台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

我邂逅媽祖研究的同志

2005-02-28 | 媽祖と研究
このところ食生活が充実しています。一昨日は台南芸術大学で仏教美術史を教えている潘さんとランチ、昨日は台北近郊の桃園縣にある銘傳大学で日本語を教えている横田くんと晩餐です。

横田くんは日本中世の説話文学の研究者ですが、再会を祝ってビールで乾杯の後「最近こんなことをやっているです」と渡してくれた論文抜刷のタイトルをみて、思わず声をあげました。

小生が最近、媽祖を研究していることを彼も知らなかったので、お互いにびっくり。ともかく女神のお引き合わせに感謝しなくてはと、急いで小姐に紹興酒の燗を頼みます。前日も潘さんの同僚が媽祖神像を研究していることが判って、珈琲で乾杯したばかりでした。

彼によれば、太平洋戦争中に爆撃にきた連合軍機が、雲間に現れた媽祖を見て引き返したなど、台湾では近年も次々と媽祖説話が生成しているそうです。共通の話題で箸も杯も、どんどん進みます。4月から母校に戻る彼と共同研究の約束をしたころには、2本目のボトルも空っぽに…。


我昨天去了土佐人設計師的髮廊

2005-02-28 | 食と生活
台湾にきてから1カ月、そろそろ髪の毛を切りたくなりました。房東さんに相談すると会社の同僚が日本人スタッフのいる店に行っているとのこと。完全予約制なので、翌日、会社から電話してもらいました。

房東さんから渡された予約メモ、店の名前はAngelとあります。ムムッ これは理髪店ではなく、美容院(ヘアーサロン=髮廊)なのでは…。ちょっとビビリが入ります。当日、居間のテーブルに「予約時間に遅れないように。すっぽかし厳禁!」という房東さんの置手紙。こうなれば覚悟を決めるしかありません。

太平洋SOGOの裏手にあるAngelはすぐにみつかりました。お客用の雑誌のなかに『週刊現代』を発見、ちょっと安心します。台湾小姐が「かゆいところは無いですか?」と日本語できいてくれます。仰向けの洗髪は初体験ですが、なかなかいいのものです。

剪髮してくれた美容師(台湾では「設計師」)さんは、茶髪と髭の体格のいいのお兄さんです。故郷は高知県ということで、カツオのタタキの話などでけっこう盛り上がりました。

若く見えましたが、東京の美容院から台北にうつってもう17年とのこと。でも県境の山間部にいる両親が高齢になったので、もうすぐ帰郷して文旦と生姜の栽培を継ぐそうです。


宋代媽祖的風貌

2005-02-26 | 媽祖と研究
今回からときどき古い媽祖たちを紹介していきます。

昨年6月から台湾で開催された「媽祖文物特展」(天上聖母基金會主催)には、対岸の福建省甫田市博物館が所蔵する古媽祖や関係資料が陳列されましたが、目玉はこの「白湖廟媽祖像」でした。

甫田縣の湄洲島で信仰が生まれた媽祖は、1086年に縣内水陸要衝であった寧海江口の聖墩に祀られることで縣内に広く知られるようになります。次いで1155年に甫田縣城付近に創建されたのが白湖廟です。

行政府近郊に祀られたのは、士大夫層の支持を得てきたことのあらわれでした。彼らの力で翌年には朝廷から「靈惠夫人」に封じられ、その後も盛んに霊験が報告され称号が加封されていきます。

この媽祖像が当時のものだという決め手は「装い」でした。服飾が宋代「夫人」の服制に通じると判断されたようです。

白湖廟の神像は元末動乱期に同縣内の文峰に移されますが、文化大革命の時に行方不明になりました。1999年に信徒の家から発見されて文峰宮に戻り、昨年、海を渡っての一般公開となったそうです。

皮製台南圖

2005-02-25 | 媽祖と研究
かつてヨーロッパ人は台湾のことを「Formosa(麗しの島)」と呼びました。二年前に故宮博物館で開催された特別展「福爾摩沙(Formosa)」に台南の珍しい絵図が出展されました。

写真左がベルリン民族博物館のもの、右がメトロポリタン美術館のもので、どちらも皮製品です。

台南の府城が城柵で囲まれたのが1791年のことなので、左はそれ以前、右はそれ以降の様子を描いていると考えられますが、それ以外のことはまだよくわかっていないそうです。今後の研究が待たれる文化遺産です。

芋頭粥的發音是很難

2005-02-24 | 食と生活
半月ほど前から南京路と復興路の交差点に粥の屋台が出るようになったので、ここでバスに乗るときは朝食用にテイクアウトしていきます。お気に入りは大きなサトイモが入った芋頭粥。

いちおう豚肉と野菜で味をつけてありますが、とても淡白です。そこで登場豉左手の小さなビニール袋。刻みタクワンと豆豉がピリ辛に味付けされたのが入っているのですが、ほのかに甘い芋頭粥との相性抜群です。

