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日々のこと記してます。

筒井康隆著「誰にもわかるハイデガー」復習 3

2023年09月06日 | ハイデガー

Netflixで二日かけて「ONE PIECE」を鑑賞、なかなかいいドラマ(実写版)だった。

Netflixの「ONE PIECE」では、東の海編(1巻〜12巻)までが描かれていると思われる。

 

 

昨日、炭酸ヘッドマッサージ30分をうけてきた。

炭酸のスプレーを頭皮に吹きかけると、パリパリという音がする。その音感がいい。その後、背中のクイックマッサージを30分違う店でうける。どちらも時間が経過するともとに戻っている。身体が軽くなっているのは三時間くらいだった。

頭の側頭筋が張る。

側頭筋をマッサージしても改善されないので、治療家の動画を探す。整骨院や整体、カイロ、どの動画も自分でできる施術を解説してくれている。脳や骨の仕組みを模型を使って説明してくれているけれど、自分でやること自体が面倒くさいのであった。側頭筋ほぐしは、後頭部の眼精疲労に効く首の付け根の上あたりの筋肉をほぐすといいというので試してみる。

 

 

昨日の続き。

顧慮的配慮気遣い。これって、毎日の中でやってることで、悲本来的なつきあいということです。

例えば、道を歩いていて向こうから人が歩いてくると、よけてあげるとか、世の中の人(世人)を意識的に気遣うということなのです。

だけど、家族とか仕事場、趣味のサークル、ファンクラブとかだと、ある意味、その人たち(世人)に拘束されているとも言えなくもない。長いものには巻かれろ式にやっていかないと・・・というか、つまりはそうさせる世人なんです。「わたしたちと同じ考えをして楽しくやりましょう〜」という、存在の責任を免れさせてくれる、死を忘れさせてくれるというわけですけど、それも結局は非本来的な在り方なんです。

 

わたくしなどが思うに、悲本来的な在り方って、死を忘れさせてくれる在り方なのかと思います。

じゃあ、本体的な在り方って、どういうのかと思うじゃん!

 

ハイデガー曰く、それは、沈黙

言葉以前のこと(語り)のことであると、つまりは、自分で了解したことを解釈するけどもまだ言葉にならない、言葉になる以前の語りなのだと、沈黙・・・言葉以前のものを了解する働きなのです。

本来的な語りって、世界に語りかけると世界が応じて開示してくれるというのです。

つまりは、創造的な言葉なのだと思われます。

詩とか創造的な行為とかでしょうか。

本来的なとは、自動的なおしゃべりの空談ではない、もっと根源的なことをすくい上げ響かせるような語りのことで、悲本来的な空談ではない在り方のことです。

 

悲本来的な空談とは、自動的な世間に流通している既成の相手も了解しているだろうというような解釈のパターン(テレビのワイドショーの会話とか、芸能ゴシップとか、このブログの日常のすでに了解済のエッセイとかです。)のことです。了解可能な日常の空談の中にどっぷりつかっているその背景には不安があるわけです。取り憑かれたように自動的にしゃべり続けるという人はいてます。

美味しいものの食べ歩き、海外旅行・・・好奇心の赴くままに、楽しむのがまるでいけないことのような感じがしますけど、そういうのは気遣いから離れている行為で、悲本来的な生き方だとハイデガーはいうのです。

まじかと思います。

だって、わたしたちは、その行為を非本来的な生き方だとは思ってないですよね。それどころか有意義な生活だとさえ思っているように思います。

仕事と息抜きの繰り返しの生活をしてるともいえなくもないし、そう思うと息抜きも疲れる行為に思えますか。

 

つづく。


筒井康隆著「誰にもわかるハイデガー」復習 2

2023年09月05日 | ハイデガー

「誰にでもわかるハイデガー」筒井康隆著の講義が途中のままになっている。

 

現存在って、どういう存在だっけ・・・あれって、一週間もやってないとすぐに忘れる。

現存在って、わたしたち人間でもあるんだけど、自分の存在を引き受けて存在しているという、実存という存在の仕方なんですね。

その意味で、人間ではなくて、人間の存在の仕方という意味で、「現存在」なんです。

 

実存」ってなんなのよと思うでしょう。

実存」って、人間の可能性、わたくしなどは可能性という言葉が嫌いなので、まだ出会ったことのない己という言い方にしてます。

勇気と挑戦も不可欠のようにも思うけれど、ああ、こういうことができちゃうわたしがいたんだ〜というスピ系風に言えば、ブロックが外れて視点がより深まったという感じなのかも、波動でいえば、より繊細な波動に近づいているのかもしれない。

わたくしなどは「実存」というと、サルトルと思い浮かべます。が、本では、サルトルは最初、フッサールから入っているのです。で、現象学のフッサールという人は、ハイデガーの先生です。

 

 

