今日は、先週見てきた映画『ハーモニー』の感想を。
伊藤計劃の映画三部作の第二弾。
第一弾の『屍者の帝国』では、死者の蘇生技術が発達した19世紀のイギリスが舞台でしたが、この『ハーモニー』では、「生命主義」になった近未来の世界が描かれています。その未来の世界はディストピアなのか、ユートピアなのか・・・。
■映画『ハーモニー』予告編
アメリカで発生した暴動がきっかけで起こった、地球規模での大混乱「大災禍」。
その「大災禍」を乗り切った人類は、その反省をもとに、極度の健康志向と平和志向になっていき、超高度医療社会を立ち上げます。
生まれた時から体内に埋め込まれた「WatchMe」と呼ばれる体内監視システムにより、健康も精神も、「生府」に完全に管理されることとなりました。
WatchMeのお蔭で、病気も、老いもなく、そして、人々は心穏やかに生活し、優しさや思いやりが溢れる世界・・・。
自分の体や心であるのに、それを完全に管理される世界が、果たして、本当に幸せなのか?
「生府」の在り方に疑問を抱く、3人の少女、ミァハ、トァン、キアンは、自分の心と体は自分の物である・・・と証明し、生府に反旗を翻そうと自殺を図ります。
そして、ミァハは死に、トァンとキアンは生き残り・・・。
それから13年。
トァンは、未だ、一緒に死んであげられなかったミァハに対して罪悪感のようなものを抱きながら、紛争地域の停戦監視官として、危険な地域に身を置く仕事に就いていました。
一方、キアンは、ごく一般の善良な市民に。
紛争地域のキャンプにて、生府に禁じられた酒や煙草を行ったとして謹慎処分になったトァンは、日本に帰国させられることに。
そこで、久々に再会したキアンと一緒に食事をしていたのですが、その食事中、突如、キアンが自分の喉元にナイフを突き立て自殺するのでした。
しかし、自殺をしたのはキアンだけではなかったのです。
その日、同時刻に、様々な方法により、世界中で6582人の人間が自殺を行った・・・。
謎の同時多発自殺。
おそらく、体内のWatchMeのシステムが何者かにハッキングされたのであろうと、生府が混乱を来たす中、ハッカーからの犯行声明が。
WatchMeのシステムを完全に掌握したと宣言する犯人は、善意のみで成り立つこの世界を転覆させると言い、これから5日以内に、自分が生き残るために、誰か他人を1人を殺して見せろ・・・と全世界に発信します。
一人一殺。
他人を殺しててでも自分が生き残りたい。
見せかけの善意ではなく、そういう「人間」の本性を証明した者は生かしてやる。
しかし、それが出来なかった者に対しては、WatchMeを操作し、また同時多発自殺が起こるだろう・・・と。
混乱する世界。
トァンは、その犯行声明の中に、学生時代に死んだミァハの遺志を感じ、この一連の事件に、ミァハの何かが関わっているのではないかと疑問を抱くのでした。
こうして、真相究明に乗り出したトァンが辿り着いた真実とは?
そして、世界の行く末は?
・・・というお話です。
とても面白かったのですが、原作未読の為、少し難解に感じる部分もありました。
近未来世界を描いたSFなので、その世界独自の専門用語等も多数出て来て、それを把握していくのにも、必死だったというか。
映画の世界をちゃんと理解するためにも、原作を読んでみたいなぁと思いました。
でも、とても重いテーマ故に、原作を読むのも勇気が要りそうです。
「生府」によって、人類の健康や精神が完全に管理された世界。
人は、病気になることもないですし、病気だけでなく、例えば、肥満になることすらないのですよね。
そして、常に、他人を思いやる優しさで溢れた人々。
・・・これだけ聞くと、良いことの様にも錯覚しちゃいますよね。
何より、病気にならないって、本当にありがたいことだと思いますし。
でも。
それは果たして、本当に人類にとって幸福なのか?
「生府」によって、完全に健康を管理されるということは、つまり、自分の体の状態全てが、システムによって掌握されているってことで。
自分の体なのに、太ったり痩せたりすることも出来ない。
常にベスト体重をキープし続けるように生かされている。
プライバシーも何もあったものではない。
それって、本当に、「自分で生きてる」って言うのかな?
