Netflixで二日かけて「ONE PIECE」を鑑賞、なかなかいいドラマ(実写版)だった。
Netflixの「ONE PIECE」では、東の海編(1巻〜12巻)までが描かれていると思われる。
昨日、炭酸ヘッドマッサージ30分をうけてきた。
炭酸のスプレーを頭皮に吹きかけると、パリパリという音がする。その音感がいい。その後、背中のクイックマッサージを30分違う店でうける。どちらも時間が経過するともとに戻っている。身体が軽くなっているのは三時間くらいだった。
頭の側頭筋が張る。
側頭筋をマッサージしても改善されないので、治療家の動画を探す。整骨院や整体、カイロ、どの動画も自分でできる施術を解説してくれている。脳や骨の仕組みを模型を使って説明してくれているけれど、自分でやること自体が面倒くさいのであった。側頭筋ほぐしは、後頭部の眼精疲労に効く首の付け根の上あたりの筋肉をほぐすといいというので試してみる。
昨日の続き。
顧慮的配慮気遣い。これって、毎日の中でやってることで、悲本来的なつきあいということです。
例えば、道を歩いていて向こうから人が歩いてくると、よけてあげるとか、世の中の人(世人)を意識的に気遣うということなのです。
だけど、家族とか仕事場、趣味のサークル、ファンクラブとかだと、ある意味、その人たち(世人)に拘束されているとも言えなくもない。長いものには巻かれろ式にやっていかないと・・・というか、つまりはそうさせる世人なんです。「わたしたちと同じ考えをして楽しくやりましょう〜」という、存在の責任を免れさせてくれる、死を忘れさせてくれるというわけですけど、それも結局は非本来的な在り方なんです。
わたくしなどが思うに、悲本来的な在り方って、死を忘れさせてくれる在り方なのかと思います。
じゃあ、本体的な在り方って、どういうのかと思うじゃん!
ハイデガー曰く、それは、沈黙。
言葉以前のこと(語り)のことであると、つまりは、自分で了解したことを解釈するけどもまだ言葉にならない、言葉になる以前の語りなのだと、沈黙・・・言葉以前のものを了解する働きなのです。
本来的な語りって、世界に語りかけると世界が応じて開示してくれるというのです。
つまりは、創造的な言葉なのだと思われます。
詩とか創造的な行為とかでしょうか。
本来的なとは、自動的なおしゃべりの空談ではない、もっと根源的なことをすくい上げ響かせるような語りのことで、悲本来的な空談ではない在り方のことです。
悲本来的な空談とは、自動的な世間に流通している既成の相手も了解しているだろうというような解釈のパターン(テレビのワイドショーの会話とか、芸能ゴシップとか、このブログの日常のすでに了解済のエッセイとかです。)のことです。了解可能な日常の空談の中にどっぷりつかっているその背景には不安があるわけです。取り憑かれたように自動的にしゃべり続けるという人はいてます。
美味しいものの食べ歩き、海外旅行・・・好奇心の赴くままに、楽しむのがまるでいけないことのような感じがしますけど、そういうのは気遣いから離れている行為で、悲本来的な生き方だとハイデガーはいうのです。
まじかと思います。
だって、わたしたちは、その行為を非本来的な生き方だとは思ってないですよね。それどころか有意義な生活だとさえ思っているように思います。
仕事と息抜きの繰り返しの生活をしてるともいえなくもないし、そう思うと息抜きも疲れる行為に思えますか。
つづく。