モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

世紀末のパリとバルセロナ

2013年08月14日 | 建築・芸術

“世紀末”と表現すると、何かこの世の終わりか、世界の滅亡かと言ったどちらかと言うと“退廃的”なイメージが強いかもしれません。

つい10年ほど前に世紀末がありました、西暦2000年に至る以前、つまり20世紀末ですが、今回考えたいのはそれよりもまだ1世紀以前、1900年に至る19世紀末です。

19世紀末とは、これまで概観してきましたように、産業革命が一段落した後、『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau)』といった近代建築運動・芸術運動が全盛を迎え、建築や絵画、日用品など幅広い分野に対して、建築家、芸術家たちが理想的なライフスタイルを確立しようと活発に創作活動をしていた時期です。
『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』について
『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau)』について

そもそもなぜ、それらの運動が起こったかというのは、実のところ、冒頭で申し上げましたように世紀末が“退廃的”だったのではないかと思います。

つまり、古来より長らく続いてきた伝統に従い物を製造し続けたところで、個人の自由の意識が拡大し、活動範囲、生活範囲、生活様式が急激に変化し始めていった社会状況に対応できるはずがなかったのではなかろうかという事です。

いわば、退廃的だった世の中を何とか改善しようという動きが起こったと言えると思います。

そして、ヨーロッパでは、当事折りよく万博博覧会が開催される機会もあったパリバルセロナに建築家や芸術家が集まり活動を始めるようになりました。

4 Gats(Quattro Gats クアットロガッツ)写真はバルセロナにある『4 Gats(Quattro Gatsクアットロガッツ)』というレストラン・バーなのですが当時ピカソダリたちが集っては、芸術だけでなく、思想や社会などいろんな分野に関しての議論をかわしていたそうです。

現在でも非常に人気のあるレストランで、夜はしょっちゅう満席になるようで、事前に予約をするのが妥当のようです。

 

4 Gats(Quattro Gats クアットロガッツ)このレストランの内装は、 『モデルニスモ(Modernismo)』 時代に、ガウディ同様に活躍した建築家ジョセップ・プッチ・カダファルク(1867-1956 Josep Puig I Cadafalch)が設計しました。
『モデルニスモ(Modernismo)』について

プッチは多数の建築物を設計しましたが、現在それらの作品を目にすると、大胆に曲線を使い華やかさを感じさせるガウディとは違い、どちらかというと直線で構成され、最終的に仕上がりが地味な作品が多く、その事が、プッチがガウディほど知名度を持つにいたらなかった理由のひとつと言えるかもしれません。


アントニ・ガウディ(アール・ヌーヴォーの建築家-3)

2013年08月13日 | 建築家・デザイナー

スペインのカタルーニャ州、バルセロナに近い所にタラゴナという町があります。 タラゴナはローマの遺跡が点在する歴史のある町です。

アントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)アントニ・ガウディ(1852-1926 Antoni Gaudi) は1852年、タラゴナに生まれました。

幼少の頃どちらかと言うと病弱だったガウディは、友人たちと自由に遊びまわることが困難で、一人で居る事が少なくありませんでした。
そのような環境の元、自然の風景を観察したり、動物、昆虫、植物に接する事を好むようになります。

ガウディの建築作品には植物、小動物、昆虫などのモチーフが多用されますが、それらは幼少の頃の自然との接点が多分に作用したのではないかと考えられます。

1873年にバルセロナで建築を学び始めますが、建築だけでなく、その他の芸術や美術、さらには哲学や歴史など多様な分野について研究熱心でした。

ガウディが仕事を始めて間もない頃、折りよく 『パリ万国博覧会(1878)』 が開催されました。
博覧会では、出展企業の商品を展示するショーケース等を設計しましたが、それらガウディの作品が富豪 エウセビ・グエル(1846-1918 Eusebi Guell) の目にとまりました。

グエル公園(Park Guell)グエルは、その後ガウディに 『グエル邸(1886 Palau Guell)』『グエル公園(1900 Park Guell)』『コロニアグエル教会地下聖堂(1898 Colonia Guell)』 など多数の建築、空間の設計依頼をします。
左は 『グエル公園(1900 Park Guell)』 にあるトカゲのオブジェですが、破砕タイルを貼り付けて装飾する手法はガウディの建築作品の特徴のひとつです。

