいを覚える者が多いという。しかしながら、ここには「自分の手は汚したくないが、死刑制度は必要」という、非常に身勝手な心理を読みとってしまう。

 周知のことだが、世論調査の全てで、圧倒的多数が死刑制度を支持している。ということは、裁判員の多くも死刑制度を支持している者たちによって構成されていると解釈してもあながち間違いでもないだろう。

 
 死刑制度という以上、誰かが死刑を執行しなければならない。のみならず、誰かが死刑を決定し、命令しなければならない。にもかかわらず、こうした死刑制度のプロセスの一翼をいざ自分が担うことになったら、死刑にためらいを覚えるとはどういうことか。

 確かに、人間の考えすべてが矛盾なく筋が通っているものではない。しかし、いざ自分が当事者となったら、死刑に対して抵抗を覚えるというのであれば、最初から死刑制度に反対したほうがいいと思う。

 もし、私が裁判員になったとしたら、(いくら殺人者とはいえ、人ひとりの命がかかっている以上気持ちは楽にはなれないが)私は死刑を下す「覚悟」をもって裁判に臨むつもりだ。それが死刑制度を支持する者の責任の果たし方であると思っているからだ。



 死刑制度を支持しておきながら、その制度のプロセスを自分が一部担うことになった場合に、そこから逃げるような態度を取るにもかかわらず自分に関係のない死刑は賛成するとなれば、死刑を執行する刑務官らに申し訳ないし、相手がたとえ人殺しであっても、その者も報われないだろう。

 当然、ここで書くほどたやすいことではない。しかし、死刑制度を支持するからこそ、裁判員に選ばれた場合にも、当事者として死刑を言い渡す用意をしておきたいものだ。

何のための死刑制度か

2009年02月19日 | 死刑制度
 これまでもここで度々死刑制度について論じてきたが、私がどういう思いを根底に置きつつ死刑制度を支持してきたのかについては論じてこなかった気がする。そこで今回は、私がどうして死刑制度を支持するのか、その思いの根底にある考えについて述べてみたいと思う。



 まず、死刑制度を支持する理由として、目には目をではないが、他人の命を奪っておきながら、奪った本人は刑期さえ満了すればぬけぬけと娑婆の空気を吸えるということが許せない。

 お金やモノは一度奪われても修復できたり取り返しがつくが、命は一度奪われれば取り返すことができない。にもかかわらず、その掛け替えのない命を奪っておきながら、自身の命は保障されるとは、あまりに虫のいい話ではないか。掛け替えのない命を奪った者は、原則として自分の命をもって犯した罪を償うべき。



 そして敵討ちが禁止されているのだから、国家が代わって敵討ちを行うべきである。被害者遺族の方の中には、自らが代わって犯人を殺してやりたいと思う人は決して少なくないと思う。しかし、敵討ちは禁止されているためできない。

 それならば、刑罰権の行使を担当する国家が被害者遺族になり代わり、犯人に死罰を与えてやるのが筋である。そのために国家は犯罪者の生殺与奪の権を握っているのだ。犯罪者に死をもって償わせることは国家にしかできないことである。被害者遺族の方が犯人の死を望むなら、国家がその願いを叶えてやったっていいはずだ。



 何よりも、死刑制度の最大の意義は、社会から危険分子を排除することにある。人権というキレイごとを盾に、犯人擁護のおべんちゃらばかり口にする人権派は聞いて怒りだすだろうが、私はこれこそが死刑制度に最も期待している効果なのである。

 はっきり言う。私は人殺しと同じ空気など吸いたくない。そして人を殺した者を社会復帰させようなどという考えも間違いだと断言する。人殺しがまた社会に出て人を殺しでもしたら、たまったものではない。被害者に謝罪したいから生きたい?それなら謝罪は地獄でしてろと言いたい。

 人殺しに自分の生き死にを決定できる権限はない。それは被害者遺族や司法が決定することだ。人殺しはまな板の鯉のように、自分が生きるか死ぬかの決定をただ待つことしか許されない。

 話が逸れたが、人殺しを社会から排除するという意味で、死刑制度は大きな社会貢献を果たしていると思うのである。



 ここまで述べて敢えて補足をしておくが、私は人を殺せばどんな者でも死刑だと言っているわけではない。戦争時において国家・国民のために相手国の人間を殺すことは(良いことではないが)仕方ないし、正当防衛のために相手を殺害してしまった者まで非難するつもりは毛頭ない。

 私が「人殺し」と呼んでいるのは、たとえば山口の光市母子殺害事件の加害者のような、自分の欲求やフラストレーションの発散のために人の命を奪った者のことである。私にはこういう身勝手な動機で人を殺しておきながら、のうのうと社会に出てこれるというのは、絶対におかしいと思っている。自身の犯した罪の重さに気付き、たとえ反省や贖罪をしても、それでも自分の命をもって償えと言いたい。



 身勝手にも人の命を奪ったのだから、自分の命を差し出せ。それが社会から危険分子を排除するためにもなる。過激であるのは承知で書いたが、これが私が死刑制度を支持する根底にある理由である。

どちらが「異常事態」か

2008年10月28日 | 死刑制度
「国際世論に背」 死刑執行に議連・市民団体が声明(朝日新聞)

 法務省が2人の死刑を執行したことを受け、「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長、亀井静香衆院議員)や死刑に反対する市民団体は28日、抗議声明を発表した。議連事務局長の保坂展人衆院議員は「今年になって5回目で、計15人が執行される異常事態。国際世論に背を向けている」と話した。
 ジュネーブにある国連規約人権委員会は近く日本政府に対し、死刑制度などについて勧告を出すとみられる。このため議連では、「国連から何を言われても関係ないという意思表示にみえる」と政府を批判する声も出た。
 国連規約人権委員会の10月の審査では、日本の死刑や代用監獄制度などをめぐり、「10年前の前回審査時から問題提起に十分対応していない」などといった批判が相次いでいた。



 死刑制度の是非等を含めた検討は「死刑制度についてのまとめ」において詳細に行ったのでここでは死刑制度の詳細にまで立ち入らないが、保坂氏の言う「異常事態」という言葉が全く解せないので、この批判に再批判を加えたい。

 最新の情報によれば、今回の死刑執行によって、死刑確定者の数は101人になったという。まず、この数字を見て、何か違和感を覚えないだろうか。そう、刑が確定しているにもかかわらず、その刑が執行されずにいる者が101人もいる、ということについてだ。

 刑事訴訟法475条2項には、死刑の執行は「六箇月以内にこれをしなければならない」と規定されているにもかかわらず、これまで10年間での死刑執行までの平均期間は8年という。まず、こちらのほうが「異常事態」ではないのか。



 ところで、日本は法治国家である。法治国家は法の支配(rule of law)が貫徹されてなければならないのは当然である。法による支配の貫徹は、その法に付与された効果も現実になって、はじめて達成され得るものであるはずだ。だから、規定が作用していないザル法は、法の支配の実現に寄与しない産物である。そのような法は可及的速やかに廃棄されるか改正されなければならない。

