1896年、ドイツで、パステルカラーや、時にはヴィヴィッドな色彩で草文様や文字のレタリングで表紙をデザインする雑誌 『ユーゲント(Jugend)』 が発刊されました。
雑誌の内容は、民衆が必要とする日用品、服飾、デザイン用品などの広告や各種情報が盛り込まれました。
ユーゲントは、旧来の古典様式から一変させた表現で構成され、内容も当時ようやく自由を獲得し始めた民衆の為の情報が豊富にあり、当時、非常に斬新で画期的な雑誌でした。
そして、雑誌ユーゲントにちなんで、ドイツで起こったアール・ヌーヴォーを『ユーゲント・シュティール(1890-1910 Jugendstil 青春様式)』と呼びます。
さて、19世紀のドイツでは、国内での統一国家の形成が他のヨーロッパ諸国に比べて遅れていた事もあり、どちらかというと他国からの影響を受けてドイツ独自のアールヌーヴォーが発展していったと言えます。
つまり、隣国フランスの『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』、そして、熟成段階に入っていた『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』の影響を強く受けた結果、花柄などの曲線、直線、幾何学的な構成等、各国の要素が集積された独特の様式に発展していきました。
『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』について
『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』について
ドイツの中部、ダルムシュタットに芸術家たちが集える芸術家村 『マチルダの丘』 が設立され、ユーゲント・シュティールの活動が活発に行われました。
左は芸術家村です。
一方、芸術家や建築家は、自身の製造する製品に、独創性、つまり唯一無二の装飾を表現する傾向が強かった事などもあり、過度の装飾が成される事もありました。
合理性と装飾性の均衡、ユーゲント・シュティールの是非なども問われつつ、『ドイツ工作連盟(1907-1934 Deutsche Werkbund)』へと理念が発展していきます。