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日々のこと記してます。

ラスト!

2021年04月18日 | ラカン

 

タケチンのフードを探しに川沿いを歩いて駒川商店街まで歩く。

往復、約1時間半。

 

 

今回はみるくのふりかけも購入。

 

 

サクラ、まだ咲いてたね。

 

 

「生き延びるためのラカン 斎藤環 著」、もうすぐ読み終わります。

 

わたしはプラトンの「饗宴」は読んだことないけどね、引用されてます。

 

アガトン、アリストパネス、ソクラテスがエロスをめぐって談義をかわしてた酒宴に泥酔したアルキビアデス(美少年で同性愛者(ギリシャ時代に同性愛者は特別なことではなかった))が乱入、アルキビアデスはソクラテス(彼も同性愛者)のことが大好きだったけど、退けられてしまう。

 

なぜかというと、ソクラテスはアルキビアデスの恋心が転移性のものであると知っていたからです。

 

アルキビアデスはソクラテスの中に輝くような宝物があるように感じていた、(この輝かしい対象をラカンは「アガルマ」と呼ぶ)でも、そんな対象はソクラテスの中には存在しない。

アルキビアデスは、本当は詩人のアガトンに恋をしていた

 

なんなのそれ、なぜ?と、思いませんか。

 

なぜかというと、アガトンを褒めたたえるソクラテスの言葉のうちに、自らが理想とするアガトンのイメージを見出していた。つまりはアルキビアデスはソクラテスのアガトンへの欲望を欲望していた。というわけです。

 

これって、「アガトンが好きなソクラテスが好き!」っていう感じらしいです。

 

アルキビアデスが求めていたのはソクラテスへの欲望。

それはアガトンへの要望と同時に知への欲望(要望の欲望なのか!)でもあるという(ただし、ソクラテスの中には知の実体があるわけではなく、ないからこそ欲望することが可能になる)。涙。

 

輝かしいアガルマ「知への欲望」とは、ソクラテスの中にある空虚な部分のことを指していて、この空虚なアガルマこそが「対象a」としての知への欲望を欲望すること〜って、こんなふうにソクラテスへの転移が起こりうるのは、アルキビアデスとソクラテスの二人が、象徴界のネットワークによって支えられているからなのですわ!

象徴界、それはシニフィアンという一種の物質を通じて、情報ならぬ欲望の伝達が可能になる。それは共振を起こして響き合っているようなイメージで、象徴界に参加していなければ、転移も起こらないということになる(精神病では象徴界が故障する)。

 

斎藤環氏いわく、

こころと情報は対立する。

わたしたちはこころを持ち、言葉を語り、転移によって関係を持つことができる存在である。こころは非階層的で効率がわるく、不合理な動きを持ち愚かしい欲望も抱くが、関係しあい、愛し合うこともできる。

こころがなかったら、脳と脳は互いに理解しすぎて融合してしまうくらい深い理解となり個人の脳はサブシステムとしてより大きな集合的知性の一部となってしまうだろうと。

それって、こわいわよ。

 

おわり。

 

こころと脳、人間は霊的存在、象徴界で支え合う、などなど。

もし、AIがこころを持ってしまったら、どうなるのかな。恋とかしちゃうわけだから、計算間違いとかもバンバンしてしまって故障しちゃいそう。


転移の転移は存在しない。

2021年04月14日 | ラカン

 

どうやらまた不採用だったようだね。

 

 

気晴らしに、ソフトクリームを食べる。

 

この間の面接、三日以内に連絡がないと不採用、履歴書の返却は無しということは面接のときに聞いていた。

今回は、わたしにしてみればいままでの面接では一番、自分をアピールしたんだけれどなぁ。介護の資格はないので資格なしでもできる仕事、話し相手にホーム内のイベント参加、身の回りのお世話などなど、自転車通勤もできたんだけどなぁ。

でも、まあ、これでよかったんだと思うしかないね。

 

なぜか、DTPなどの制作の仕事は派遣が多い。派遣は苦手なので遠慮していたが、来週、目星をつけて派遣会社の面接をとうとう入れてしまう。涙。

 

 

「生き延びるためのラカン 斎藤環 著」

やっと、ラスト「転移、投影、同一化」の項目を読んでます。

 

ところで、HSPは、観察して感情を読み取る技術とかというテクニック的なものではなく、境界が薄いために相手の感情の動きが自分のこととして観察などしなくても伝わってくるんだと思われます。

だけど、そこにリアリティを持ってくると引き寄せのように現象化してしまうのだろうと思います。

リアリティってそうなのかな。

 

転移がリアリティを生み出す。

転移の転移は存在しない。つまりはメタ転移はないということ。ところで、メタってなに?