 死刑制度(各法に規定されている死刑という刑罰)の効果は、死を伴う制裁である。この効果が現実に移されて、つまり、死刑囚に死刑が執行されてはじめて死刑制度が法の支配の一翼を担うたるに値するものになるということである。規定のみ存在し、それが実際に効力を発揮していない制度など、あってないようなものと同じである。よって、死刑の執行停止(モラトリアム)は、法の支配を揺るがすものであり、許されないと考えるものである。

 死刑制度について書くたびに何度も繰り返しているが、死刑を宣告された者達は、適正な法手続(due process of law)を経て、その刑を決定された者であって、決して無法な復讐劇の被害者ではない。国家が何の罪もない人間を突然連行して拘束し、死を与えるのならば当然問題だが、たとえ冤罪の可能性を考慮しても、裁判上で「クロ」と確定した以上、その者に制裁を与えなければ、法の支配が揺らぐことになる。

 死刑制度賛成派の私から言わせれば、「死刑制度」があるにもかかわらず、ましてや、その制度によって刑が確定している人間がいるにもかかわらず、死刑が執行される度に抗議することこそが「異常事態」なのであって、理解できない。そして、法務大臣という立場は、わが国法制度の中枢の存在であり、このポストにある人物が、既存の法の規定に背き、死刑の執行に反対するほうが「異常事態」であり、法制度に「背を向けている」ことになる。

 それにこれも以前述べたことなのだが、国際世論がどうであろうと、そんなものは関係なく、「国連から何を言われても関係ないという意思表示にみえる」ということでいいのである。というのは、死刑制度は「死」を扱うものであって、その国や地域のもつ死への考え方が如実に表れるものであり、その国や地域の死生観にかかわることである。そういった問題を、文化や宗教の異なる海外の国が死刑を廃止しているからといって、これに従うべきと考えるべきではないと思うのだ。死刑制度を存続させるか廃止するかを決定する基準は、海外の動向ではなく、死刑という法制度を有している国の国民の考え方であるはずだ。死刑とは人の生命を奪う制度である。他所の国がこうだからとか、国際世論の流れだからとかいった理由で存廃を決めるようなことは、絶対にあってはならない。



 思うに、死刑という制度があり、実際に現場では死刑を言渡され確定した者もいる。それにもかかわらず刑が執行されないというのは、法の支配を骨抜きにしているだけでなく、ある意味死刑囚にとっても無用の苦痛を与えることになっているのではないか。

 死刑が確定し、あとは死を待つのみとなった身。その者はいつ自分の「番」になるか気が気ではない思いで生きていかねばならない。生きた心地もなく、生き地獄であろう(だからこそ死刑囚には適度な運動(縄跳び)などをさせ、精神的に破綻することを防止している)。その生き地獄が今までは8年も続いたのだ。見方によっては、このほうが残酷であり、人権を蹂躙しているように思われる。少なくとも自分が死刑囚ならば間違いなく発狂してしまうだろう。死刑執行に抗議する者たちは、死刑囚の置かれたこのような精神状態に思いを馳せることはないのだろうか。



 それに、実は死刑を宣告され、死刑を待つ身になったほうが、贖罪意識は高まるとの実務家からの報告もあるのだ。死刑を宣告されたことによって、相手を殺めた者がはじめて「死」を意識するようになり、自分の犯した罪の重大さに気づき、反省するということらしいのだ。死刑制度は思わぬところで効果を発揮していたと言えよう。

 死刑執行の数の多さを「異常事態」だと非難する前に、死刑制度の意義をもう少し丁寧に考え直してみてはどうか。私は、人を殺した者は特別な事情のない限り、原則死刑でいいと思っている。

死刑が廃止された場合の状況を想定してみた

2008年05月07日 | 死刑制度
 今回ここで述べる見解は、はっきり言って何ら根拠のない、私の推測によるものですから、もしかしたら杞憂に終わるかも知れませんし、そうではないかも知れません。



 日本の死刑制度が仮に廃止されたとしよう。そして廃止後の最高刑が、仮釈放なしの終身刑が導入された場合と、無期懲役が最高刑になった場合との二つに分けて考えてみよう。

 前者の場合、仮釈放なしの終身刑である以上、この刑に服する者は、一生を塀の中で過ごすことになる。もちろん、外部の生活に戻れることはない。しかし、死刑という制度がなくなった以上、この囚人らの一生の「お世話」は、我々国民の税金によってしなくてはならない。

 仮に40歳で終身刑の刑に服し、日本人のおおよその平均寿命である80歳まで生きたとしたら、この者の残り40年間の人生を、税金によって支えていくことになる。一人の囚人を一生塀の中で生かしておくだけのために、何千万円、何億円という巨額の税金がつぎ込まれることになる。このことに国民の理解は得られるか。

 しかも、以前も述べたが、このような「生かさぬよう、殺さぬよう」みたいな状態で、ただ「命だけは取られていない」状態で、国家によって「生かされているだけ」の状態が、果たしてこの囚人も含め、国民全体にとって有益なことだろうか。もっと言えば、これこそ憲法の禁じる「残虐な刑罰」(36条)ではないのか。



 後者の場合、仮に今の保護観察制度の下で、死刑制度があれば死刑相当だった犯罪者を社会復帰させた場合、果たして大丈夫だろうか。大丈夫だろうか、というのは、社会がこのような人間を受け入れるような土壌かということと、現在の保護観察制度では、あまりに覚束ないという両方の意味でである。

 社会は死刑相当だった犯罪者を唯々諾々と受け入れるほど寛容ではないと思うし、このような犯罪者ならば、刑の確定までに相当にセンセーショナルにマスコミなどによって報道されるだろうから、それによるレッテル貼りも相当にされていると思う。社会の目は冷ややかなものであるに決まっている。

 そして、現在の保護観察の運用では、社会復帰を目指した更正・矯正教育などほぼ無力だろう。現在、保護監察官が一人あたり抱えている保護観察者数は、数百件にのぼるといい、もはや保護監察官による対象者一人ひとりにきめ細かい対応など到底望めない状況であるし、保護司も多くは篤志家であったり、ボランティアであったりする。年齢も高齢化が進んでいる。保護司の報酬というのも、コーヒー代程度の些細なものである。

 適切な社会復帰教育もままなっていない現在の保護観察制度を改めないまま、ただ人権への配慮一辺倒で死刑を廃止しても、状況は改善されないだろう。もちろん、再犯率をゼロにすることは不可能だろうが、現状を改善しようとせずに死刑制度だけを先に廃止しても、国民の体感治安の悪化が進むだけではないだろうか。



