昨日私の母、前田(阪口)美奈子が永眠いたしました。
78歳でした。
明日は母親の79歳の誕生日を祝うはずだったのですが。。
母の死は、なにか大きな意味を感じざるを得ないタイミングでしたので、自分のためにもここに書き残しておこうと思います。
ータイミング。
“いのち”や“魂”という普遍的なテーマを持った作品「Silently She Dances-静かなるダンス-」に取り組んでいるとき。
そしてその作品が愛媛で初日を迎える、まさにその日の昼に、母は心肺停止となり倒れました。意識不明。
そしてそのことが起きることをどこかでわかっていた自分がいました。
四国への出発前日、弱りつつある母を抱きしめ、なぜか涙が流れました。
母はわたしに「大好き」と言ってきた。。
ここ何十年もなかったような母娘のつながりを感じ、何か予感するものがあったのです。
幸い翌日から、母はだんだんと意識を取り戻しました。
しかし私はまだツアーの本番が残っている。
ツアーの主催者であるレナード衛藤さんにはこのことを伝えましたが、ご自身もこういった状況を経験されており、わたしの意思で決めることだ、と、大きな懐で受け止めてくださいました。
母は持ちこたえてくれていたので全ての本番を終えてから帰ることができました。
しかしやがて、いわば延命するかどうかの決断をするときがきました。言葉には語弊がありますが、、
我が家はそれはしないと決めていました。
それからしばらく、母は苦しそうにあちこちを旅しているようでした。
それを見守る時間はわたしにとってはたくさんのことを感じる時間でした。
同時に冷静な自分が、「このことがこれからの舞台人生に生きることは間違いない」と思う、そしてそれを 「当然だろ」、と受け流す父。
さすが、長きにわたる俳優人生。すごい。
でも同時にすぐにはらはらと涙を流す父。こんな父は見たことがなかったな。。
倒れてちょうど一週間、母がいままでにないはっきりした意識で何かを訴えた時がありました。
それが腰の痛みのせいだとわかるまでに何時間もかかったけれど、姿勢を変えてあげると、それまでの表情が嘘のように穏やかな顔になった。
今までにない穏やかさ。
そしてその夜、母はわたしの夢枕に現れ、「もう苦しくな〜い」って言っていた。清々しい魂が透けたような笑顔で。
“ああ、そろそろかな。。”
翌日、母は召されていきました。
わたしは母の最後にたくさんのことを教わり、感じることができました。
そのような時間をもらったこと、母に感謝せねばなりません。
母は元“劇団民藝”の女優でした。
私の名前は劇団の演目でもあるチェーホフ「かもめ」の主人公の名前をいただきました。
「ニーナ」は女優であることが生きることそのものだったキャラクター。
私もどうやらその名の通り、ダンスが生きることそのものになっているようです。
劇団民藝 「法隆寺」より (滝沢修さんと)

この間、わたしを支えてくださった方々にこころから感謝を。。
また、この一週間、クラスを代講してくださる友人に感謝を。。
クラスを楽しみにしてくださったみなさまには申し訳ありませんでした。
お通夜・お葬式は執り行わず、親族のみで荼毘に付し、海に散骨をします。
海に還ることは母の心からの希望でした。
母の魂は永遠に私たちのこころの中に生き続ける。
引き続き創作が続く「静かなるダンス」に向け、
そして「いのちてんでんこ」の上演に向け、ますます身が引き締まる想いです。
お母さん、ありがとう!
