台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

嘉義縣 布袋鎮 好美里太聖宮「衙門媽」《台湾媽祖史2》

2005-02-12 | 媽祖と研究
鄭芝龍時代の漢人移住と結びつけて由来を説かれるのが「衙門媽(祖)」と呼ばれる好美里太聖宮の古媽祖。中華民国教育部から明代のものと公認されているものです。大きさからみると船に祀られていた「船仔媽」のようです。写真は《魚鹽之郷市布袋嘴》(ブックマーク参照)の〔信仰〕から借りました。

好美里は第二次大戦前は虎尾寮、さらに清朝中頃までは蚊港と呼ばれていました。1602年の海寇追討に参加した陳第が著した『東番記』に澎湖の外洋すなわち台湾の「魍港」という寄港地が登場します。オランダ文献の「WANCKAN」と同一とされていますが、魍港と蚊港は閩南語で音通するので、好美里を故地する説が有力です。ここは嘗ては「倒風内海」(西風をよける内海=潟湖)がひろがり、そに太聖宮のある小高い丘が突き出していたようです。

「衙門媽」の呼称は、洪水で廟が壊れた時に丘の頂にあったオランダ砲台(荷蘭衙門)内に祀られたことがあるからだとされています。或いは清朝の統治開始直後に、船の出入りを検問する機関=「蚊港汛」(地元では「満漢衙門」と伝承)を置いたことと関係あるのかもしれません。どちらにしろ澎湖諸島から直線距離で一番近い(現在は高速船で90分)この港が、早くから要衝であったことに変わりはありません。

周囲のラグーンには塩田や養魚池が増えているようですが、往時の面影も残っているようで自然生態保護区に指定されています。太聖宮も最近、多数の筏船を海上に繰り出し近隣からの進香船団を迎える「海上祈福會香」をはじめて、知名度をアップを図っていますが、他所の著名な大廟に比べるとまだまだ素朴さが残っているようです。

早期台灣史和古媽祖廟 《台湾媽祖史1》

2005-02-12 | 媽祖と研究
この地図は中華民国交通部観光局のサイトの台湾観光地図に、西海岸の古い媽祖廟を書き入れたものです(「主要」の基準は独断です)。今日から調査の準備ノートも兼ねて、台湾の古い媽祖廟と媽祖像を不定期で紹介していこうと思います。

台灣の古い媽祖廟は17世紀の台湾史と深い関係があります。オランダが澎湖島から台灣南部に拠点を移したのが1624年ですが、その前からすでに対岸からの移住が始まっていたといわれ、しばしば鄭芝龍(成功の父)など「中国系倭寇」の動向と結びつけて説明されています。

我現在習台灣歴史用漫畫

2005-02-12 | 媽祖と研究
台湾書籍シリーズ?第二弾。今日紹介するのは『漫畫台灣歴史』シリーズ。漫画と思ってバカにしてはいけません。かの曹永和先生が総顧問(監修)で、気鋭・中堅の第一線研究者が脚本を書いています(今読んでいる第三冊「荷蘭・西班牙在台灣」は中央研究院台湾史研究所の翁佳音さん)。最新の研究成果がふんだんに盛り込まれていて、読み応えがあります。

まず、表紙(写真)を見ても判るように歴史の主体として原住民がクローズアップされ、彼らの動向にかなりの紙数がさかれているし、また、かつてのようなオランダ・スペイン=帝国主義的侵略者という描き方ではなく、両国と中国・日本・鄭氏そして原住民が、台湾とアジアの海という舞台で駆け引きを繰り広げる諸勢力として、同等の立場で登場してます(原住民を弾圧するオランダ勢に、別の原住民部族が加わっていることもちゃんと書き込んである)。ただし哈日族を意識してか、濱田彌兵衛はちょっぴり「いい者」に描かれているような気が…。

第四冊「鄭氏王朝在台灣」、第五冊「大清帝國在台灣」と読み進むのが楽しみです。中国語の学習にもなるしね。

【追記】先日、曹永和先生の研究室を訪れた時のこと。日本古媽祖DBの抜刷を手渡したところ、媽祖の写真には目もくれず、巻末の参考文献一覧を舐めるように読み始め、目を通し終えてから、そこに挙がっていない台灣の媽祖研究者を一人ずつ丁寧に教えて下さるという、緊張と感激の訪問でした。