台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

安平靈濟殿是魚民的神【台南調査記14】

2005-03-30 | 媽祖と研究
安平の靈濟殿は、旧北極殿・水仙宮・慈濟宮・仙史宮の神像が合祀されたもので、この地区に住む漁民たちの信仰を集めています。向かって右側に安置されている旧仙史宮の伍府恩主公には、次のような伝承が…

鄭氏政権末期の1679年、船や筏で出漁中の約200名の漁民が暴風で遭難しましたが、突然遠くでまたたき出した灯光を頼りに漕ぎ進み、澎湖諸島望安島の海岸にたどり着き半数が助かりました。

岸の上に仙史宮があったので、灯光を発してくれたのはここの伍府恩主公と考えた漁民たちは、香火を分けてもらって帰り、安平にも同じ仙史宮を建立して伍府恩主公を祀った、いうことです。

今は台南運河に面している廟の前には、色とりどりの旗が高層マンション群をバックに、海からの強い風にはためいていました。

我今月二十四日回來大和了

2005-03-29 | 街の風景
十日間ほどお休みしていました。実は3月24日に帰国し、関西空港の向こうにひろがる「國のまほろば」のなかに戻っております。台湾のみなさん、2ヶ月間ほんとうにお世話になりました。

現在、大津波の後のように山積みの仕事に立ち向かっておりますが、台湾での調査日記がまだ終わっていないので、このブログは時間を見つけて今後も更新していくつもりです。

ペースはマンボウなみになるでしょうが…。

安平古堡碑的昔顔【台南調査記13】

2005-03-20 | 媽祖と研究
日本統治時代の安平のエピソードをもう一つ。観光の目玉でもある安平古堡(オランダ時代のゼーランディア城址)に立つ安平古堡の四字が刻まれた石碑。

これはもともと1930年に総督府開催の「台湾文化三百年」祝賀行事の一環として建立された「贈従五位濱田彌兵衛武勇之趾」記念碑でした。

これは大員での日本船の貿易にオランダが規制や課税を強化したため、1626年に彌兵衛たちが商館員を人質にした事件のことです。

それにしても「日本人の武勇を海外に示した」として彌兵衛(の子孫)は、位階までもらっていたのですね。

悲情歴史在安平天后宮【台南調査記12】

2005-03-20 | 媽祖と研究
左は安平の旧天后宮跡地、現在の石門國小の一角です。17世紀当時の大員島の東端、中国人街の海岸沿いにありました。

1895年、日本軍安平入城の際に抵抗した清軍黒旗兵55人が、天后宮内で殺害され、廟後に大穴を掘って埋められました。神聖な場所が血に染まったので、信徒も遠ざかり荒廃していったといいます。

その後、安平公学校が建てられ、天后宮はいったん廃絶しました。太平洋戦争後の1962年に現在地に再興されたのは《台湾媽祖史5》に書いた通りです。

その新しい天后宮の事務室でお祭りの時の写真が展示されていました。画面右は祭開始の際に安平の海岸で、福建省の湄州島に向かって事(総代)が祈っている場面です。

魍港海幸是最好吃

2005-03-19 | 食と生活
日本から来た石先生の知り合いを、お腹をすかせて帰すわけにいかないと、村唯一の食堂から皿が次々と運ばれてきました。素朴な料理ばかりですが素材の鮮度が抜群! これが本当の御馳走です。

右から田ウナギのあんかけ軟らか焼きそば(鱚魚意麺)、青菜炒め、蟶(マテ貝)&空心菜炒め、ハマグリのスープ。魚貝はみな地元の海の幸。ぷりぷりのマテ貝はもちろんハマグリも、台湾でも珍しい天然モノでまるまると肥えてます。

鱚魚意麺は台湾ではポピュラーなものですが、こんなに癖がなくシャキシャキした田ウナギは初めて。見た目と歯ごたえのギャップがなんとも言えません。団長はマテ貝に感動し、目をキラキラさせていました。

今は養殖業が主産業で、以前のように船で台湾海峡に漁に行くことは少なくなったそうです。ちなみに澎湖島までどのくらいかかるか聞いてみたところ、最新の高速船で45分とのこたえでした。

海侠子孫是皆好漢【台南調査記11】

2005-03-19 | 媽祖と研究
好美里太聖宮の前に整列しているのは、村の長老(真ん中)廟の総代(右)廟の管理人(左)と調査団一行です。管理人さんに日本から来たことを告げると、わざわざ二人を呼んでくれました。

現在も篤く信仰されている媽祖像の調査はなかなか難しいのですが、ここでは神壇の前に入れてくれただけでなく、特別に「衙門媽」の神服をめくり上げての撮影を許可してもらいました。多謝!