 

メタとは、

ギリシア語の「meta」を由来とする言葉であり、「高次の」「超える」といった意味、メタ認知って「自分が認知していることを客観的に把握して、制御をすること」、すなわち「自分が認知していることを認知すること」。

メタ言語ってありますが、これは漫画などの作品に登場する人物が原作者や読者、視聴者にしか知りえない知識や裏事情などについて、作中で発言することを指す。

 

転移にメタはないのです。

だって、転移や関係を媒体するのは常に言語なので、言語は音なのでイメージであり、その根拠を遡れないといいましょうか。

 

数学者のロジャー・ペンローズは、無意識にはアルゴリズムがあるけど、意識にはアルゴリズムがないらしいと言ってます。

こころの動きは非合理ですから階層性がないということなんだと思いますが、無意識にアルゴリズムがあるって、だから禅僧は無心に雑務を繰り返し行うのだろうかって、この例えは意味不明か。

こころの動きである非合理性は、現代では「情報社会、コミュニケーション」という幻想が力を持っているので、あらゆることが情報化され、情報化されたものは流通(コミュニケーション)させられる。

その幻想によって失われるものが関係、とにかくコミュニケーションしなくっちゃ!とばかりに会話する。SNSとかですか。

 

そもそも人間の心には、ほとんど情報もなく接点もないのに、まるでその相手と強い関係があるみたいに感じられるような機能が備わってます。それが転移投影とか同一化と呼ばれる現象)で、こういう関係を成立させているのは、なんなのかな。

 

投影とは、内面にあるものを外の世界に映し出したりする。映し出されるものは自分の中にあって認めたくないもの。

同一化とは、自分の中にある良いものを映し出す。ペットや映画の主人公になりきるとか。

 

つづく。


転移の結び目

2021年04月13日 | ラカン

 

母親が子供の良い資質にリアリティを持つと、それが現象化する。LOVE.

 

 

「生き延びるためのラカン 斎藤環 著」まだ、読んでいます。

 

転移には陽性と陰性があって、患者が治療家に好感を抱いたり、恋愛感情を持ったりした場合、その感情は「陽性転移」になります。なら、わたしがこの間、近所で受けたカウンセリングは不信感しかなかったしで、陰性転移になりますね。

転移は治療関係の中で起こりやすけれど、いろんな人間関係においても起こりそれはしばしば性愛として実現する。

愛情や好意は感情やイメージの反復、重要な肉親に向けられた感情を別の新しい対象に向けなおしているパターンは、わたしの過去を振り返れば、やってるなあ〜と自覚してるとこあります。

 

転移が肯定されてると治癒したりはするらしいけど、ホントの意味の治癒とは違うわけで、そこのところは転移感情の解釈をしきれずに終わるんだろうか、座ってのカウンセリングはそんなもんだと思う。本質に触れるワークはしないだろうと思うし、そんなこわいワークはドカンと道場に座る覚悟でやらないと効果はないのだろうか。

 

ラカンによる転移の理解は、人と人との間で情報の移動が起こるような事態を意味している。

 

転移によって起こるテレパシー的な現象、情報みたいなものが、象徴界という巨大なネットワークみたいなものの中を、それぞれの個々人を結び目として、駆け巡っている様子のイメージ。

 

ところで、斎藤環氏は、本の中で、転移とはこういうことかと理解した経験を記されています。

いま目の前で話している彼女は、夫のひどさに十分気づいていないかもしれない。でも、本当にそうだろうか。僕の言葉は、もちろん僕の口から話しているんだけれども、彼女の言葉を聞いたら、かなりの人がそういうアドバイスをしたくなるのじゃないだろうか。そう考えると、僕の言葉は僕自身のものというよりも、実は彼女に語らされていると考えるべきじゃないだろうか。

僕と彼女の関係性において、無意識のうちに僕に何かが伝達され、それが僕の口から語られたと考える方が正確なんじゃないだろうか。

つまりこれが、自ら語っているつもりで、象徴界によって語らされているということなのではないのか。

 

斎藤環氏は、このとき、はじめて自分が何ものかによって語らされる存在なのだ、と自覚することができた。世界の結び目のひとつにすぎなかったと記されています。

関係性のなかで能動的だと思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったと気づかされること。

 

象徴界って、カタチにできそうな、まだ、そんな段階なんだね。

 

結び目は、転移ってことなのかい。

うーん、こういうことは精神科医のKちゃんに聞いてみよう。


ボロメオの輪

2021年04月08日 | ラカン

 

タケチン、朝の風景。

 

 

「生き延びるためのラカン」斎藤環 著の続きをメモする。

 

必ずしもイコールしないこころと言動を結ぶもの、言葉=隠喩。

言動はこころの動きをそのまま反映するというよりは、こころを象徴する形で表出される。

 

人間が語る存在である限り、人間の言動はひとつの症状として、そのひとの存在を指し示すことになる。

症状こそが人間の存在証明になるってわけですか。

 

自分の存在を証したいという欲望、(それはボランティアから犯罪に至るまで)。

 

 

三界(想像界、象徴界、現実界)は、階層構造ではない。それぞれが互いにそれぞれの存在にもたれかかって成り立っている。もし階層構造ならより真理に近い象徴界さえ認識していれば、想像界のようなウソだらけの「みかけ」の世界は見えなくてもかまわないということになる。