グエルは、長きに渡りガウディの理解者として、又、パトロンとしての関係を保ちます。
又、グエルがガウディに依頼した案件がガウディの傑作と言われる作品になっているものも少なくありません。
それらの作品を目にすると、当時いかにガウディがのびのびと設計作業に専念出来たかを想起させます。

サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Familia)1918年にパトロンだったグエルが死去した頃、バルセロナの経済状況の悪化、ガウディの親族など身の回りの状況が立て続けに悪化し、ガウディは内向的になります。

ガウディの晩年は周辺環境の悪化と同時に、ガウディの精神状況も決して良くなかったと思います。

1926年、教会に行く途中に路面電車に轢かれ亡くなります。
ガウディが事故にあったその時の身なりがあまりにみすぼらしかった事もあり、適切に迅速に医療処置がされなかった事が死に至った最大の要因のひとつと言われています。

さて、ガウディの死後間もなく1世紀が経とうとしていますが、現在なお建設中のガウディ設計の 『サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Familia)』 は果たしていつ完成するか興味深いです。


アール・ヌーヴォー スペイン編(近代建築運動・芸術運動-5)

2013年08月12日 | 近代建築運動・芸術運動

スペインでは、 『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』『モデルニスモ(Modernismo)』 という言葉で表現されました。

『モデルニスモ』 は、ベルギーやフランスでアール・ヌーヴォーが全盛期だった同時期の19世紀末から20世紀初頭にかけ、とりわけバルセロナを中心とするカタルーニャ州で流行しました。

スペインの カタルーニャ州 は現在でも独立意識が強い州ですが、当時も首都マドリードに対抗して思想的、民族的な活動の意味合いを含めた州独自のアイデンティティを表現する近代建築運動・芸術運動として 『モデルニスモ』 が開始したとも言えます。

カタルーニャ音楽堂(Palau de la Musica)スペインの 『モデルニスモ』 は、他のヨーロッパの諸国同様、優美な曲線、華やかな装飾で構成されます。

そして、長らくスペインを統治していたイスラムの影響と言えなくもない色鮮やかなタイルの使用、繊細で緻密な装飾が施されたのが特徴です。。

左は、モデルニスモ時代を代表する建築家ドメネク・イ・モンタネール(1850-1923 Domenech i Montaner)の代表作品のひとつ、 『カタルーニャ音楽堂(1908 Palau de la Musica Catalana)』 の内装です。

壁面の装飾、天蓋トップライトのガラス細工の色彩、細工共にイスラム建築の影響を感じ取ることが出来ます。


エクトル・ギマール(アール・ヌーヴォーの建築家-2)

2013年08月09日 | 建築家・デザイナー

エクトル・ギマール(Hector Guimard)エクトル・ギマール(1867-1942 Hector Guimard)はフランスのリヨンに生まれ、アール・ヌーヴォー時代に活躍した建築家でした。

活動の拠点はパリが中心で、アール・ヌーヴォー様式の住宅建築を中心に公共施設、地下鉄の入り口等を設計しました。

ギマールは、ベルギーを訪問したこともあり、ヴィクトール・オルタ(1861-1947 Victor Horta)の建築作品を多数見学しました。
ヴィクトール・オルタについて

ギマールはフランスへ帰国後、自身の設計理念とベルギーでの多数の建築物参観の経験を元に、その後の設計の方向性を確立していきます。

そして、ギマールは、抽象的な曲線を多用し空間を創り始め、それは又、ギマールのアール・ヌーヴォーの装飾上の特徴とも言えます。

 

カステル・ベランジェ(Castel Beranger)特に、左の写真の 『カステル・ベランジェ(1898 Castel Beranger)』 は、ベルギーでオルタの 『タッセル邸(1892 L Hotel Tassel)』 を参観した時のインスピレーションを元に、フランスへ帰国後、さらに設計に邁進し完成させた集合住宅です。

さらに、その後のパリでアール・ヌーヴォーが流行するきっかけにもなったとも言えます。

しかしながら、ギマールがアール・ヌーヴォーに自身の思いを追求するに従い、装飾や各材料の加工もよりエスカレートし、結果、高額なものになってしまいました。

 

エクトル・ギマール(Hector Guimard)21世紀に入ると世界大戦によりヨーロッパ大陸の情勢が不安定になり、アメリカへ渡りました。

ギマールは1942年に亡くなりましたが、アール・ヌーヴォーの流行がほんの30年程度で終焉を迎えたように、ギマールもその後、長らく忘れ去られる存在となってしまいました。

