台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

弟橘姫和新撰組

2008-05-31 | 媽祖と研究
磯原の天妃神も徳川斉昭によって弟橘姫に変えられます

現在 保管されているその木版摺りの絵姿

この版木には明治初期の神主「下村常親」の名があります

実は 新撰組のメンバー芹澤鴨は
天狗党の蜂起に参加する前に この下村家の婿養子になっており
一時は神主も勤めたともいわれ
常親はその息子という説もあるそうです

参考:
茨城県玉造町観光協会「芹澤鴨・新撰組を創った男」
http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/kamo.htm


仙台藩的天妃

2008-05-30 | 媽祖と研究
磯原の木版摺り天妃のコピーが宮城県七ヶ浜町にあります

藩米回漕の任にあった仙台藩士が平潟港滞在中に天妃の霊験を知り
1795年 板に絵姿を写して松島湾口の御殿崎に祀ったのです

「之君」もそのままコピーされています

天妃的木刻

2008-05-30 | 媽祖と研究
磯原の天妃神社は同時に木版摺りの天妃像を
船乗りや村民に流布しました

安南に漂着した船に安置してあったのもこのタイプと思われます

原画は当初は天徳寺の呉雲という禅僧の作と伝えられていましたが
いつの間にか東皐心越の直筆という話に変わってしまいました

天徳寺は水戸城下の曹洞宗寺院で
光圀に招かれた東皐心越が此処の住職となりました
後に天徳寺の寺号を他所に移し その跡を祇園寺として
改めて心越に始まる曹洞宗寿昌派の本山としました

天妃の絵姿の上の「天妃聖母之君影冩」の八字
「之君」は「元君」の誤写ですが
誤ったまま流布しているのがちょっとほほえましい

天妃山碑和明星文化人

2008-05-29 | 媽祖と研究
磯原の天妃神社を運営していたのは別当の修験行蔵院でした

18世紀後半 攻めの姿勢にでた行蔵院は
鳥居の額を長崎の程赤城に 石碑の碑文を京都の大典顕常に依頼します

程赤城は教養のある唐人船頭 大典顕常は外交などに活躍した五山禅僧
共に当時の教養人のあこがれの的だった国際派文化人です
天妃神社の関係者がどのようなコネクションで彼らにわたりを付けたのか
気になるところです

額はなくなりましたが石碑は現存 筆は水戸藩支藩の宍戸藩主松平頼救です

ここでは光圀公創建という由緒と共に 東皐心越との関係が強調されています
心越は100年ほど前に来日した中国僧
高崎の達磨寺を中興したという話をはじめ 日本各地に伝承が残っています

中国琴や篆刻などを日本に伝え 書画の名手ともいわれるマルチな才人…
彼の作品はネットオークションの常連でもあります

水路圖的天妃神

2008-05-28 | 媽祖と研究
磯原の天妃は東北諸藩の蔵米運搬船や各地の廻船に信仰されました

江戸時代の沿岸航路を描いた絵図にも登場します

1765年に磯原の船が鹿島灘で遭難しました
船は沈むことなくベトナムに漂着し、乗組員のほとんどは無事帰郷できます

この船にも天妃の画像が安置されており
助かったのは天妃の御利益ともいわれています


礒原天妃山

2008-05-28 | 媽祖と研究
北茨城市磯原の天妃山は海に突き出た岬山

徳川光圀によって那珂湊と同じころ、天妃権現が祀られたといいます

ここも夜は燈明を掲げ燈台の役割を果たしました

冷凍魚丸

2008-05-27 | 食と生活
台湾の庶民的魚といえば虱目魚(スームーユィ;台湾語でサバヒー)
フィリピンやインドネシアでも人気の東南アジア海域代表選手でもあります

“QQ感”が好きな台湾 歯ごたえは日本のツミレとは全く別物です
ちょっとくせがあるので針ショウガは欠かせません

台湾でも石油や食料の値上げラッシュ中 養殖が主の虱目魚も例外でありません
でも冷凍食品はいまのところ まだ大丈夫かな?

台湾は6月から入試シーズン 消化のいい魚丸で“目指せ状元!”





臺灣版秋刀魚之味

2008-05-27 | 食と生活
今、台湾で一番庶民的な魚といえば、これかもしれません。
一匹7~10元、焼いたものは15~20元(南港のカルフールにて)

もちろん冷凍です 日本近海で獲ってきたものでしょう

鹿島灘沖で操業する台湾漁船にも 祝町の女神の加護はあるのでしょうか?

背脊的天妃

2008-05-26 | 媽祖と研究
祭礼の朝、拝殿に集合する氏子代表の面々

お揃いの紺のハッピ 背中におどる白抜きの文字がシビレます



なお 大洗天妃については関西大学の二階堂義弘先生のページも参照のこと
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/oarai.html

乙姫娘娘!?

2008-05-26 | 媽祖と研究
天妃の祭は幕末の藩主徳川斉昭の「常陸日記」(天保四年)にも登場します

今日は乙姫の日なるとて旗など立て…
…行きて見んとて天妃山に登りて乙姫の堂を見るに いときたなし

この場合の“きたなし”は 乱れている 野卑である の意味でしょう

斉昭は石灯籠を寄進するなど 境内の整備を進めますが
祭神まで変えてしまいます

新しい神は『古事記』に登場する「弟橘姫」
海に身を投げて夫の船を助けたヤマトタケルの奥さんです

天妃山燈臺

2008-05-25 | 媽祖と研究
北岸の那珂湊から望む戦前の那珂川河口の写真
中央やや右側 橋の左の樹叢が旧天妃山…

幕末の『新編常陸國誌』には次のようにあります。

「海上風波ノ難ヲ救玉フ神也、故漁者悉信仰ス。
先年ハ社頭ヘ大行燈ヲ拵、毎夜燈明ヲ掲サセ、海上ヨリ認ニナサレリ。


なお 天妃の祀られていた祝町は
水茶屋が並ぶ海の男たちのオアシスでもありました

那珂湊的守護神

2008-05-24 | 媽祖と研究
祝町は古くから有名な港 那珂湊の南岸

元禄三年(1690)4月 当時の藩主徳川光圀によって
河口に面した小山に「天妃媽祖権現」が祀られたそうです
それ以来、ここは天妃山と呼ばれてきました

1947年に河口の改修工事のため、現在地に移転しました

改修前の那珂川河口は海難の多発地帯
波が突然 船の前にまわって梶がきかなくなり 横転してしまうそうです

改修後も 漁船は拝礼のため
天妃山の前で1回転してから 出漁しました

日本的媽祖信仰1

2008-05-24 | 媽祖と研究
実は日本にも媽祖(天妃)の祭があります

その一つ 茨城県大洗町の天妃神社の祭礼

かつては旧暦3月23日でしたが、今は4月の第三日曜日に…
(写真は2004年のもの)