現象学とは、禅的だと思いました。

コップの機能性とかデザイン、値段などという付属する判断の雑念を取っ払うと、コップの本質が見えてきます。

その本質的なものがイデアだというのです。

 

本質を見極めるというのは、精神世界だと、ありのまま〜とかいうのだろうけど、これがなかなか難しい。

だけど、コップだとシンプルでしょう。

そこにイデアが登場すると、またわたくしなどは変な感じがするのですけどね。

本質を見極めて出てくるのが「純粋意識」であるというのです。

 

わたくしは、なぜに持続に「純粋」を付けるのかと思っていましたけど、イデアだからなのかと思えば、まあ、そうなのかもと思います。

その後、フランスではハイデガーが登場して、実存主義が大流行する。それって、わかる。だって、コップから哲学できるんだから、日常でもできちゃうと思うわけです。

日常の中に本質を見つけようという姿勢でしょうか。

 

現象学は、本質を見極めるのだから、その本質から必然的に可能性を見出すすべの方向性が生まれ、個人主義が登場するのもわかるように思います。その方向性に向かって行ける生命力のある人たちが生まれるのは喜ばしいことだとも思います。

ハイデガーは、平均的な日常性の中で、死を見つめて辛苦までをも引き受けて行くという生き方を「本来性」といい、できるだけ死から目をそむけて忘れるために気晴らしをするまたは仕事に夢中になるという生き方を「悲本来性」と言ってます。

わたくしなどは、「悲本来性」を生きているとは思いますが、還暦過ぎると死というよりも身体の衰えや病気を意識してしまいますよ。べつに長生きしたいわけではないですけど、タケチンのような守るべき存在などが近くにいると、まだまだ後15年は生きていなくてはと思いますね。家族を持っている人たちなどは、そうならざる得ないのではと思います。

ハイデガーに言わせれば、これって顧慮的気遣いと言って、自分以外の人を気遣うことは自分を顧みての顧慮的気遣いだというのですね。

 

ここからのメモはややこしくなるので、つづく。


筒井康隆著「誰にもわかるハイデガー」復習 1

2023年08月19日 | ハイデガー

 

昨日の朝の虹。

 

7月から始まった斜め上の階の改装工事も今月末で終わる。

音がちっとも気にならなかったのは、職人さんたちの腕がいいからなのだろうと思う。

 
 
 

筒井康隆著の「誰にもわかるハイデガー」を読んでいる。

 

現存在(人間)は、平均的日常性を平均的に、ごくあたりまえにさしあたって生きている、わたくしもその部類に入ると思われます。

現存在(人間)は、自分を気遣い生きている。

なぜ、自分を気遣い生きているのかというと、いつか死ぬし、まあ、基本的なことだと思います。

 

その自分は、身の回りにある道具も気遣うんです。

その道具たちを道具的存在者と言っています。

わたくしのまわりあるパソコン、建物であるマンション、電車、バス、あべのハルカスビル、都市など、そういうものも全て道具としてハイデガーは扱っている。

 

そういうものを通して、自分を気遣っている。

 

部屋をリフォームするのもそう、エレベーターを掃除するのもそう、火災保険に加入するのもそう、自給自足もそう、働くのもそう、ボランティアもそう、断捨離もそう、すべて配慮して気遣っているのは、道具的存在者に対しての配慮的気遣いなのです。

人間は、自然を自然として見るのではなく、すべて道具として見るというのは、まあ、そうなんだと思う。

現存在である人間は、道具を認識されて存在するんではなくて、最初から道具を了解している。

そういう現存在(人間)のことをハイデガーは、世界内存在と言ってます。

 

自然の草木とか動物、雨、地球、太陽などの事物は、事物的存在者といい、事物的存在者道具的存在者の背後にあるもので、例えば、自動車という道具的存在者の背景には、ガラスとか鉄板、ゴム、ビニールとかが満然にあります。

道具の背後には事物的存在者である自然の事物があるわけです。

 

なぜ、人間である現存在に対しては「」をつけないのかというと、まあ、人間のことなんだけど、自分の存在を引き受けて存在しているので、実存という存在の形なので、現存在と言っているのです。

自分の存在を自分で引き受けて生きていく、その実存という存在のしかた、それが現存在なのです。

 

 

うちにある植物のサンスベリアは事物的存在者のひとつなのかしら、だけどこれコーナンの園芸店で買って背景としては、事物的存在者だったのが、ビジネスのために人間の手によって処理されたので、道具的存在者に変化したともいえるのかしら、どっちなのか。

 

ハイデガーは、もっと、わたくしたちは、事物的存在者を意識して気遣いをしてその背景にあるこちら側にある道具的存在者として現象化しているのだということに目を向けなさいと言っているのだろうか。

そういう意識が、現象としての現れ方として、あなたはわたしに通じるようにも思う。

 

つづく。


ハイビスカス 散る。

2023年07月14日 | ハイデガー

 