実際に、ギマールが設計した公共施設、とりわけ地下鉄の入り口は沢山解体されたのは残念な事です。


アール・ヌーヴォー フランス編(近代建築運動・芸術運動-4)

2013年08月08日 | 近代建築運動・芸術運動

ヨーロッパ大陸は地続きである事から人の往来は頻繁で、又、各国の政治体制、各人の思想性や理念の違いにより亡命も少なくありませんでした。
そのような状況の元、思想や理念を持ち、又、感受性がより高いとも言える芸術家や建築家の往来はより活発だったと言ってもよいかと思います。

アンリ・ヴァン・デ・ベルデさて、当時、アンリ・ヴァン・デ・ベルデ(1863-1957 Henry van de Velde)という建築家がいました。
ヴァン・デ・ベルデは、ベルギーのアントワープ生まれで、前衛的な建築家でした。
後にモダニズム建築も手がけることになりますが、彼の前衛的な芸術作品がベルギーの雑誌に取り上げられ、当事斬新で目新しいものであった事から、まさにそれらを形容するにふさわしく『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau 新しい芸術)』と表現されました。
左は、ヴァン・デ・ベルデの作品のひとつで、食品会社の商品ポスターです。
1894年、ヴァン・デ・ベルデはフランスのパリで店舗の内装設計をする機会があり、その店舗の看板に『アール・ヌーヴォー』と言う表現が用いました。
この出来事が、その後フランスでアール・ヌーヴォーが流行していく事になる大きなきっかけのひとつになったのでした。

 

Hotel du peintre Alexandre Nozalフランスのアール・ヌーヴォーについては、パリを中心とするフランス北方では抽象的、軽快、簡素化されたデザインが多かったのに対し、一方、南フランスではエミール・ガレが植物、昆虫など具体的な対象物をモチーフとしたように具体的で細部まで精巧なデザインが多かったのが特徴でした。
そのような違いがあることより、前者はパリ派、後者はナンシー派と呼ばれます。


ヴィクトール・オルタ (アール・ヌーヴォーの建築家-1)

2013年08月07日 | 建築家・デザイナー

ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)ヴィクトール・オルタ(1861-1947 Victor Horta)は、1861年にベルギーで生まれました。 学生時代は芸術学校でデザインや建築を学びました。

その後、一時パリに住みますが、父の死を機にベルギーに帰郷しました。

左はユーロ加盟前のベルギーの紙幣ですが、当時の紙幣にオルタの肖像画が描かれていました。

 

ラーケン王室温室古典主義建築家のアルフォンス・バラの設計事務所で助手として採用され、産業革命後の新建築材料、鉄とガラスで構成される 『ラーケン王室温室(1880 Palais de Laeken)』 設計に携わった経験は、その後のオルタの建築設計の方向性を明確にします。

左はラーケン王室温室のドーム上部の写真ですが、王室の冠が最高部に取り付けられているのが象徴的です。

 

タッセル邸(L Hotel Tassel)30代の頃、アール・ヌーヴォーのデザインに触れる機会があり、衝撃を受けます。

後に手がける住宅設計は各部にアール・ヌーヴォーの特徴である曲線によるデザインを多用します。

又、オルタの住宅作品の多くで演出される鉄の柱や梁で曲線部材を構成し、大きなガラス窓で光を取り入れる空間は、ラーケン温室設計に携わった経験が土台になっています。

写真は、 『タッセル邸(1892 L Hotel Tassel)』 の内装です。
オルタの建築作品の最大の特徴の一つとも言える細い鉄材による架構、又、緻密な装飾は、近代に入り鉄が構造材として使用された恩恵を大いに享受した結果とも言えると思います。

 

タッセル邸(L Hotel Tassel)オルタはベルギーの首都ブリュッセルにアール・ヌーヴォー様式の住宅を沢山設計しましたが、写真の中央は、上の内装写真と同様に 『タッセル邸』 です。

さらに近辺に建つ 『オルタ自邸(1898 Maison de Victor Horta)』 を含め、ブリュッセルにあるオルタ設計の住宅は、 『ヴィクトール・オルタの都市型住宅群』 として、世界遺産に登録されています。
『都市型住宅』 とは、都市に立地する特性から、敷地面積は大きくはなく、又、間口に対して奥行きが深く、建物は3階建て程度の規模で、日本の長屋に似た形式の住宅を示します。