と感じました。
そして、健康だけではなく、常に他人を思いやる優しすぎる人々。
きっと、あの世界だったら、悪い事をする人も居ないのでしょう。
他人を憎んだり、腹を立てたりする感情も無いのかもしれません。
もちろん、「負」の感情は無ければ無いに越したことは無いのかもしれません。
だけど、最初から存在すらしなかったら?
それは、ちょっと気持ち悪いなぁと思いました。
やっぱり、人間って、綺麗な感情も、醜い感情も、全部ひっくるめて、「人間」なのだと思うのです。
怒りや憎しみがあるからこそ、他人を愛したり、思いやったりすることも出来る。
だから、「善意しかない世界」っていうのは、歪で、偽物臭くて、不気味としか言いようがありませんでした。
まあ、そういうことに疑問を抱かずに生きていければ、その人にとっては、そこはユートピアなのでしょうが。
でも、客観的に見ると、やはり、そんな世界はディストピアでしかないと思いました。
それに、人間の体をシステムで管理するって、一度、ハッキングされたり、エラーが起こったりした時に、どうしようも出来ないですものね。
システムの誤作動に寄り、いきなり、自殺する事だって、死ぬことだって有り得るわけで。
だから、やっぱり、不自然なのです。
で。
そんな風に、生府に対して、反感を抱き続けてきたトァンや、そんな生府に対抗する為に、学生時代に自らの命を絶ったミァハ。
多分、今の私達の感覚からいうと、トァン達の感覚が正しいように思うのですが、そんなトァン達の方が異質に見える世界が怖かったです。
私だったら・・・健康も精神も、システムに寄って管理されるなんて嫌です。
そうやって生きている人間は、ロボットとどこが違うのだろうか?って。
『屍者の帝国』では、死者に魂はあるのか?ということを描いていましたが、この『ハーモニー』では、人間の意識とは?というのを描いていて。
両者に共通するテーマなども多かったと思います。
そしても両作品を見て、「人間は何を以って人間であるのか?」ということを感じました。
『屍者の帝国』では、死者の魂はどこにあるのか? 死者に魂があれば、それは人なのか?とも感じましたし、『ハーモニー』では、自分の意識すら管理されて、それで、本当に人間であると言えるのか?と感じましたし。
結局、「生きている」って、どういうことなんだろうか?って。
例えば、屍者でも自己の意識が確立させて入れば「生きている」のか。
人間でも自己の意識がなく、ただただシステムに管理されるままに生きているのなら、それは、「死んでいる」のと同等なのか・・・とか。
人間って、人間の魂って、人間の生命って何なんだろう?と、映画を見ながら、ずっと考えていました。
そして。
人間という生き物は、時として優しくもありますし、また、時として、どこまででも残虐にもなれる生き物です。
それは、ミァハが幼少期に体験した壮絶な世界から伺えるのですが、そんなミァハの
「向こう側に居たら銃で殺される。こちら側に居たら優しさに殺される」
という言葉が、実に重かったです。
善意のみの歪んだ世界。
殺戮や人身売買、売春が横行する世界。
両方ともに、人間が作り上げた世界であるわけで。
悪意に満ちてても、人は生きていけないし。
善意のみの世界も、また、息苦しい。
難しいですよね。
でも。
その複雑な雑多さこそが、「人間の本来の意識」なのかもしれないなぁと。
実に複雑怪奇、システム化もデータ化も出来ない。
それこそが「人間が人間として生きること」なのかもしれませんね。
そして、何か一つ過ちを犯すと、この映画で描かれていた世界の様に、極端な方向に転げ落ちていく・・・。それもまた、人間の証なのかも、と。
私達の生きるこの世界も、これから、科学技術が進み、医学ももっともっと進歩すると、WatchMeみたいなものが登場する未来が、もしかしたら訪れるかもしれない。
そんな時、人類はどんな選択肢を選ぶのだろうか?とも思いました。
重くて難しいテーマの作品ではありましたが、色々と考えさせられる作品で面白かったです。
是非、原作も読みたいです。
伊藤計劃の映画三部作の第二弾。
第一弾の『屍者の帝国』では、死者の蘇生技術が発達した19世紀のイギリスが舞台でしたが、この『ハーモニー』では、「生命主義」になった近未来の世界が描かれています。その未来の世界はディストピアなのか、ユートピアなのか・・・。
■映画『ハーモニー』予告編
アメリカで発生した暴動がきっかけで起こった、地球規模での大混乱「大災禍」。
その「大災禍」を乗り切った人類は、その反省をもとに、極度の健康志向と平和志向になっていき、超高度医療社会を立ち上げます。
生まれた時から体内に埋め込まれた「WatchMe」と呼ばれる体内監視システムにより、健康も精神も、「生府」に完全に管理されることとなりました。
WatchMeのお蔭で、病気も、老いもなく、そして、人々は心穏やかに生活し、優しさや思いやりが溢れる世界・・・。
自分の体や心であるのに、それを完全に管理される世界が、果たして、本当に幸せなのか?