ところで小生はこの「芋頭粥」の発音が下手で、まだ一度も通じたことがありません。三回目以降は、目が遭っただけでおばさんが「大碗?小碗?」と聞いてくるので不自由はないのですが、やはり悔しい。

バスに揺られて30分、研究院についてから食べると猫舌の小生にはちょうど良いあんばい。豆豉は日本の大徳寺納豆や浜納豆の本家だそうですが、歯にあてると滋味に富んだ奥深い塩辛さと風味が口の中に広がり、朝から豊かな気分にしてくれます。

海岸線變化和媽祖廟 《台湾媽祖史10》

2005-02-24 | 媽祖と研究
左から17世紀初頭、中葉頃、後半の地図に描かれた台南です(だいたい30~40の年代差)。左図の娘媽宮は施琅創設の大天后宮で、海岸埠頭に面していました。

中図になると媽祖宮(大天后宮)の下(西側)に水仙宮と西門が建てられ、海岸埠頭はその西に移動します。

右図ではさらに埋め立てが進んでいます。西門の下(西側)にある廟は風神廟で、現在の大天后宮より400~500m離れています。福康安が海安宮を建てるのはこの図の10年ほど後になりますが、ちょうどこの風神廟のあたりのようです。

はじめは埠頭に面していた媽祖廟が埋め立てで海から遠のくと、また新しい媽祖廟が埠頭に設置されていくのですね。

台南海安宮和鹿港新祖宮 《台湾媽祖史9》

2005-02-24 | 媽祖と研究
清朝の統治時代にも台湾では反清蜂起がしばしばありました。1786~88年の林爽文たちの蜂起は大変規模の大きいものであり、清朝は福康安を大将軍に任じて大軍を派遣しようやく鎮圧しました。

故宮博物館にある12幅の銅版画「平定林爽文戦役圖」は、清朝がこの戦いを記念するため作成したもので、写真は福康安の大船団が台湾に上陸する時の様子です。

このときに天后聖母(媽祖)の神佑があったとして、平定後に福康安は上陸地の鹿港(彰化縣)に新しい天后宮(新祖宮)を創建するとともに、府城のあった台南の埠頭付近にも新たに媽祖を迎えて海安宮を建立します。

台南 媽祖楼 《台湾媽祖史8》

2005-02-22 | 媽祖と研究
乾隆年間(18世紀後半)の台湾地図。紅毛樓の右の媽祖宮(大天后宮)とは別に、水門近くに「媽祖耬」がみえます。1752年の「府城図」にも載っているので18世紀前半の創設と考えられます。今もありますが古い媽祖像はないようです。でも次のような興味深い伝承が残っています。

ある商人が湄洲島媽祖廟から持ち帰った香火を船廠(造船所)の楼閣に灯した。商人が去った後もその火は消えることなく光をはなち続け、入港する船が大いに助かったので、その霊験に感じた里民がここに媽祖を祀る廟を建立したのが起こりである。

現在も宮や廟ではなく樓と呼ばれているのは、このような灯台の機能があったことと関係するのかもしれません。媽祖が霊火をともして船をたすける話や、港の近くの媽祖廟(日本では天妃神社)が灯台の役目をはたした例は、中国にも日本にもあります。

麻辣鍋和我房東和高先生

2005-02-21 | 食と生活
先週前半は夏の陽気だったのに後半は一転して寒雨の毎日。昨日は台北郊外の景勝地陽明山で雪が降ったそうです。木曜から遊びにきていた我朋友・伊藤幸司夫妻には「台湾で凍えるなんて貴重な経験だよ」となぐさめにもならない言葉をかけるしか…。

かく言う小生も風邪ぎみです。昨晩は日曜日ということもあって、私の房東(大家)さんの彼氏・高さんが、アパートで麻辣鍋をつくってくれました。具材は肉(羊と牛)野菜 てんぷら(練り物)などですが、こちらで火鍋に欠かせないものに「餃」があります。これは肉 魚 卵などを包んだ一口餃子ですが、小生は花枝(=イカ)にハマリました。

もう一つのお気に入りは、もち米を豚の血で固めたもの。おこげのような香ばしさと良く滲みた出汁が一体となってたまりません。これは少ししかなかったのに、気が付けば全部小生のとり皿に…。「私たちはいつでも食べれるから」と入れてくれた二人に多謝!