オルタがその後のベルギー建築界に与えた影響は絶大で、その事は、ベルギーフランに肖像画が使われた事からも容易に想像がつくかと思います。


アール・ヌーヴォー ベルギー編(近代建築運動・芸術運動-3)

2013年08月06日 | 近代建築運動・芸術運動

イギリスの 『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』は、海を渡りヨーロッパ各国に影響を与えました。

オルタ邸ヨーロッパ各国のうちベルギーは、最も早くその影響を受けた国のひとつで、早い段階で 『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau 新しい芸術)』 が花開き流行したと言ってもよいかと思います。

アール・ヌーヴォーの造形的特長は、植物のつるのように有機的で滑らかな細長い曲線を組み合わせて表現されます。

曲線は一定の方向ではなく多方向で、複雑にからみ合い、その様子は、女性の髪の毛をイメージしているようにも見えます。

曲線の表現は扉、欄干、手すり等に施されることが多いのですが、近代に入り積極的に用いられた建築材料の一つである鉄が、そのような優美な曲線の表現に一役を担ったと言えます。

 

オルタ邸ドアノブ曲線を表現する部材、末端には、動物あるいは動物の一部分、昆虫、骨格等、自然界に存在するものをモチーフにデザインされる事が少なくありません。
と言うより、むしろ建築金物、家具金物、ステンドグラスなどの各種部材にそのようなモチーフを多用する事が、ベルギーのアール・ヌーヴォーの特徴と言っても良いかもしれません。

そして、そのような金物の多くはそれぞれ職人の手により、加工された一品生産品です。
機械生産を否定し、手作業による生産が賞賛されたアール・ヌーヴォーだからこそ可能となった生産品と言えます。

ベルギーのアール・ヌーヴォーは、見た目の装飾性に関して他のヨーロッパ各国と比べると華やかで、ディディールは細部に渡って追求されたと言ってもよいかと思います。


アール・ヌーヴォー(近代建築運動・芸術運動-2)

2013年08月05日 | 歴史

産業革命後、19世紀初頭に至る間、ヨーロッパでは、古代のモチーフを使う『リバイバル様式』、あるいはそれらを組み合わせる『折衷様式』により各地に建物が建てられましたが、社会は、大衆が平等を求め、個人の生活の質の向上が追及され始めました。
『リバイバル様式』、『折衷様式』 について

運動の先駆けとし、イギリスで『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』が始まり、運動は海を越え、ヨーロッパ大陸に影響を与えました。
そして、大陸の各地では、“新しい時代に合った新しいスタイルの創造”をモットーとする『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau 新しい芸術)』が誕生しました。
『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』 について

チューリップ アール・ヌーヴォー『アーツ&クラフツ運動』が、機械生産を否定し、中世ゴシック時代の手工芸を理想としたのに対し、『アール・ヌーヴォー』は、機械を否定せず、機械生産に適合した上で新しい美の創造を目指した事、そして過去の歴史的様式から脱却し、時代にあった新しい造形、新しい様式の創造を目指しました。

運動は、建築、室内装飾、家具、絵画、版画、広告、ポスター、雑誌、日用品など広範囲に渡って行われ、芸術家はそれぞれ自身の専門は元より、専門外の分野においても幅広く活動をしました。

そして、そのように各人が広範囲に活動を行う事が出来た事自体が、当時の社会において大衆の自由、平等が尊重し始められていた実証にもなります。

 

エミール・ガレ アール・ヌーヴォー『アール・ヌーヴォー』は、まずベルギーで始まり、フランスに影響を与えます。
その後、ヨーロッパの各国が互いに影響を与え合い、その風土や風習に応じた各国独自のスタイルを確立していきます。

しかし、『アール・ヌーヴォー』にはそもそも装飾性が多分に備わっている事、そして、とりわけ『後期アール・ヌーヴォー』では構造を無視し個人の趣向で限りなく自由にデザインされた事などが原因で、機械による大量生産には向かなくなりました。
しかも、その結果、低価格で製造できず、最終的には富裕層が手にする高価な製品を作る事にもなり、1900年を頂点に、急激に衰退していきました。