「生府」の在り方に疑問を抱く、3人の少女、ミァハ、トァン、キアンは、自分の心と体は自分の物である・・・と証明し、生府に反旗を翻そうと自殺を図ります。
そして、ミァハは死に、トァンとキアンは生き残り・・・。
それから13年。
トァンは、未だ、一緒に死んであげられなかったミァハに対して罪悪感のようなものを抱きながら、紛争地域の停戦監視官として、危険な地域に身を置く仕事に就いていました。
一方、キアンは、ごく一般の善良な市民に。
紛争地域のキャンプにて、生府に禁じられた酒や煙草を行ったとして謹慎処分になったトァンは、日本に帰国させられることに。
そこで、久々に再会したキアンと一緒に食事をしていたのですが、その食事中、突如、キアンが自分の喉元にナイフを突き立て自殺するのでした。
しかし、自殺をしたのはキアンだけではなかったのです。
その日、同時刻に、様々な方法により、世界中で6582人の人間が自殺を行った・・・。
謎の同時多発自殺。
おそらく、体内のWatchMeのシステムが何者かにハッキングされたのであろうと、生府が混乱を来たす中、ハッカーからの犯行声明が。
WatchMeのシステムを完全に掌握したと宣言する犯人は、善意のみで成り立つこの世界を転覆させると言い、これから5日以内に、自分が生き残るために、誰か他人を1人を殺して見せろ・・・と全世界に発信します。
一人一殺。
他人を殺しててでも自分が生き残りたい。
見せかけの善意ではなく、そういう「人間」の本性を証明した者は生かしてやる。
しかし、それが出来なかった者に対しては、WatchMeを操作し、また同時多発自殺が起こるだろう・・・と。
混乱する世界。
トァンは、その犯行声明の中に、学生時代に死んだミァハの遺志を感じ、この一連の事件に、ミァハの何かが関わっているのではないかと疑問を抱くのでした。
こうして、真相究明に乗り出したトァンが辿り着いた真実とは?
そして、世界の行く末は?
・・・というお話です。
とても面白かったのですが、原作未読の為、少し難解に感じる部分もありました。
近未来世界を描いたSFなので、その世界独自の専門用語等も多数出て来て、それを把握していくのにも、必死だったというか。
映画の世界をちゃんと理解するためにも、原作を読んでみたいなぁと思いました。
でも、とても重いテーマ故に、原作を読むのも勇気が要りそうです。
「生府」によって、人類の健康や精神が完全に管理された世界。
人は、病気になることもないですし、病気だけでなく、例えば、肥満になることすらないのですよね。
そして、常に、他人を思いやる優しさで溢れた人々。
・・・これだけ聞くと、良いことの様にも錯覚しちゃいますよね。
何より、病気にならないって、本当にありがたいことだと思いますし。
でも。
それは果たして、本当に人類にとって幸福なのか?
「生府」によって、完全に健康を管理されるということは、つまり、自分の体の状態全てが、システムによって掌握されているってことで。
自分の体なのに、太ったり痩せたりすることも出来ない。
常にベスト体重をキープし続けるように生かされている。
プライバシーも何もあったものではない。
それって、本当に、「自分で生きてる」って言うのかな?