この辺りの内陸は唐山人(漢人)の入植が早くから進んだ所でしたが、魍港はオランダ人が来る前から、中国系海上勢力の顔思齊や鄭芝龍(成功の父)が、台湾沿岸の拠点にしたといわれいます。

管理人さんが若い頃まで好美里は陸地との路は無く、船筏で往復していたそうです。管理人さんは自分たちの祖先は顔思齊らと一緒に活躍した海賊だといっていました。

明代魍港在紅樹林江中【台南調査記10】

2005-03-19 | 媽祖と研究
台南市から養魚池を貫いて走る臨海工業道路を車で飛ばすこと1時間、八掌溪の河口に到着。八掌溪は嘉義縣と台南縣を分ける大河で、嘗てこの河口部は大きなラグーンでした。このラグーンが明代の魍港と考えられています。

堤防からは紅樹(マングローブ)が生息する自然保護区が見えます。かつての内海はマングローブの樹海が広がっていたそうです。その意味では、東南アジア島嶼部の港市と環境がよく似ています。

この内海の中に青峰と呼ばれた島(砂堆)がありました。ここだけが濃い緑のガシュマル(榕樹)に覆われていたからです。オランダ人の砲台や清代の海防所がここに置かれました。良い水も出たようで紅毛井という古井もあったそうです。

そしてそこにあった「衙門媽」(魍港媽)を現在、祀っているのが太聖宮です。

我在光復市場吃虱目魚

2005-03-14 | 食と生活
台南を代表する魚といえば虱目魚(スームーユィ)。台湾語で「サバヒー」。東南アジア圏で広く食卓にのぼり、フィリピンでは国民魚とも呼ばれるそうです。英語名は「Milk Fish」、白く柔らかい身が持ち味です。日本でもマニアがいてネット上に同好会もあります(ブックマーク参照)。

台南で「魚皮」(ユィピー)といえば、この虱目魚の薄く削いだ皮付きの身のことで、粥や湯(スープ)に入れます。脂の乗った新鮮な魚皮は、まさに口の中でとろける旨さ、一度食べて虜になりました。

再調査の朝、空港からのタクシーを降りた直後に、市場の奥で煮上がったばかりの虱目魚を鍋から大皿にあけてるシーンに遭遇。頭上には「飯」の看板、さっそく朝飯です。

画面時計回りに、青菜の炒め煮、椎茸煮付け、豚そぼろ、サッと薄味で煮いた魚皮、白苦瓜炒、これに白飯がついて50圓。

虱目魚は漁で獲るのではなく全て養殖で、その歴史には何百年前にも遡ります。台南近郊にはおびただしい養殖池がひろがっていますが、一番たくさん泳いでいるのは、鰻や海老ではなくこの虱目魚です。

海安宮和【台南調査記9】

2005-03-14 | 媽祖と研究
金華路という大通りから斜めの路次をしばらくいくと穃樹(ガシュマル)のゲートの向こうに海安宮が見えます。林爽文らの蜂起を鎮圧した福康安ににって1788年に創建されました。前回、紹介した風神廟のすぐ西側(海側)に出来た港の新しいランドマークです。

鹿耳門の旧天后宮が1871年の洪水に遭った時(《台湾媽祖史4》)、救出された神像が約50年間、ここに仮安置されていました。ここも1945年3月の台南空襲で破壊され、戦後再建されます。

正殿の左右に2つの井戸があります。何時の頃からか円形のものを日井、半円形のものを月井、合わせて日月雙井と呼ばれるようになりました。旧暦端午節の午時にこの井戸から汲んだ水は疫病を防ぐと、古くから伝えられているそうです。

風神廟和接迎亭【台南調査記8】

2005-03-11 | 媽祖と研究
右の絵図は、1776~79年に台灣府の長官をつとめた蒋元樞が、在任中に新建・修復した所を描かせた「重修臺郡各建築圖説」。場面は台南港で官吏が上陸する地点に建てられた石坊(石の門)と隣接する風神廟です。

大天后宮から西に500mほど行った街中に、この2つは現存していました。大天后宮の創建時期には、その前に海岸があったのですから、100年間でこんなに陸化が進んだことになります。

蒋元樞の修造事業は台灣住民へ重税を強いることになり、それも引き金となってこの後、林爽文たちの大蜂起が置きます。これを鎮圧した福康安が、風神廟の西に新しい媽祖を祀る海安宮を創建したことは《台灣媽祖史9・10》で述べました。

実は風神廟から海安宮へ行こうとした時、すぐ近くのはずなのに路が入り組んでいてたどり着けませんでした。と、いうことで再挑戦のため明日から2日間、また台南に行ってきます。

府城擔仔麺是名店很多

2005-03-10 | 食と生活
台北を東京に例えれば、台南は京都(古都)+博多(対外交流)+大阪(食い倒れ)÷3といったところ。台湾小吃の代表格担仔麺もここが発祥。