 そして、これは両者のケースに該当するだろうが、特に後者のケースに言えることだと思うが、仮に死刑制度が廃止された場合、国民はより過激な刑罰を求めはしないだろうか。

 死刑よりも過激な刑罰なんて存在しないと思うかもしれないが、たとえば山口県光市の母子殺害事件が、もし死刑制度の廃止された日本で起こっていたとしたら、世論が「死刑がないのならば、せめて去勢したり断種したりぐらいしろ!」と要求してくるかもしれない。もしかしたら、体内にGPSなどを埋め込まれたまま、24時間一生監視されるようになるかもしれない。これのほうが、実は死刑にされるよりも、遥かに犯罪者の人権を蹂躙していることにはなりはしないか。生きていれば人権は保障されるなどと思ったら、それは大間違いである。



 思うに、刑罰の本質は応報であり、ある意味「見せしめ」である。国民は、凶悪な犯罪者に国家が国民に代わり死刑を執行することにより、国民の「憂さ」を晴らし、犯罪に対して国民が募らせているフラストレーションの「ガス抜き」をしているのではないか。しかし、死刑が廃止されてもガスは溜まるので、これを別のやり方で抜かないといけなくなるので、先に挙げたようなことになりかねないのではないかと思うのである。死刑がそこで絶妙のバランスを保ち、凶悪な犯罪者を絶つことにより、社会を防衛し、国民の憂さも晴らす。死刑が存在することによって、刑罰の運用が実は上手くいっているのではないかとも思う。

 しかし、いくら何でも「市中引き回しの上、打ち首」というような死刑の仕方は残虐なのは言うまでもないが、今の絞首刑といっても、極力犯罪者に苦痛を与えないで死刑を執行する方法を模索しなければならない。これは、死刑廃止派に、「死刑はやっぱり残虐だから廃止すべき!」という批判の口実を与えないためでもある。

 アメリカでは毒物投与による死刑執行が残虐であるとして違憲とする判決が最近出たが、それでも薬物投与による死刑の執行は、死刑囚に無駄な精神的負担を与えず、しかも国民の憂さを晴らすという点では、一考に値する死刑の執行方法であると思う。やり方次第では、絞首刑よりも刑務官の肉体的、精神的な負担も少ないかも知れない。



 死刑制度というのは、やはり人間社会にとってなくてはならない「必要悪」なのであろう。

死刑制度についてのまとめ

2008年04月27日 | 死刑制度
1、はじめに

 4月21日、日本中の注目を集めた山口県光市母子殺害事件差戻し審において、元少年に対し死刑が言い渡された。この事件は多くのマス・メディアによって報道され、人々の関心を集め、弁護団と被害者遺族の一挙手一投足が取り上げられ、その多くに賛否両論が巻き起こった。この事件を皮切りに、現在わが国においては、にわかに死刑制度の在り方が大いにクローズアップされていると思われる。今や死刑制度の運用は国民的関心事と言っても過言ではないかもしれない。そこで、今回は、このタイムリーな死刑制度を考察することにしたい。



2、海外の動向

・死刑廃止国と存続国

 死刑制度をめぐる海外の動向は、死刑廃止国の場合、死刑をあらゆる法規から削除した国と、戦時の逃亡や反逆罪といった罪に対してのみ死刑を存続している国とに分けることができる。2008年1月1日現在、前者が91カ国、後者が11カ国である。

 対して、死刑制度を存続させている国も、法規の上では死刑制度が存在するものの、そのモラトリアム期間が10年以上経過しまたは死刑の執行を政策上中断している国と、過去10年以内に死刑を執行している国とに分けることができる。2008年1月1日現在、前者が33カ国、後者62カ国である。死刑廃止国という概念に存続国の前者も含めるならば、その数は135カ国にのぼり、世界の趨勢は死刑廃止国が多数派を占めていることになる 。

・いわゆる「死刑廃止条約」の成立

 1989年12月15日、死刑廃止条約(Second Optional Protocol To The International Convention On Civil And Political Rights Aiming At The Abolition Of The Death Penalty)が国連総会で、賛成59カ国、反対26カ国、棄権48カ国で採択された。死刑廃止条約1条1項には「何人も、この選択議定書の締約国の管轄内にある者は、死刑を執行されない」とあり、2項では「各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するためのあらゆる必要な措置をとらなければならない」と規定する。条約の発効は1997年7月15日に行われた。日本は「死刑廃止の問題は、一義的には各国によりその国民感情、犯罪態様等を考慮しつつ慎重に検討されるべき」であるなどとし、現在のところ批准していない 。

 なお、2007年12月18日、国連総会において死刑制度を維持している加盟国に対し、死刑の廃止を視野に、執行の停止を求める決議が、賛成104、反対54、棄権29で採択された。マレーシアなどは、「最も忌まわしい犯罪に死刑を適用することは刑事司法制度の根幹」であるとして反対をした。日本、アメリカ、中国も反対した 。

・アメリカにおける死刑

 死刑制度が州ごとにまちまちなアメリカでは、国民の約63%が殺人犯への死刑適用を支持しているという。そして死刑執行者数も、1981年が1件であったのに対し、1896年が18件、1996年が45件、2000年が85件と、急激な増加を続けているという。18歳未満の少年事件においても、いくつかの州では死刑制度が採用されているという。その一方で、イリノイ州では2003年、死刑は人権を侵害しているということで、知事の寛大な処置を同州の171名全ての死刑囚に広げた 。

 死刑制度を存続している州の間でも、その執行の度合いには差があり、死刑制度を維持している州でも、テキサス州は比較的他の州のそれと比べ、死刑執行に熱心である。それは、現大統領G・W・ブッシュ氏が死刑制度を積極的に支持しており、彼がテキサス州知事であったことも関係あるとされている 。



3、国内における状況

・刑事法上の死刑に関する規定

 刑法において刑罰に死刑が採用されている犯罪は、内乱の首謀者(77条1項1号)、外患誘致(81条)、外患援助(82条)、現住建造物等放火(108条)、現住建造物等侵害(119条)、汽車転覆等致死(126条3項)、往来危険による汽車転覆等(127条)、水道毒物等混入致死(146条後段)、殺人(199条)、強盗致死(240条後段)、強盗強姦致死(241条後段)の12があり、その他特別法によって5つの死刑相当犯罪が規定されており、合計17種の犯罪に死刑が採用されている。

 死刑の執行は、法務大臣の命令により判決確定の日から6ヶ月以内に行うとされている(刑事訴訟法475条)。そして、法務大臣が死刑執行を命じたときは、5日以内に執行し(同法476条)、死刑は検察官、検察事務官及び刑事施設の長の立会いのもと執行される(同法477条1項)。ただし、死刑の言渡しを受けた者が心神喪失状態又はその者が懐胎している場合には、法務大臣の命令により死刑の執行を停止できる(同法479条)。刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条2項は「日曜日、土曜日、国民の祝日に関する法律に規定する休日、1月2日、1月3日及び12月29日から12月31日までの日には、死刑を執行しない」と定めている。