と感じました。
そして、健康だけではなく、常に他人を思いやる優しすぎる人々。
きっと、あの世界だったら、悪い事をする人も居ないのでしょう。
他人を憎んだり、腹を立てたりする感情も無いのかもしれません。
もちろん、「負」の感情は無ければ無いに越したことは無いのかもしれません。
だけど、最初から存在すらしなかったら?
それは、ちょっと気持ち悪いなぁと思いました。
やっぱり、人間って、綺麗な感情も、醜い感情も、全部ひっくるめて、「人間」なのだと思うのです。
怒りや憎しみがあるからこそ、他人を愛したり、思いやったりすることも出来る。
だから、「善意しかない世界」っていうのは、歪で、偽物臭くて、不気味としか言いようがありませんでした。
まあ、そういうことに疑問を抱かずに生きていければ、その人にとっては、そこはユートピアなのでしょうが。
でも、客観的に見ると、やはり、そんな世界はディストピアでしかないと思いました。
それに、人間の体をシステムで管理するって、一度、ハッキングされたり、エラーが起こったりした時に、どうしようも出来ないですものね。
システムの誤作動に寄り、いきなり、自殺する事だって、死ぬことだって有り得るわけで。
だから、やっぱり、不自然なのです。
で。
そんな風に、生府に対して、反感を抱き続けてきたトァンや、そんな生府に対抗する為に、学生時代に自らの命を絶ったミァハ。
多分、今の私達の感覚からいうと、トァン達の感覚が正しいように思うのですが、そんなトァン達の方が異質に見える世界が怖かったです。
私だったら・・・健康も精神も、システムに寄って管理されるなんて嫌です。
そうやって生きている人間は、ロボットとどこが違うのだろうか?って。
『屍者の帝国』では、死者に魂はあるのか?ということを描いていましたが、この『ハーモニー』では、人間の意識とは?というのを描いていて。
両者に共通するテーマなども多かったと思います。
そしても両作品を見て、「人間は何を以って人間であるのか?」ということを感じました。
『屍者の帝国』では、死者の魂はどこにあるのか? 死者に魂があれば、それは人なのか?とも感じましたし、『ハーモニー』では、自分の意識すら管理されて、それで、本当に人間であると言えるのか?と感じましたし。
結局、「生きている」って、どういうことなんだろうか?って。
例えば、屍者でも自己の意識が確立させて入れば「生きている」のか。
人間でも自己の意識がなく、ただただシステムに管理されるままに生きているのなら、それは、「死んでいる」のと同等なのか・・・とか。
人間って、人間の魂って、人間の生命って何なんだろう?と、映画を見ながら、ずっと考えていました。
そして。
人間という生き物は、時として優しくもありますし、また、時として、どこまででも残虐にもなれる生き物です。
それは、ミァハが幼少期に体験した壮絶な世界から伺えるのですが、そんなミァハの
「向こう側に居たら銃で殺される。こちら側に居たら優しさに殺される」
という言葉が、実に重かったです。
善意のみの歪んだ世界。
殺戮や人身売買、売春が横行する世界。
両方ともに、人間が作り上げた世界であるわけで。
悪意に満ちてても、人は生きていけないし。
善意のみの世界も、また、息苦しい。
難しいですよね。
でも。
その複雑な雑多さこそが、「人間の本来の意識」なのかもしれないなぁと。
実に複雑怪奇、システム化もデータ化も出来ない。
それこそが「人間が人間として生きること」なのかもしれませんね。
そして、何か一つ過ちを犯すと、この映画で描かれていた世界の様に、極端な方向に転げ落ちていく・・・。それもまた、人間の証なのかも、と。
私達の生きるこの世界も、これから、科学技術が進み、医学ももっともっと進歩すると、WatchMeみたいなものが登場する未来が、もしかしたら訪れるかもしれない。
そんな時、人類はどんな選択肢を選ぶのだろうか?とも思いました。
重くて難しいテーマの作品ではありましたが、色々と考えさせられる作品で面白かったです。
是非、原作も読みたいです。