ハイビスカスの花がはらはら。

 

今月でやっとパートも三ヶ月目、コロナ禍が明け、パート先のラウンジカフェは平日でも賑わっている。

 

七月のデザートのメインは苺である。

今月の盛り皿は扱い難い正方形のガラスに変わっていてた。30センチかける30センチほどの大皿の枚数が積み重なってたまってくる。

他に、厚み1.5センチはあるだろうと思う長方形のまな板のようなガラスの置き皿もあるので、ガラスの洗い物が今月は多いのだ。取り扱いには慎重をきさなければならない。

せまいオープンキッチンのカウンターもせまい。

せまいので、トットと拭いてどこかへ片付けてほしい。

接客サービスの女性の中にはゆっくりと笑談などをしているので、手が空いているならそれをやってほしいと思うが、極力、だまっているようにはしているが、昨日はガラスの大皿が段々とたまってくるので、それを言わずにはいられなかった。こういうとき、二番目のリーダー格の女性がいると、トットと云ってくれるのだけれど、昨日はいなかった。バイトの女性も二人ほど辞めているようだった。

 

また、ハイデガーを読んでいる。

人は潜在意識(アストラル体、メンタル体)まで深く到達してくると、形式的に表面だけ理解するというようなこともなくなって、表現方法も理解し難いものになるのだろうと思う。

ハイデガーなどは、「ある」という意味を知っているようで、実はわたしたちは知らない。などという。

存在者を成り立たせしめている存在、そこから先行的に導かれている。ということを言われても最初は何のことやらと思うだろう。

 

肉体で生きている人は、世俗人というのだそうだ。クリスマス、バレンタインデー、御歳暮、御中元など、世俗的な慣習を重視する人たちは、いまだにいる。

ハイデガーなら、山下氏の今回の件に関してコメントしている人たちを、世間の日常に埋没して、世間(世俗人)と同じ振る舞いをし、それは誰でもないような匿名の非本来的な人間のあり方なのだというだろうか。

 

世間から離脱をしている人というのは、なかなかいないのだろうと思う。


ハイデガー再考

2022年05月01日 | ハイデガー

 

フロアーをパトロール中のタケチン、今日は肌寒い。

 

 

昨夜、少し飲み過ぎてしまい、お酒が翌日に残って頭と胃が重く感じる。

 

昨日は、デカルトからハイデガーまでたどり着いてお話しされていました。

結局、人間はニュートンやハイデガーなどの哲学者のように深い意識(潜在意識、無意識領域)にまで意識が届いていないと思われます。どんなに経験を積もうがいつまでも肉体意識(エーテル体)で生きている故にそれは仕方がないと思うのでした。

情報をもらって整理してそれを返すだけ。

 

優れた詩人でもないと、キリスト意識にしてもどうとらえるかで言葉の意味もすべて変わってくる。

言葉は多元的であります。

 

哲学者の語る言葉の意味が理解できないというのは、人間というのは潜在意識、無意識から話してる人の言葉の意味を顕在意識で受け取って聞いていては理解できないのであります。意識のレベルが深みまで届いていないというのか・・・届いていてもニュアンスをつかまえて言葉にすると詩的にならざる得ないのではないのか

直感にしても無意識まで届いている人の直感は深過ぎて理解できないかもしれないし、できないだろう。できるとしたら発明家になっているかもしれない。どの意識から来る直感なのかわからないけれど、感じとることはできるかもしれない。

上手に的をついて整理整頓できるのは顕在意識以降の直感であると思う。

それ以前の表現は詩的にならざる得ないのではないのだろうかと思う。

 

わたくしのハイデガー再考まとめ

モノが空間的位置にあるのではなく、対象との関わり(縁)記憶なかなか捨てられないモノは、自分の思い出がいっぱい詰まっている。

潜在意識(メンタル体、アストラル体)まで意識が到達しているハイデガーのいうことは、禅的といっていいのかもしれない。非論理の感覚が掴めるようになってくるとハイデガーの哲学は理解できるのかもしれない。

あるということ(存在)を何気に知ってはいるが、実はよくは知らない。

 

肉体意識(エーテル体)で生きている人をハイデガーは、世人(ひと(慣習で生きている))という。やりたくもないことをしてるとその遊びは娯楽ということになるのだろうと思う。そういう娯楽的な遊びを必要とする人は本当の自分を生きてはいないのだろう。わたくしなどは、エンタテイメントで息抜きをしなければいけない人間なのである。その遊びは虚構といえるのかもしれない。

ハイデガー曰く、人は死の不安から逃れるために世間話や好奇心による気晴らしなどをして日常に埋没して生きている。

 

ハイデガーはわたしたちがモノ(花とか本とか・・・)としている物を存在者として、存在を現存在として感じとると人は存在が語りかける声に耳を傾け、その顕れを表現するのでありますか。