・死刑は憲法36条に言う「残虐な刑罰」に該当するか

 このことについて最高裁は、「生命は尊貴である」が、「憲法第13条においては(中略)公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第31条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適正の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている」のであって、憲法自身が「刑罰としての死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきであ」り、そして「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない」が、死刑といえども「その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地からして一般に残虐性を有するものと認められる場合には(中略)憲法第36条に違反する」と述べ、現在の死刑制度を合憲とした(最高裁昭和23年3月12日大法廷判決)。

・死刑判断の基準をめぐる最高裁の変遷

 裁判所が死刑判決を言渡す際の基準とされたものに、最高裁昭和58年7月8日判決(「永山事件」判決)がある。この事件において最高裁は、1ヶ月たらずのうちに、東京、京都、函館、名古屋の各地において4人を射殺した、犯行当時19歳であった永山則夫に対し、「現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」と判示し(いわゆる「永山基準」)、死刑を言渡した。

 その後、最高裁は平成18年6月20日判決(「光市母子殺害事件」判決)において、「永山事件」判決を引きつつ、犯行の諸点を総合して判断した上で、少年による犯罪といえども「特に斟酌すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかな」く、犯人の年齢は「死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえず、本件犯行の罪質、動機、態様、結果の重大性及び遺族の被害感情と対比・総合して判断する上で考慮すべき一事情にとどまる」と判示した。

・死刑の執行状況

 2008年現在、日本国内の死刑確定囚の総数は104名にのぼる 。国内における死刑の執行状況は1990年~1992年の3年間の死刑不執行期間を除き、毎年数人ずつ執行されている 。死刑判決確定数は、過去5年間だと、2003年が2件、2004年が15件、2005年が11件、2006年が20件、2007年が23件であり、過去5年間の死刑執行数は18人である 。2007年の死刑判決数は46件であった。なお、死刑執行人数は、今年に入り7人になる。

・世論の潮流

 死刑制度に関する世論の潮流は、内閣府が平成16年(2004年)に行った基本的制度に関する世論調査によると、死刑賛成派が81.4%であり、死刑廃止派は6.0%であった 。この調査結果に対し、調査方法などに疑問を投げかける向きはあるものの、死刑制度は日本国内の多くの国民の支持を得ているといえ、死刑制度は国民の法感情(正義感)にも一致していると考えられる。



4、死刑廃止論と存置論

 以下において、死刑廃止論と死刑存置論の主な論点と考えられているものを箇条書きで挙げていきたい 。

・死刑廃止論の主な論点

①人道主義的見地からして、死刑は野蛮で残虐な刑罰
②国家が国民に殺人を禁じておきながら、国家が死刑を執行するのは矛盾している
③処刑させられる者を生きて贖罪をさせるほうが意義があるが、死刑だとそれができない
④誤判であった場合、死刑が執行されると取り返しのつかない事態になる
⑤死刑に犯罪抑止の効果はみられない

・死刑存置論の主な論点

①人の命を奪った者には自らの命で償わせるべき
②凶悪な犯罪者を死刑をもって排除することにより、社会防衛に役立っている
③社会の応報感情が死刑を執行することにより晴らされる
④世論の多くが死刑を支持している
⑤死刑には犯罪の抑止効果も期待できる



5、検討

 死刑制度をめぐる議論にはいくつか指摘したい点があるが、まず、裁判所が死刑を選択するか否かの基準として、「殺害された被害者の数」を挙げていることには、やはり納得がいかない。殺害された被害者の数によって死刑が選択されたり回避されたりすることが起こってくるということは、それは裁判所が加害者の命と被害者の命とを秤にかけ、どちらの命がより重いか決定していることになる。しかも今までの裁判所の流れとしては、殺害された被害者が複数人いなければ、死刑が選択されてこなかった 。これでは、殺害された1人の被害者の命は加害者の命よりも軽く、しかもその重さが逆転するには、複数の被害者の命がなければならないということになる。これは到底理解の得られるものではないだろう。

 死刑廃止派は「国家が国民に殺人を禁じておきながら、国家が死刑を執行するのは矛盾している」と言うが、これは矛盾などしていないのではないか。というのは、近代国家の成立を社会契約論に立ってみた場合、国家は、自然状態の中でバラバラに生活をしていた個々人が自分たちの生存を保障するために国家創設に向けて契約をしたことによって成立し、国家の成立に際し、人々は自然権のうちに持っていた報復権を放棄した。そして、その執行を国家が人々の代わりに行う義務が生じたので死刑制度があるのであり、その意味において、「死刑は、国家が、報復権を本人になりかわり」行う制度だからである 。

 本来個々人が有していた報復権を、社会契約を交わすことによって国家が創設されたことによって、その執行義務を国家が負ったと理解すれば、死刑制度は国家が国民に対し殺人を禁じていることと何ら矛盾はしない。

 そして、「処刑させられる者を生きて贖罪をさせるほうが意義があるが、死刑だとそれができない」という主張は、死刑制度と贖罪は両立し得ない(死なせてしまっては、加害者から、罪と向き合い反省する機会を奪ってしまうことになる)と言うことだろうが、果たして本当に両立しないのだろうか。

 罪を償うということは、その時間の長さを競うものではないだろう。罪の償いには時間はかかるが、本当に自分の犯した罪を反省し、本気でそれと向かい合う気概があれば、贖罪は死刑判決を言渡され、刑が執行されるまでに十分できるはずである 。むしろ、たいして心のこもっていない形式だけの贖罪を続けるのよりも、死刑を宣告されることにより、自分が被害者にもたらした死と、自分も向き合うことにより、どれだけのことを自分がしてしまったのか、心の底から反省できるのではないか。加害者に罪を自覚させるためにも、死刑制度は存続させる価値のあるものだと思う。

 つづいて、「誤判であった場合、死刑が執行されると取り返しのつかない事態になる」というが、誤判の可能性は、裁判を全能ではない人間が行う以上、あらゆるケースにおいてついてまわることであり、こと死刑制度に限った問題ではなく刑罰全体について言えることであり、しかも誤判の可能性と死刑制度の是非は別問題であるという指摘もある 。

 死刑は、人の命を奪う究極の刑罰であり、その決定には慎重を要するのは言うまでもないが、裁判は法の適正手続(due process of law)に則って行われるものであり、その結果として出されるのが死刑判決であるので、誤判の可能性がまったくないとは言えないが、誤判の可能性を極力排除したシステムの下で死刑制度は運用されていると思われるので、誤判の可能性を出して死刑制度を批判するというのは、やや無理があるのではないだろうか。

 それから、死刑制度を仮に廃止するならば、そのためには憲法の改正も視野に入れて主張する必要があると思われる。何故ならば、「憲法第31条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適正の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている」(前掲最高裁判決)と、最高裁も明言しているからである。判例によれば、死刑制度といえども、その執行方法がその時代において残虐なものでない限り憲法に反しないのである以上、現行憲法では執行の手段(やり方)の違憲性は36条で問えるとしても、死刑制度それ自体の違憲性を問うことはできず、そのためには死刑制度を支えている憲法そのものを改正しなければ死刑の廃止は実現できないのではないだろうか。なお、法務大臣の死刑執行の署名拒否は、憲法73条1号に反するとも指摘されている 。