最初は食欲がないなどと言っていた小生も、鍋をつついているうちに元気が出てきて、途中でビールを買いにコンビニに走る始末…。まぁ寒い夜に鍋を囲むというのは、どこでやってもいいものですね。

台南開基天后宮「崇禎媽祖」 《台湾媽祖史7》

2005-02-20 | 媽祖と研究
大天后宮の300mほど北にも天后宮があります。台湾に上陸した鄭成功が創設した媽祖廟と伝えられ、現在は開基天后宮と呼ばれています。清代半ば乾隆17(1752)年の台灣府城池圖には施琅が建てた大天后宮が「媽祖宮」、こちらが「小媽祖宮」の名称で登場しています。

ここの媽祖像のなかに像高約30cmの小さなものがあり、古くから「船仔媽」と呼ばれていました。船に祀っていた媽祖像ということですが、崇禎十三(1640)年の刻銘あり、明末に遡る古いものです。かつては民間信徒家中に輪祀されていたそうです。

國際書展的晩 台北下雨

2005-02-19 | 媽祖と研究
お目当ての本でゲットできたのは故席徳進氏の『台灣民間藝術』。今から30年前に媽祖像を藝術史的視点で捉えた名著で、昨年10版目が出たのもです。他に専門書はあまり無かったのですが、故宮博物館(改修中)の図録2冊(一割引)と、香港から刊行中の『中華文明傳真』シリーズ(写真は明)を買いました。いちばん上はフェアのガイドブックです。

後者はビジュアル版中国史概説書ですが、写真がきれいなだけでなく、5年前に発見された四川省の水井街酒坊遺跡や、東大史料編纂所蔵の倭寇図巻とは別系統の抗倭圖卷(明軍に捕獲されフンドシ一つで手足を縛られた倭寇の姿が衝撃的!)など、レアな図版が満載。これで150圓(約1200円)はお徳です。
(版権をクリアーしているのかなぁ…)

それにしても学術調査でどんどん新発見があるだけでなく、印刷・映像・インターネットなどの技術進歩によって、中国圏の情報発信力が飛躍的に高まっていることを痛感します。

会場を出ると雨の中、頭上に現在高さ世界一のビル台北101が輝いています。508mの先端は雲の中です。

台北國際書展2005

2005-02-19 | 街の風景
昨日、台北国際ブックフェアーにきってきました。台北世界貿易センターで3つの会場(第1=一般書・外国書、第2=若者向け、第3=子供向け)に分かれて行なわれる大規模なもので、アジア・ヨーロッパ・アメリカ各国の本も並びます。入場料は大人100圓(350円)学生80圓ですが、1~4割引で本が買えます。

捷運站からシャトルバスで会場へ。バスは若者中心に満員です。若者は第2会場(漫画・アニメ・ゲームなど)目当てかと思いきや、第1会場にも結構います。場内には屋台なんかも出ていて熱気むんむんです。

日本の東販などが出店している外国書コーナーとは別に、会場の真ん中に韓国館があって、いろいろなイベントで賑わっていました。韓国の文化発信戦略はドラマや映画だけではなかったのですね。


台南大天后宮的大媽 《台湾媽祖史7》

2005-02-18 | 媽祖と研究
施琅は台南に入るとすぐに、明朝再興を掲げる鄭氏政権の象徴だった寧靖王旧宅を媽祖廟に改めて福建省から媽祖を向かえ、翌年、皇帝から下賜された天后宮の名を掲げます。これが現在、台南市中心部にある大天后宮です。

正殿の中心に鎮座する大媽はそのときに渡されたものと伝えられています。清朝の官廟で、施琅の「平台紀略碑」などもあります。

去年6月になんとこの大媽の頭部などが落下するという惨事が起きました(ブックマーク参照)。80年以上、修復してなかったので傷みがひどくなっていたらしいです。

今年1月27日に本格的修復工事の開始の典礼が市長も参列して挙行されました(ブックマーク)。修復のための調査で福州杉が使用されていたことがわかったことも興味深いけど、式典で大天后宮の関係者がそれぞれ清朝の府城知府と縣令に扮しているのが面白いですね。


清王朝的媽祖利用 《台湾媽祖史6》

2005-02-18 | 媽祖と研究
1683年に鄭氏政権は倒され、台湾は清朝の統治下に入ります。この時の清軍司令官は、鄭氏側から寝返った施琅でした。大船団を率いて台湾を制圧した彼は、その功績で清朝から靖海公に封じられます。

鄭氏制圧の功績で出世したのは施琅だけではありません。媽祖もこの時に「天妃」から「天后」に昇進します。これは台湾が平定できたのは、媽祖の霊験による数々の奇跡のおかげであると施琅が奏請したからです。

写真左は福建省平海の媽祖廟前にある師泉井で、水が無くて清の大軍が困っていた時に、媽祖のお告げによって施琅が掘ったところ、清の大軍を養うに十分な水が湧き出たという霊験譚を描いています。写真右は両者の形勢を決した澎湖海戦の時に、天空で媽祖たちが清側に加勢している様を描いたものです。

媽祖は古くから中国南部沿海で信仰されてきました。ですからこの海域を基盤とする鄭氏政権の守護神でもあったわけですが、その倒壊の過程で北方の満州族が建てた清朝によって取り込まれていくのです。