度小月のような有名店のほかにも名店がたくさん。成功大學の謝さんのお勧めの赤嵌担仔麺は、古い商家を改築した落ち着いた店構えで、ゆっくり食事が楽しめます。

台南の食べ物屋さんは屋台のような簡単なお店が多かったですが、最近は凝った内装のところも増えているようです。

この店は「滷味」(詳しいことはブックマーク台南・ダイアリー参照)も充実していて、隣のテーブルでは若い男女のグループが、談笑しながらお皿をつつき合っていました。

在旧媽祖樓街小廟是多【台南調査記7】

2005-03-10 | 媽祖と研究
開基天后宮より400mほど西側(かつての海側)に行くと、《台湾媽祖史8》で紹介した媽祖樓があります。現在は楼閣でなく平屋の廟です。

廟前の旧媽祖樓街(現・忠孝街)は、古い建物も多く往時の雰囲気が残る街路ですが、よく見ると民家の間に小さな廟が挟まれています。

正面に李府千歳(王爺の一種)、後に千手観音を祀った小廟には「刑臺」の額が掲げてありました。かつて刑務所だった場所で刑具なども残っているそうです。

この一帯は清代は【台南調査記4】で紹介した軍工廠でした。その中に燈台の役割を果たした媽祖樓や刑臺が同居していたのは興味深いですね。

ちなみに台湾デザートの定番愛玉冰(クワ科の植物の種で作るゼリー)は、ここの街民が道光年間(19世紀前半)に売り出したのが最初だそうです。

開基天后宮在巷中【台南調査記6】

2005-03-09 | 媽祖と研究
大天后宮以前の鄭氏政権時代にさかのぼるといわれる開基天后宮は、細い路地をうろうろしてやっと見つかりました。

《台湾媽祖史7》で述べたようにここには「崇禎媽祖」と呼ばれる明代の古媽祖像がいますが、現在は信者の家を巡回しているそうで廟にはありませんでした。

今回、石萬壽先生に伺った話では、背中にある「崇禎十三年」の銘は後から刻まれたものだそうです。刻銘の位置が不自然なので最近、古老の聞きとりをして判明したということです。

顔などの特徴から、実際は半世紀ほど下った康熙年間のものだろうということでした。それにしても、この媽祖に話が及んだとき、即座に自分の記述を訂正した石先生は、やっぱりすごい人です。

記念照片在成功大學【台南調査記5】

2005-03-09 | 媽祖と研究
台南では成功大學も訪問しました。ここの歴史系教授の石萬壽先生は、早くから台湾の歴史古蹟文物を調査して、その意義を主張されてきました。媽祖にかんしても好著『台湾的媽祖信仰』のほか、多くの研究があります。

今回は持参した日本の古媽祖像を写真を見ていただきながら、石先生の年代識別方法について、詳しいレクチャーを受けました。台湾の媽祖像をほとんど見ている石先生の意見は重みがあります。

石先生の若い頃は、中華民国の國史は「中国史」であり、台湾の歴史は教えることが許されませんでした。大學で台湾史の講義をはじめた石先生は、3年間も「要注意人物」として警察の監視を受けたそうです。

写真は石先生と調査団の日本人メンバーです。マルチな台南文化人の石先生は、台湾の植物志などにも造詣が深く、詩文や写真もたしなみます。新春用に自ら撮影した白梅の写真に自作の詩を付したパネルが研究室にかざってありました。詩の中にお嬢さんの名前と同じ「清香」の句を見つけた武田団長は大喜びです。

大天后宮的龍目井 〔媽祖和井戸物語1〕

2005-03-07 | 媽祖と研究
この大天后宮の北側の観音殿の前に「龍目井」と呼ばれる古井戸があります。

傍らに立っている由緒札によれば「この井戸は南明の永暦18年(西暦1664年)に、寧靖王府の井戸として掘られた。もとは二つの汲み口があったので「龍目井」という。現在に至るまで300年余り、水は枯れたことがなく、水質は清徹で夏は冷たく冬は暖かい」 とのことです。

南明(鄭氏政権)時代はここは海岸に面した港でしたが、海に面していればどこでも港になったわけではありません。港の成立条件に航海の必須な水の存在があります。しかも井戸があればどこでもいいわけではありません。良港とよばれる港には必ず、塩からくなく腐りにくい名水・名泉があるものす。

この井戸ももしかしたら寧靖王府創建以前から、港の名水として船乗りたちに知られていたのかもしれません。隣にあるオランダ人のプロビンシャ城にも有名な井戸があることからすると、この一帯はもともと良い水の得られる場所だったから、寧靖王府がつくられたのかもしれません。

由緒札は続けて次のようなエピソードを紹介しています。「民国54年(西暦1965年)に井戸の水が突然涸れたことがあった。このとき三媽の鳳冠の珠璃が三日間揺れ動いたので、占いで聖意を仰いだ結果、井戸を浚うことになった。浚うとまた水が途切れることなく湧き出した。これを見て賞賛しない者は無く、奇瑞と称して争って聖水をもとめ、或いは薬を溶くのに利用した」。

小生は媽祖と井戸は関わりが深いと考えていますが、その話はおいおい開陳することにしましょう。明日はまた鹿港という古い港にいくのでブログはお休みです。