 次に、刑事訴訟法475条も検討の余地があるのではないか。刑事訴訟法では、死刑の執行までの期間を6ヶ月と定めているにも関わらず、この期間内に死刑の執行が行われることはまずなく、執行まで平均して約7年かかっている。

 6ヶ月という期間は、死刑が一度執行されてしまうと取り返しがつかないため、法務大臣が政治的・人道的な視点から恩赦の可能性も含めて検討するために設けられた期間であり、かつ刑の迅速な執行とも調和をとったものだとされているが、判例によれば、この規定は訓示規定であり、これに反したからといって特に違法の問題は生じないとしている(東京地裁判決平成10年3月20日)。

 しかしながら、骨抜きにされ実際に守られていない規定ならば、おおよその目安としての価値はあるとしても、早々に改正する必要があるのではないか。死刑執行までの期間の現状を踏まえた上で、再審請求にかかる期間なども考慮に入れ、現実に即し、かつ死刑囚に無闇に精神的負担を与えないような期間に定めなおす必要があると考えられる。

 死刑制度の廃止を求める一部には、釈放なしの絶対的終身刑の導入を主張する向きもあるが、これには賛同できない。刑務官経験のある人物は、絶対的終身刑を導入すれば、囚人が「自暴自棄になってどんな行動にでるかわからない」と話している 。ドイツでは「生きたままの埋葬」という批判もある。思うに、一生を社会から隔離された塀の中で過ごすことを強制するほうが、実は憲法の禁止している「残虐な刑罰」(36条)に該当するのではないか。

 死刑制度の廃止の根拠を、国際社会の潮流に求めようとすることにも激しい違和感をおぼえる。そもそも、死刑制度は死を扱うものであって、その国や地域のもつ死への考え方が如実に表れるものであり、その国や地域の死生観にかかわることである。そういった問題を、文化や宗教の異なる海外の国が死刑を廃止しているからといって、これに従うべきと考えるべきではないと思う。死刑制度を存続させるか廃止するかを決定する基準は、海外の動向ではなく、死刑という法制度を有している国の国民の考え方であるのではないか。

 中央学院大学元教授の重松一義氏の、「死刑制度の存廃は世論調査とか、犯罪の増減で決められるようなものではな」く、「死刑制度は仮に適用されなくとも、人類の法的なけじめとして法体系の極限に置いておくことに意味がある。罪深き人間に対する戒めであり、重しのような存在であるからだ。例え、未来永劫、凶悪犯罪が一件も起きなかったとしても、法として掲げておくことにこそ死刑の存在価値がある」という言葉 は、示唆に富んでおり、印象に残った。

日本の死刑制度は絶妙なバランスを保っている

2007年12月09日 | 死刑制度
 法務省がついに死刑を執行された者の罪状や名前等を公表した。これに対し、「人権派」と目される方々が例の如く批判を加えている(死刑囚の氏名公開で賛否 死刑廃止派に懸念も(朝日新聞))。

 毎度のことながら繰り返すが、死刑判決を受け刑を執行された者は被害者でも何でもなく、法の適正手続(due process of law)のもと、刑を言い渡され、その刑を受けた者たちなのだ。
 そもそも、彼らの人権云々を言う前に、彼らが何の罪もない人の生命を奪っていることを忘れてはならない。他人の生命を奪っておきながら、自己の生命は保障される。こんな虫のいい話はない。

 死刑廃止論者の言うとおりに刑法典から死刑を排除すれば、それは人殺しを禁じた法が自ら人殺しを奨励することになると考えている。これほど矛盾したことはない。だってそうだろう?他人の命を奪っても自分の命は守られると法が宣言しているのだから。こんな素っ頓狂でおかしな話はない。

 法は加害者と被害者、どちらをより手厚く保護すべきか。加害者は自ら法を破ったのだ。つまり進んで法の外に出て行ったのだ。対して被害者は、法の外に出て行ってないのだから、法の保護を手厚く受ける資格は十分にある。
 もし死刑制度がなければ、法を破った者がその破った法によって保護をされ、法の中にいたにも関わらず自身を傷つけられ、自身の権利を蹂躙された者が、法にそっぽを向かれることになる。このアンバランスを是正するのに一役買っているのが、死刑制度である。

 しかも、日本の死刑制度は残虐でもなく(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日等)、厳格かつ適正な法手続きのもと執行される。これは加害者を罰し(刑罰の本質の一つは応報にある)、しかも被害者の無念も晴らす、絶妙なバランスを保っている。更に、国民からも絶大な支持を得ている。日本の死刑制度は、刑罰の理想型と言ってもいいぐらいだ。

 法が人殺しをしてはいけないと命令しておきながら、一方で人殺しを行った者の生命は保障する。死刑廃止とはそういうことなのだ。これでは、借金をしておきながら故意に返済を拒む者、契約を破った売主を保護してやることと同じだ。法は盗人を保護するものではなく、盗人の出現を防ぎ、盗人が現れればこれを罰するものでなければならない。


死刑制度に関する記事(小ブログより)
死刑制度と憲法
検証 伊藤真氏の死刑廃止論
検証 伊藤真氏の死刑廃止論2

全く的外れな法相批判

2007年08月26日 | 死刑制度
 先日、長勢法相の3名の死刑囚の死刑に対し、死刑廃止議連が抗議したようだが、それについて違和感を感じた。以下、法相の死刑執行命令は当然ということを述べていく。 

 まず、刑事訴訟法475条2項には、死刑の執行の命令は「判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」と規定されている。最高裁でこの規定は訓示にすぎないという判示がなされてはあるものの、具体的日数を挙げて死刑の執行を定めている以上、蔑ろにはできないはずである。
 死刑の執行は、本来ならば可及的速やかに行われなくてはならない、法務大臣の重要な任務なのである。

 現在の法相である長勢氏の前任であった杉浦氏は、自身の思想信条を理由に死刑執行を拒みつづけた。いつの日の産経新聞の記事かは覚えていないが、法務省の職員は辞任直前の杉浦氏に、確実に死刑を執行すべき幾人かを選び出し、それへの署名を迫ったが、彼が書類にサインをすることはなかった。
 法務省の職員が、辞任寸前の大臣に死刑執行予定者を提示し、その執行を迫ること自体は、しばしばあることで珍しくはないが、そんな杉浦氏の後任に長勢氏が同ポストに就任した。これは見方を変えれば、それまでの法相の職務怠慢を、長勢氏が処理しているということになる。 むしろ、この見方のほうが正しい。

 現在の厳罰化の流れは、誰が法務大臣になるかを考えてその流れを緩やかにしたり急にしたりするものではない。悠長に自身の思想信条を盾に死刑の執行を拒絶し続けていても、現場(裁判所)では死刑判決が出され、その数は増える。死刑を言い渡された被告人の数が3桁を突破したというニュースも記憶に新しい。では、もし法相が死刑の執行を拒み続けたら、それはどういうことを意味するか。

