五月に「陰陽師0(ゼロ)」という映画を鑑賞した。というのも、今、参加しているサロンのオーナーが押している映画だったからである。
まあ、好みの映画ではなかったけれど、アポロシネマまで観に行った。
昨夜は、サロンで、「陰陽師0(ゼロ)」の感想を皆で話していた動画のアーカイブを見ていた。
「呪(じゅ)」というのは、現代のスピ系の人たちを見ると、ほとんどが催眠で、言葉で皆をコントロールしているという話で、言っている意味よくわからなかったのだけれど、本物は思考を物質化できないといけないんだなぁ〜というようなことを話していた。
今やってるインナーチャイルドヒーリングも、幼い頃かけられた「呪(催眠)」のようなものであり、思い込みの不安の罪悪感を外していく作業であると思われる。
思えば、思考を物質化できることは引き寄せなのだろうと思う。が、皆は、無意識でそれをやってるので、喜怒哀楽の感情も内省することなく、引き寄せて辛苦してる。いわば、催眠状態の三次元人間たちなのだろうか。
意識的に思考を物質化するならば、即、行動ということになるのかもしれない。
だけど、それも面倒くさいとか、いつかやろう〜と思い、そのままになっている。
変な話、あそこのあの高い寿司を食べに行きたいと思うと、実際、食べに行った方がいいし、できないけどやりたいと思ったことはやった方がいい。そうすることを繰り返すことは、まあ、いわば、安倍晴明のように思考を現実化することのスピードも速くなるということを話していたと思う。
まあ、頭の中で、いろいろと考えているとその術は使えなくなる。ということはわかる。
ゼロ地点に立つと、その術が使えるということになるのだろうか。
まあ、頭でいろいろと思い悩んでいると術は使うことはできなくなる。
安倍晴明には、興味なかったけれど、本棚から関裕二さんの本などを取り出して来て、調べてみた。
「関裕二、修験道がつくった日本の闇」より
陰陽師、安倍晴明(921〜1005)、実在したのは確かである。
陰陽師は、朝廷の中務省の陰陽寮に属し、陰陽道をつかさどり、加持祈祷などを行い、目に見えぬ「魔の手」から朝廷を守る役目を担った者といえよう。
陰陽道は中国(道教)に起こった自然科学であり、一種の宗教観と言っていい。
万物はプラスとマイナスによって成り立っているとして、その流転するさまを、木・火・土・金・水の五つの元素によって説明しようとする。陰陽五行説、原理原則によって宇宙万物の生成、変転を表す。
陰陽説(対極にある異質の二つ、陰と陽の原理を重視)
五行説(古代人の生活に密着した五つの「素材」を重視したもの)
日本古来とされてきた神道には、多くの道教的要素が混入している。
少なくとも7世紀〜8世紀に整えられた国家神道や大嘗祭などの神道行事の数々は、道教・陰陽五行説によって説明が可能である。たとえば、神道の中心に位置する「天皇」という尊称も、実は道教の最高神から拝借したものである。
日本文化に陰陽道が深く入り込んだ理由として、道教・陰陽道の呪術性にあったに違いない。
8世紀、陰陽道は政争の道具に使われている。
安倍晴明は、賀茂氏(役小角の流れを汲んでいる)から陰陽道の手ほどきを受け、卓越した能力を発揮して、安倍氏は平安時代を代表とする陰陽師の家となっていった。
まじ、わたくしが思うに、平安時代には(とくに京は、)妖怪や鬼などの百鬼夜行の都だったと思われる。今でも霊視できる人なら、京都に妖怪が潜んでいることを感じることができるという。だから陰陽師が活躍する場があったのである。
映画でも平安京を襲う菅原道真の怨霊の話が過去の話として取り上げられている。
相次ぐ権力闘争の果てに、平安京は怨霊の都と化していくのである。
陰陽師もまたこのような鬼と同類と見られていたはずで、事実、安倍晴明は式神を使役し、鬼・山伏・天狗の祖である役小角とそっくりであった。
信仰の面でも御霊信仰という流れを産み出し、神道、仏教にも影響を与え、神仏習合が加速し、修験道の骨格をつくった。
つまりは、怨霊によって、神仏習合が加速したと思われる。
御霊信仰とは、「いかにして怨霊を暴れさせないようにして、いかに鎮めるか」ということらしい。
映画「雀の戸締り」では、陰陽師の子孫が活躍しているのだろうかと思う。