象徴界を直接見ることができたとしても、それはほとんど無意味な、まるでメカニカルなシニファンの戯れにしか見えないだろうと。想像界のスクリーンを通じて、はじめて意味のあるものとして受け止めることが可能になる。

要するに、わたしらはウソを通じてしか、ホントのことに近づけないということですか。

 

現実界はもっとそうで、現実界には定まった場所がない。

それは、象徴界や想像界の働きがあってはじめて、そのつどその働きの外側に生み出されるような領域。

 

ラカンは、こうしたもたれあいの関係性を「ボロメオの輪」という図式で表現した。

 

http://kagurakanon.sakura.ne.jp/11400.html

上記より勝手にお借りしました。

 

この三つの輪っかは、どの一つの輪がはずれても、全部がばらばらになるように組み合わされてます。

想像界がだめになると、現実界と象徴界もばらばらになってしまうのですね。

 

精神の病はこのボロメオの輪がばらばらになりかけてる状態で、輪っかをつなぎ止めておくためには、第四の輪っかを加えてやる必要があるのだとか。

パパーママーボクの三角形が重要となる時期、ママとボクを邪魔しにくるパパの役割とは象徴界における位置づけというのでしょうか、四つ目の輪っかがエディプス期を経験することならパパがいなければどうなるのか。パパの代わりになるようなものが必要なのだろうと思われます。

 

わたしたちは、まず現実界から意味を受け取り、それを言葉に乗せて、互いに伝達し合うことになる。

現実界想像界を介して、象徴界に影響を及ぼしていることになる。

 

 

本では小説家のジェームス・ジェイスを例に上げていて、

彼の作品は「何かについて書かれたものではなく、その何かそれ自体」であり、彼の作品は無意識とは関係なく意識的に発揮された技術の産物で、ジョイスの言葉はそのまま出来事、つまりは現実であると。

と、いわれても、わたしにはなんのことやらわかんないんですがね。

 

ラカン的に言い換えると、現実界と想像界が直接に結びついていていると、そうなると象徴界が抜けているので意味の翻訳が困難になってインパクトだけがあるイメージが出現したりするわけです。

象徴界が抜けちゃってると、妄想を持たなくなるんですか?

 

なんだか、ワケワカメ。


三界

2021年04月06日 | ラカン

 

朝方のタケチン。

最近は枕元で二度寝する。

 

午後、ハロワに行って職を確認、今週と来週、ひとつずつ面接が入っている。

後、ハルカスの17階のカフェでピザとカフェマッキャートを今日は梅田の方向を眺めながらいただく。

 

 

16階のガーデンに咲いてたツツジ、桜が散るとGW、ツツジの季節だね。

 

 

「生き延びるためのラカン」斎藤環 著を読んでいます。

斎藤環氏の本、もう一冊購入しました。この方の書いたものは大変、興味深くて面白いですね。

 

今回は現実界のお話です。

現実界といってもこの世ではないよ。

 

認識したりコントロールしたりできる領域が想像界(この世)、

限られた状況下でなら認識・コントロールもある程度は可能なのが象徴界

いかなる方法論を持ってしても、認識もコントロールも不可能なの領域が現実界です。

(だけど、この三界は階層構造ではなく、それぞれが互いにそれぞれの存在にもたれかかってなりたっている)

 

では、わたしらが日常で話している現実とは何なのかというとそれは、想像的なスクリーンに映し出された「日常生活」のことを意味している。

言葉で語るということ自体がそのまま虚構ということになりますか。

 

ラカン曰く、象徴界には穴が空いていると、言葉に取り込むことができない領域である現実界がそこからのぞいているような穴があると、それは象徴界の空白。

トラウマはラカンによれば、それがあまりにも現実的すぎるがゆえに、いつでも強い不安を呼び覚ます、強烈すぎて、言葉やイメージにうまく吸収することができない。つまりは「幻想」という安全な形で記憶できないわけで、だからトラウマは通常の記憶や思い出とはちがって、冷静に思い返したり、味わったりすることはできない。

 

これって、わたしにたまにやってくる浮上するといっていいのか、わけがわからないムードのようなものもそうなのかもしれない。浮上するそれば形にできないわけです。整理整頓できないわけです。あれは現実界から浮上してくるんだと思いますね、きっと。

そういうのって、書いて言語化できないわけです。

 

象徴界が機能しないとどうなるのか。

言葉の文脈を理解するのが困難になってくるように上手く整理整頓できなくなるんでしょうかね。象徴界が機能しなくなるというのは去勢がうまくいかなかったということらしい。

 

だけど、チャネリングとかどうなの、幻聴って場合によっては支配されちゃったらえらいことになります。これも象徴界でちゃんとなんとかできちゃうと大丈夫なような気もしますが、霊能者は行によってどこを鍛えているのかというと象徴界を鍛えているのでしょうか。