 死刑囚とは、日本国内において規定された適正な法手続(due process of law)を経て、その刑を決定された者だ。決して無法な復讐劇の被害者ではない。

 ということは、法的手続きはきちんと踏んできたということになる。換言すれば、適法な手続きの積み重ねの結果ということになる。そこで法相がその最終決定を保留しつけるということは、法治国家ならぬ「放置国家」であるということを意味する。国家の法体系の総元締めとも言える法務省の大臣が、法的に決定されたことに従わないということは、法の自殺行為であるとすら言える。
 法相のエゴイズムのために、それまで「生きた法」であったものを「死んだ法」へと転換するということである。

 死刑制度の廃止を主張すること自体を否定するつもりはない。しかし、死刑制度を廃止したいのならば、法務省に抗議に行くのではなく、それに向けた法的手続きを示すのが、法治国家における立法府の議員のあるべき姿ではないだろうか。

死刑制度と憲法

2007年05月26日 | 死刑制度
 周知の通り、死刑制度に関しては、戦後間もなくの頃から、以来、存置派と廃止派は互いに激しい論争を展開しています。今回は、憲法と死刑制度の関係について、少し考察していきます。

 憲法36条に、次のような規定があります。「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」。しばしば死刑廃止派は、この条文を挙げ、死刑制度の廃止を訴えることがあります。その主張とは、すなわち、死刑が憲法36条の「残虐な刑罰」に該当する、というものです。確かに一見すると、たとえ日本の死刑の執行方法が絞首によるとはいえ、それは取り返しのつかない人の生命を奪うことであり、憲法で禁止している「残虐な刑罰」に該当するように見えます。現に裁判でも死刑の合憲性が争点になったことがあります(代表的なものとして、最大判昭和23年3月12日)。

 しかし、このような主張に対し、最高裁は現在に至るまで一貫して死刑の合憲性を認め、死刑制度は憲法違反ではないとしています(とは言うものの、国民感情の推移によっては、死刑制度が将来違憲となる可能性も指摘しており、前掲最高裁判決では、死刑の執行方法が火あぶり、磔など、「その時代と環境において人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合」には、憲法の言う「残虐な刑罰」に該当すると判示しています)。

 更に、憲法を持ち出して死刑制度の廃止を訴えるならば、その同じ憲法に、死刑制度を是認すると解される条文も同時に存在しているのです。それは13条と31条です。13条には「生命自由及び幸福追求に対する国民の権利」は、「公共の福祉に反し」てはならないと規定されています。つまり、死刑の執行によって社会悪の根源を絶ち、それによって社会を防衛するためには、死刑制度は許されるというものです。31条は、もっと明確に死刑制度を是認しています。すなわち「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命」を「奪はれ」ないと規定しています。死刑制度を「残虐な刑罰」を絶対に禁止する憲法自ら肯定しているのです。

 もちろん、国民感情が変化すれば、死刑制度が将来違憲の存在となることは最高裁が指摘したようにその通りですが、現実は法務省の調査によれば、約8割の国民が死刑制度を支持しています(これは大分前の調査結果らしいので、凶悪犯罪の増加が叫ばれて久しい現在では、もっと多くの国民が死刑制度を支持している可能性も考えられます。なお、総理府(当時)が行った死刑制度の世論調査では、平成元年の時点ですが、死刑制度廃止に反対の国民は66.5%であったといいます。)。国民感情も死刑制度を支持している以上、現在国内法体系における死刑制度は、合憲とされると解釈していいでしょう。

検証 伊藤真氏の「死刑廃止論」その2

2007年05月23日 | 死刑制度
 前回と同じく、伊藤真氏の死刑廃止論について、気になった点、違和感を感じた点を検証していきたいと思います。



 「EU(欧州連合)では死刑が廃止されていると聞いています。でも、コソボの空爆など、人道のための戦争を始めてしまいました。『それはおかしいではないか。あなたたちの国は死刑を廃止しているでしょう? 死刑を廃止しているなら人道目的の戦争、空爆などやめるべきです』という主張を、9条を持っている日本は、EU諸国やアメリカに対してすべきだと思います。
 9条を変えて自衛隊を自衛軍にしようとする流れは、死刑をなくしていこう、人の命というかけがえのないものを政治や一定の目的のための道具にすることはやめよう、ということに対して少なからぬ影響を及ぼすのではないかと私は危惧します。」

 「おかしい」のはEUではなく、伊藤氏のほうである。戦争による殺害行為と、死刑の執行による殺人とを混同しているとは。確かに、人が死ぬという結果のみに着目するのであれば、両者は同じように見える。しかし、死刑を廃止するならば戦争もしてはならない、とか、憲法9条があるから死刑を存置するのはおかしいということになはらないのである。
 死刑とは、法の適正な手続きの下、(誤判の可能性は別として)「クロ」と認定された者に執行されるものであって、戦闘行為による人間の殺害とは、死に至るプロセスがまるで違う。そして、「 死刑を廃止しているなら人道目的の戦争、空爆などやめるべきです」と相手に言えるのならば、逆に日本は死刑を存置している以上、EU諸国よりも率先して「人道上の戦争」や「空爆」を展開すべき、ということになるのだが。
 死刑は犯罪者を殺すのあって、何の罪もない人を殺すものでない。戦争では何の罪もない人々が犠牲になる可能性は否定できないが、何の罪もない人に死刑が適用される可能性は、(絶対にないとは言わないが)極めて低い。
 そもそも戦争とは、あらゆる交渉手段を尽くした上で、それでもまだ国家間の問題が解決しない場合に、最終的に行使されるものであって(プロイセンの軍事学者であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争は手段を替えた政治である」という言葉を遺している)、死という結果だけを抽出して死刑制度と同列に論じることなどできないのだ。



 「言うまでもないことですが、今の憲法でも被害者の人権は立派に保障されています。13条でプライバシーが保障されていますし、21条で知る権利、また25条で生活面が保障されています。しかし、それを具体化する制度などがまだ足りないのではないかと思います。」

 その通り、それを具体化する法制度がなかったのである。しかしながら、それを具体化することを拒んできたのも、その多くが死刑廃止を主張している者だった気がするが。それに、この件は加害者の場合に比べ、やけにそっけない。この「そっけなさ」こそが、いつまでも国民から支持を得られない理由の一つであることに気づかないのだろうか。
 確かに憲法13条でプライバシー権が保障されているが、それを「知る権利」の名の下に侵害してきたのがマスコミである。マスコミの報道の自由と被害者のプライバシー権の整合性を取らなければならないことは、伊藤氏も承知はしているだろうが、これを「具体化する制度」の確立など、本当にできるのであろうか。近時のメディアの知る権利、報道の自由の濫用とも言える過剰な報道姿勢を見る限り、首を傾げざるを得まい。