まさにそれは世紀末、ヨーロッパ各地でほんの一瞬開花した可憐な花のように感じます。


アート(芸術)とクラフト(工芸)の理想的な関係

2013年08月03日 | 建築・芸術

製品は、ある人物が図(アート)を描いた後、本人自身の手で製作(クラフト)までするのが理想だと考えられる事があります。

図(アート)が完璧である事は極めてまれで、あくまで製品を作るための情報と考えます。
図(アート)を描いた時点では、その製品の製作(クラフト)に最も適する架構、製造方法の判断が必ずしも容易ではありません。

そう考えますと、図(アート)に基づき実際に製作(クラフト)し始める事で、はじめて図(アート)の問題点が認識でき、仮に製作(クラフト)が困難になるならば、元図(アート)を製作(クラフト)しやすいように変更、改良等をすればよいのです。

もし、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が同一人物であれば、製品に対する理念は踏襲され、結果、製品の品質は維持されるだろうと考えられます。
一方、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が違えば、出来上がった製品は、図(アート)の作成者の理念と食い違う可能性が少なくありません。

一方、イギリスの建築史家で建築家でもあるニコラス・ペブスナーは、
『工業は、大量に同一の製品を生産することであり、デザイナーは実用品の考案や作図をする人だと考える。自分で考案、作図したものを自分で製作までしてしまう場合には、デザイナーとは呼ばない。が、ある人がたったひとつだけ作られるものを考案、作図する場合でも、その人はデザイナーであると言える。』と語っています。

つまり、アートとクラフトの分離が理想だとする考え方を持っていました。
又、ニコラス・ペブスナーは、機械生産を肯定するモダニズムの賛成者でもありました。

さて、現代の世の中は、建築、工芸品や美術品などの製品につき、同一人物がアートからクラフトまで一貫して携われる環境であるとは必ずしも言えないと思います。
むしろ、プロジェクトがより巨大化、細分化し、又、生産される製品の品質が各段に向上してきた事、そして、同一人物がアートからクラフトまで一貫して作業をする場合のコスト上昇などの要因により、分業体制が主流であると言えなくもないと思います。

一貫しての作業、あるいは分業のどちらが正だとかを断定するのが骨子ではなく、工業製品に関わる人たちそれぞれがそのような課題を常に認識する事で、今日、そして今後、より良い工業製品の製造が可能になるのではないかと思います。


アート(芸術)とクラフト(工芸)の歴史

2013年08月02日 | 建築・芸術

古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代には、“クラフトマン”、つまり、手工芸技術を持ち、手作業で製品を製作する人たちが存在しました。
一方、“アーティスト”、つまり自身の手を動かして製作行為はせず、デザインや意匠に特化する立場の人たちは明確には存在しませんでした。
クラフトマンが何らかの物を製作するには、その為の下絵や構想図が必要になりますが、今日で言うところの設計図や意匠図のような明確なものではなかったと考えられています。

中世になると宗教色が強まりました。
ゴシックの大聖堂のように大規模な建築物が各地に次々に建てられた事から分かるように、クラフトマンが活発に活躍していた時代といえます。
そして、クラフトマンは、親方、職人、従弟という形でチームワークが育成され、そして、親方が、自身の頭の中で製作物を計画し、同時に下位の者を監督し、製作にあたっていました。
さらには、“ギルド”と呼ばれる職人組合の設立で、組織立った製作活動がされていました。
このように、中世ヨーロッパ時代もアーティストの存在は明確ではありません。

近世はルネッサンスにより、ブルジョアの大頭、人文科学、思想、哲学の発達と共に、知識人が出てきます。
その結果、クラフトマンは、それまでの単なる製作、つまり肉体労働に携わるのではなく、自身で綿密な立案や計画を始めます。

つまり“アーティスト”が誕生しました。

しかし、“アーティスト”“クラフトマン”の明確な分離ではなく、クラフトマンの延長で、知的なアート作業をしている状況でした。

近代になると、クラフトマンの“ギルド”に対して、アーティストの“アカデミー”と呼ばれる組織ができ、アーティストは自身の身分を保護されるようになります、
そして、産業革命後、機械の発達で、クラフトマンの立場にかげりが出てきます。
手工業の衰退と、モチベーションの低下がそれに拍車をかけます。

そして、いよいよ知識作業主体のアーティスト、肉体労働主体のクラフトマンの職能分離が明確になり、現代に至ります。