78歳でした。
明日は母親の79歳の誕生日を祝うはずだったのですが。。
母の死は、なにか大きな意味を感じざるを得ないタイミングでしたので、自分のためにもここに書き残しておこうと思います。
ータイミング。
“いのち”や“魂”という普遍的なテーマを持った作品「Silently She Dances-静かなるダンス-」に取り組んでいるとき。
そしてその作品が愛媛で初日を迎える、まさにその日の昼に、母は心肺停止となり倒れました。意識不明。
そしてそのことが起きることをどこかでわかっていた自分がいました。
四国への出発前日、弱りつつある母を抱きしめ、なぜか涙が流れました。
母はわたしに「大好き」と言ってきた。。
ここ何十年もなかったような母娘のつながりを感じ、何か予感するものがあったのです。
幸い翌日から、母はだんだんと意識を取り戻しました。
しかし私はまだツアーの本番が残っている。
ツアーの主催者であるレナード衛藤さんにはこのことを伝えましたが、ご自身もこういった状況を経験されており、わたしの意思で決めることだ、と、大きな懐で受け止めてくださいました。
母は持ちこたえてくれていたので全ての本番を終えてから帰ることができました。
しかしやがて、いわば延命するかどうかの決断をするときがきました。言葉には語弊がありますが、、
我が家はそれはしないと決めていました。
それからしばらく、母は苦しそうにあちこちを旅しているようでした。
それを見守る時間はわたしにとってはたくさんのことを感じる時間でした。
同時に冷静な自分が、「このことがこれからの舞台人生に生きることは間違いない」と思う、そしてそれを 「当然だろ」、と受け流す父。
さすが、長きにわたる俳優人生。すごい。
でも同時にすぐにはらはらと涙を流す父。こんな父は見たことがなかったな。。
倒れてちょうど一週間、母がいままでにないはっきりした意識で何かを訴えた時がありました。
それが腰の痛みのせいだとわかるまでに何時間もかかったけれど、姿勢を変えてあげると、それまでの表情が嘘のように穏やかな顔になった。
今までにない穏やかさ。
そしてその夜、母はわたしの夢枕に現れ、「もう苦しくな〜い」って言っていた。清々しい魂が透けたような笑顔で。
“ああ、そろそろかな。。”
翌日、母は召されていきました。
わたしは母の最後にたくさんのことを教わり、感じることができました。
そのような時間をもらったこと、母に感謝せねばなりません。
母は元“劇団民藝”の女優でした。
私の名前は劇団の演目でもあるチェーホフ「かもめ」の主人公の名前をいただきました。
「ニーナ」は女優であることが生きることそのものだったキャラクター。
私もどうやらその名の通り、ダンスが生きることそのものになっているようです。
劇団民藝 「法隆寺」より (滝沢修さんと)

この間、わたしを支えてくださった方々にこころから感謝を。。
また、この一週間、クラスを代講してくださる友人に感謝を。。
クラスを楽しみにしてくださったみなさまには申し訳ありませんでした。
お通夜・お葬式は執り行わず、親族のみで荼毘に付し、海に散骨をします。
海に還ることは母の心からの希望でした。
母の魂は永遠に私たちのこころの中に生き続ける。
引き続き創作が続く「静かなるダンス」に向け、
そして「いのちてんでんこ」の上演に向け、ますます身が引き締まる想いです。
お母さん、ありがとう!
出演作品をご記入くださりありがとうございます!
阪口美奈子さんの映画出演は次の5本です。
「実いまだ青し」1959年 日活 牛原陽一監督
「煙の王様」1963年 日活 樋口弘美監督
「ヒロシマの証人」1968年 独立プロ 斎藤和彦監督
「私が棄てた女」1969年 日活 浦山桐郎監督
「君は海を見たか」1971年 大映 井上芳夫監督
(テレビドラマは沢山あり)
私は残念ながら母の女優姿を生で見たことがないので、こうしてメッセージいただくことは嬉しく、心あたたまります。母は劇団民芸におりました。余談ですが、私の名前は母の思い入れのある「かもめ」のニーナ役から来ているんです。
大変品のいい女優さんで、検索しているとこのサイトに行き着きました。
娘さんがこのようなサイトを開いていらっしゃるのに心を打たれ、コメントさして頂きます。
きっと優しいお母様であられたのでしょう。
もともとは舞台俳優さんだったのですね。
日本映画俳優全集・女優編(キネマ旬報社 昭和55年発行)に比較的詳しく紹介されています。
「一女あり」と掲載されています。あなた様のことでしょう。
嬉しいとともにとても懐かしい気持ちになりました。私を産んでからというもの、母は本当に私が舞台に最善で臨めるようにいてくれ、最期もまさにそのようなタイミングを選んでくれたかのようでした。自分の使命を全うすべく精進したいと思います。
もしこうやってブログを見てくださっていて舞台にも足をお運び下さることがあれば是非ご一報ください!
突然のお母様の訃報、びっくりしています。
実は、先週金曜日に新国のスタジオ・リハ見学があって、一緒に行った友人と、新奈ちゃんの話題をしていたところでした。その時、新奈ちゃんのお母様のこともちょっと話題に出ていたので、ほんとうに驚きました。
お母様とは、新奈ちゃんの公演の時に、ちょっとだけお話させていただいたことがありました。新奈ちゃんが古典はもうやらないと決意した頃で、「残念です」とお伝えしたら、「私も反対なんです」とおっしゃっていたのをよく覚えています(苦笑)
その頃は、新奈ちゃんのことを想ってのご心配だったのでしょうけれど、最近の新奈ちゃんの素晴らしい、そして逞しいご活躍は、きっと、頼もしくご覧になっていたことと思います。
今も、これからもずっと、天国から新奈ちゃんを見守ってくださっていますよ。
心よりお母様のご冥福をお祈りいたします。