 「事実上の終身刑という代替措置への理解も当然必要です。終身刑ということになると、凶悪犯罪を犯した人を最後まで国が面倒をみなければなりません。税金で三食の面倒をみて、おなかが痛いといったら医師の治療を受けさせ、また歯が痛いといったら歯医者さんに連れて行って治療を受けさせなければなりません。従来ならば死刑になったような人を終身刑にした場合、その一人の方に何億円税金を投入することになるのか。ここのところは是非、国民の理解を得なければなりません。大変なことだと思いますが、人権というものはそういうものなのです。」

 ここで伊藤氏は終身刑の導入を主張しているが、伊藤氏は終身刑を導入したフランスの実情を知らないのか(知っていても敢えて口にしていない可能性のほうが、極めて高いが)。その実情とは、終身刑を導入したのはいいが、そのため囚人が凶暴化し、看守組合が自分たちの命が守れないとストライキを起こしたというものだ。
 そして、人間が自らの意志で行動できず、社会から隔離された塀の中で一生を過ごす状況のほうが、ある意味死刑よりも「残虐な刑罰」と言えるのではないか。伊藤氏の言う終身刑とは、ただ生きているだけ、生かされているだけである。命が担保されさえすればそれでいいと言わんばかりである。
 伊藤氏はこの前に「自分のされて嫌なことを人に強制することはできない」といった趣旨の発言をしているが、それならば、少なくとも自分は極悪非道な犯罪者を税金で生かしてやることなど、断固反対だ。そんな者に支払う金など、びた一文持ち合わせていない。しかし、税金による以上、それは「強制」的に回収されることになる。伊藤氏の理論ならば、紛れもなく、これは私に対する人権侵害である。そうなる以上、終身刑の導入は実現不可能ということになる(だって「強制」は許されないのだもの)。犯罪者の人権すらも等しく保障するのだから、犯罪者ではない私の人権も保障されなければ、筋が通らない。


 
 「最後に、『真理は少数意見にあり』ということについて簡単に触れてみたいと思います。
 民主主義とは国民の多数意見に従って仕事をしていくことです。でも、そのときどきの多数意見が間違ってしまう危険性があります。ですから、あらかじめ頭が冷静なときに多数意見に従って誤った判断をしないよう歯止めをかけていく道具が憲法に他なりません。」

 上記に加えて伊藤氏はこの後に、「ときに、真理は少数意見にあるということです。」と述べている。これもまたミルの『自由論』の二番煎じであることは明白だが、確かにそういった場合もあるだろう。ところで、伊藤氏は「死刑廃止=真理」と理解しているようだが、それは果たして本当だろうか。そしてもし本当であっても、それを明確なかたちで提示できるのか。人の命が一度失われたら取り返せないということは、死刑存置派も共通している前提なのだから、それをもって真理だというには、まだ詰めの甘さを感じてしまう。更にこの後、死刑の廃止は「人類の理想」とまで言っているが、少なくとも自分は「命を奪った者は、自らの命をもって償う必要がある場合が往々にして存在する」と考えているので、これは死刑反対派の理想であっても、同じ「人類」の一員である私の理想ではない(同時に死刑存置論者の理想でもないだろう)。
 伊藤氏も指摘しているように、民主主義社会とは、多数者の意見によって政治が動かされる社会である。そしてその多数意見が間違っている可能性があるのも間違いないだろう。しかし、民主主義という政体を選択したということは、そういったリスクをも包含し甘受するのが、その恩恵を受ける国民の責任である。多数者の意見ではなく、少数者の意見に真理がある可能性があるのならば、いっそのこと寡頭制でも絶対王政でもいいのではないか。
 「あらかじめ頭が冷静なときに多数意見に従って誤った判断をしないよう歯止めをかけていく道具が憲法に他なりません。」と言うが、この件、意味が分からない。まず、「頭が冷静なとき」というのは、いつのことを指すのか。そして「誤った判断」とは何を言うのか。死刑のことか。そうであるならば、私から言わせれば、伊藤氏のほうが「誤った判断」をしている。何故ならば、私は死刑存置=真理だと確信しているから。
 どの判断が正しくて、どの判断が誤っているのかなど、様々な意見がある以上、結局は実際のところ言ってしまえば、判断などできないのだ。それをさも判断できるかのように言っているが、それは驕りである。よって、民主主義では多数者の意見が政治に反映される以上、「多数意見に従って誤った判断をしないよう」に、「歯止めをかける」のが「憲法」であるとは言えない。むしろ、民主主義社会における憲法とは、(誤っていようが)多数者の意見を積極的に受け入れるものでなくてはならないはずである。多数意見に歯止めをかけるのが憲法であるという理解の下では、民主主義社会では憲法そのものが成立しないのではないだろうか。憲法が多数意見の歯止めとなってはならない。これと、伊藤氏が後に述べる「人権の保障」を憲法に盛り込むことは、何ら矛盾などしないのである。

 なお、この伊藤氏の主張全文は以下のページにて見られます。
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_itou.html

検証 伊藤真氏の「死刑廃止論」その1

2007年05月23日 | 死刑制度
 弁護士であり、法律資格試験の第一人者である伊藤真氏が、昨年4月18日、衆議院第2議員会館で開かれた死刑廃止を推進する議員連盟総会での記念講演において、何故死刑を廃止しなければならないかについて以下のような主張を展開されました。しかしながら、この主張、一見最もらしく聞こえるのですが、読んでいて多くの箇所で違和感を感じたので、その点に関し、特に気になった点を検討をしていこうと思います。以下「」の部分は伊藤氏の見解です。



 「死刑については人道的な観点、哲学的な観点、宗教的な観点など、いろいろな観点から議論がなされていますが、ここでは、憲法という観点から光を当ててみた場合どういう問題点があるか考えてみたいと思います。」

 ここがまず引っかかった。法とは人道的・哲学的・宗教的な観点など、様々な観点からの要素が複合して成立しているものであるのに、なぜ憲法をそれらから切り離した上で、死刑について論じようとしているのか。憲法とは、宗教観や哲学観など、様々な価値観を背景を持つ人間が作成するものであって、これらの観点を考慮せずに法制度を論じること自体、間違っていると言わざるを得ない。



 「まず、憲法36条で残虐な刑罰は絶対にしてはならないことになっています。」

 確かにそう規定してある。しかしながら、死刑そのものは憲法で禁止する「残虐な刑」にはあたらないとの最高裁判断がある(最高裁判決昭和23年3月12日)。同時にこの判決において、死刑制度が将来残虐な刑罰として違憲とされる可能性もあると述べているが、それは国民感情にかかっているとしている。そうであるならば、現在死刑制度そのものは、国民から憲法でいう「残虐な刑罰」として認識されていないことになる。法務省の世論調査では、約8割の国民が死刑制度を支持している(ちなみに反対は約6~7%)。その後の判例も、死刑制度を合憲としている。
 そもそもとして、憲法を持ち出すのであれば、その同じ憲法の31条には「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命」を奪われないと規定されている。ということは、憲法自身が法律に定める手続きによって生命を奪うことを是認しているのである。



 「一人ひとりが幸せであることのために社会や組織や国家が存在するのであって、国家のために個人があるのではない、一人ひとりの個人が幸せに生きることができる社会を築き上げていくことが国の仕事であるという発想です。『個人のための国家であって、国家のための個人ではない』ということです。」

 ここも引っかかった。この見解の根幹には、国家と国民が対立関係にあり、両者は完全に切り離された状態で存在しているという考えがあると思う。しかし、少なくとも日本のような民主主義国家の場合、国家の存続条件として国民からの信託、民意の反映というものがなければならない。
 自由や人権を保障するために個人は集まり、国家というものを創出した。よって、どちらが欠けてもいけない。そしてどちらか一方を蔑ろにしてもいけない。換言すれば、個人のために国家は存在するのと同時に、国家のために個人は存在するのだ。しかし、伊藤氏の上記の見解はこの基本的な観点が欠けているため、致命的である。



 「『自分の身内が殺されたときに、その犯人を人間として尊重しろなんて言えるのか!』と突きつけられたら、正直言って私は自信がありません。目の前にいる被疑者、被告人をすぐに殺してほしいと思うぐらいの憎しみを持つかもしれません。それでも、やはり、罪を犯したと疑われている被疑者、被告人に少なくとも裁判を受ける権利を保障し、人として尊重しなければなりません。そこはがまんしなければなりません。」

 まず、自分の発言に自信(責任)を持てないのなら、死刑廃止を主張することは、やめたほうがいい。そして、ここもまた曲解(というか誤解?)をしている。我々死刑存置論者は、あくまで法の適正な法手続き(Due Process of Law)を踏んだ上での死刑という結果に賛成しているのであって、適正な法的手続きを外れた仇討ちや報復行動までをも是認しているわけではない。よって、いかに残虐な被告人であっても、人権はあるし、それは保障されなくてはならないから、裁判を受ける権利は当然に認められるし、それを剥奪しては法治国家ではなくなってしまうではないか。



 「私たちの憲法は『疑わしきは罰しない』という選択をしました。間違っても、無実の人が処罰されたり、死刑になったりすることがない社会を私たちは選択しました。そのほうが、より自由が保障され、望ましい社会になると考えたのです。
 裁判は人間が行うので、誤判の危険が最後までつきまといます。冤罪は戦後の有名な4つの事件だけではありません。最近も冤罪ではないかといわれている事件がいくつもあります。人間の判断に過ちの危険性がある限り、制度として死刑を認めることは、個人の尊重、個人の尊厳という憲法の根本の価値に反すると私は考えています。」

 確かに「疑わしきは罰する」よりは「疑わしきは罰しない」という選択をしたことはよいことであろう。このように、しばしば誤判の可能性を死刑廃止論に結びつけた主張をよく目にする。しかし、このことと死刑廃止論は全くの別次元の問題であって、合わせて考えてはならない。
 誤判の可能性は、刑罰を課す場合、死刑に限らず存在するはずであるのに、なぜ死刑のときだけ、誤判の可能性を殊更強調するのか、死刑が人命を奪うからか。しかし、そうであるならば、死刑相当の事件のみ他の事件の場合よりも厳重な法手続きを要求すれば済む話であって、誤判の可能性があるから死刑はいけないは短絡的であって、説得力に欠けるものである。
 更に、伊藤氏がこの先で展開するように(この先で、「死刑は、国家による殺人であり、最大の人権侵害」と発言している)、人権侵害の視点からこのようなことを言っているならば、万能な神ではない人間が裁判を行う以上、常に誤判の可能性はつきまとっているのであって、もう刑罰制度自体、存在してはならないことになる。



 
 「本当に他の手段では、その目的(犯罪の抑止、予防)が達成できないのだろうかと必死になって考えているのでしょうか。代替手段では死刑存置の目的になっているものを本当に達成できないのでしょうか? そこをもっともっと議論し、もっと詰めていかなければいけないと思います。安易に死刑という手段に訴えることは間違っていると思います。」

 確かに安易に死刑という手段に訴えるべきではない。代替手段で死刑の果たしている目的(上記のもの以外に、社会の安全の確保なども考えられる)が達成できているという確たるものに、今まで出会ったことがない。死刑廃止論者は昔からひたすら同じことを言っているが、言葉ばかりは躍るものの、それを社会の犯罪防止・抑止に反映できていない。
 この主張に関しては、中央学院大学元教授、重村一義氏の言葉を挙げておこう。
 「死刑制度は、仮に適用されなくても、人類の法的なけじめとして法体系の極限に置いておくことに意味がある。罪深き人間に対する戒めであり、重しのような存在であるからだ。例え、未来永劫、凶悪犯罪が一件も起きなかったとしても、法として掲げ続けておくことにこそ死刑の存在価値がある。」



 「『人を殺すことはいやだ』と多くの人は思うでしょう。でも、自分がやりたくないことを刑務官の方に任せて、『仕事だから仕方ない』というのは間違っているのではないかと思います。自分がやりたくないことは人に強制すべきではありません。これも人権の根本の発想です。自分が人を殺したくないと思うのなら、刑務官の方にそれを仕事として強制すべきではありません。
 裁判官だって自分の信条で、死刑の判決は出したくないと思っている方もいると思います。死刑執行の署名をしたくないと考える法務大臣もいるでしょう。しかし、仕事だからといって、自分の信条や宗教観、世界観を投げ捨てて署名をさせ、死刑執行に荷担させることは、合理的な理由のある人権の制限とは思われません。人を殺すことを許すかどうかは、人間の根本の価値観やその人の人間性に関わると思うからです。『私は人を殺したくない』と思っている人間に、『仕事だから人を殺すことに荷担しなさい』と強制することは、その人の思想や信条、いわば人間性の根本をゆがめることにつながります。それは、公共の福祉だから、または、仕事だからがまんしろといって強制できる話ではないと思っています。」

 これもまた、おかしな主張である。死刑に限らず、「自分のやりたくないことを、人に強制してはならない」と伊藤氏は言うが、それでは社会は成り立たないのではないか。誰もがやりたくないと思われる仕事(たとえば公衆トイレの掃除や汚物の回収など)をやってくれる人がいるから、社会はうまく回っているのだ(職業選択の自由の上で、そのような人たちがみんな「すすんで」やっているわけではないだろう)。
 根本的な問いだが、職業上常に「自分の信条や宗教観、世界観」が担保されることなど、あるのだろうか。もしそんな世界が存在するならば、そこはカオス以外の何物でもないだろう。極論だが、そうならば人を殺すことに関わる職業に、最初から就かなければいい。それだけである。
 伊藤氏のこのような主張は、J.S.ミルの『自由論』の二番煎じに過ぎない。