タケチンです。
今週末から涼しくなるそうだからね。
二連休を終え、大規模修繕工事という大作業が行われます。
整えられたマンションで新年を迎えられると思うとうれしいね。
今季、最後のブーゲンビリアが部屋の中で咲いてます。
さっき食べた抹茶のムースのようなカップケーキで胃がもたれている。
午後から刺繍に集中。
タケチンです。
今週末から涼しくなるそうだからね。
二連休を終え、大規模修繕工事という大作業が行われます。
整えられたマンションで新年を迎えられると思うとうれしいね。
今季、最後のブーゲンビリアが部屋の中で咲いてます。
さっき食べた抹茶のムースのようなカップケーキで胃がもたれている。
午後から刺繍に集中。
自分の感情に耳を傾けて、感情に意識を向けてただ聞いてみる。内省なんだと思うのだけれど、それがなかなかできていない。
ハートのチャクラに自分の本心を聞いてみる。
長年過ぎるくらいに周囲から刷り込まれて来た概念、自分の感情や思いを無視して後回しにする。これをもう二度としないようにと、自分と向き合う。
年末の除夜の鐘
108つ
煩悩は自分の魂の声を聞こえなくする。
よくスピ系が、「目覚めてください。起きて!」などという。あれは煩悩という催眠術から覚めてくださいということなので、本来の自分を蘇らせるということなのであると思う。
地球は次元が上がって、どんどんライトになっている。
だからか、人に本来はもともと備わっている能力が目覚めやすくなっているので、突然、そのスイッチが入ったりもする。
まだまだ、わたくしなど、大半の人は、重いトラウマ(魂の傷)を抱えて生きているように映る。煩悩という鎧、そのことに気づいているのはまだいいけれど、インナーチャイルドの傷となると、まあ、気づかない。その癖というのか周波数は根強くこうあるべきというようなルールとして顕れたりする。
整い、解放して、拡大して、豊かになる。と、神に近づくようにも思う。
タケチンと暮らしていると、部屋の中に一緒にいるので、実家での出入り自由のときとは違い、ネコが人のエネルギーを察知して動いているのがよくわかる。例えばタケチンが寝床によく飛び上がってくるのは電気を消してから甘えるとか、しばらくゴロゴロするともうええやろという感じで隣の部屋へ行き、うろうろしてフードを食べたりして、しばらくするとまた上がって来てゴロゴロしてという行動を何度か繰り返す。
季節によっては寒くなるとこの行動は変化する。
寝床の上でそのまま寝てしまう。
トイレに入ってドアを開けると座って待っていて、かならず一度、トイレに入って中をパトロールして出てくるのでその間、ドアを開けて待っていなくてはならない。出てくると、廊下に寝転んで、お腹を見せるのでヨシヨシする。ここではあまりヨシヨシし過ぎると気に入らないようである。
寝床の位置移動もパターンがある。
互いが互いを合わせるように暮らしているのだと思わせてくれる。
冷房を付けてお風呂から上がるとタケチンはよく赤い座椅子で寝てます。
冷房を付けてないと、赤い座椅子で寝ると暑いので寝ません。
「また、そこで寝てんのん。」
涼しい。
西田幾太郎のいう純粋思考とは、思うに言葉を話すまえの赤ちゃん、犬とか猫とかは「純粋経験((思考、想念がない))」で、主客が分離していない、思慮分別がない。だけど人間も危機状態のときはすごい火事場の馬鹿力というのが発揮されたりする。
危険が危ないときは考えてなくても身体が自然に動いたりする。
思考とか自覚は後付けとして来る。
だから、純粋経験ってどこからどこまでなのかは、よくわからない。
西田幾太郎は、知識が主体で対象が客体で、「純粋意識」とは知識と対象が合一しているというのであります。つまりは「あ、タケルちゃんだ。花だ。あれだ〜。これだ〜。」と言っているうちは主客が分離しているということです。
西田哲学では自己がない。
純粋経験をしている自己がいないんです。
自己というのは後から自己意識(物質現象も意識現象であると説く)として現れるのであって、それを経験している自己は無いのです。だから西田の言う唯一実体の自己は後付けの知識としての自己意識として現れるだけであって、それを経験している自己などは無いのです。
西田のいう自己意識は「自意識、自我意識」でもあります。
だけども、インド哲学では、純粋経験(知識と対象は合一)をしている意識現象を客体として自己を主体としているのです。
仏教メモ
五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)でとらえられる一切、自己が後付けで立ち上がってくる。
色(肉体 色カタチ)
受(感覚 感受作用)
想(思考 識別作用(イメージ力))
行(意志 想起作用(照合、形成力))
織(意識 判断作用)
現代の仏教は、釈迦の説いた原始仏教とはほど遠く、原始仏教は、神々への祈願や犠牲や祭祀、護摩焚き、占い、などの神秘的な力によって授かるような信仰は否定してました。
なので真言宗(密教)、空海の教えなどは原始仏教とは程遠いと思われます。
原始仏教は、托鉢をして己の心を内観して彼岸に至れ。という教えです。
だから神々はいないのです。
釈迦は経典(スッタニパータ 中村元訳)のなかで、「神々も人間も、ものを欲しがり(人々のエネルギーを欲しがる)、執着にとらわれている。この執着を越えよ。神々でさえも解脱できていない。」と説いてます。経典の中にも実は神々(インド)は登場してるんですが、そのような解脱さえできていない神々はいない方がましと釈迦は説くのです。
釈迦は、経験(認識)の対象となり得ないインド哲学でいうところの自己(アートマン、プルシャ)のとこは説かなかった。
なぜかというと、民衆は理解し得ないと思ったからで、心身である自我を自己(わたし)と勘違いして執着することの愚かさを説いたのであります。
それに、釈迦は形而上学的なことには沈黙したのに、後の仏教徒は無我説を説くようになり形而上学的な議論を徹底的にやるようになった。
論破論破論破・・・です。
無我説が登場すると、自己を認めないことになるので、自業自得は無いし、因果応報もないし、輪廻もないことになる。
インドの聖者マハリシは、「それゆえに仏陀は虚無主義者と呼ばれた。事実、仏陀は神、その他についての学問的な議論よりも、求道者に、いまここにある至福を指し示すことの方にかかわっていた。」
マハリシは沈黙の聖者といわれたけれど、仏陀もマハリシも実は、自己(アートマン、プルシャ)を体現していたのです。だから沈黙してそれを表現したのです。くれぐれも沈黙して思考してないからって犬猫じゃないんです。
このブログの「仏教」のカテゴリーに過去に学んだことを忘れないように記したけれど、すでに忘れているんで、ちょっとまた整理整頓して理解してみようと思います。
感謝💓。
フロアーパトロール中、また蝉をくわえて来たタケチン。
午後からずっと冷房をつけている。
満腹になって夕方まで寝るタケチン。
昨年からソーメンは豆乳味、豆乳坦々麺というのだろうか。
辛くてにわかに甘さもあって、まろやか。
午後からまたクレニオセイクラルセラピーに行く。
「次はいつにしますか。」と先日、終わった後に聞かれたので予約を取って、あと四回くらいは様子をみるようだけれど、通い続けるということはないと思う。
どのヒーリングも健康になるお手伝いくらいにしか思っていない。
一番、効くのはトシさんの昨日の動画でやってたこの祈りだと思われます。
https://www.youtube.com/watch?v=9en1bBdgRtc
(くれぐれもわたくしはライトワーカーではない。どちらかというとネガティブ寄りなので・・・)そういうの抜きで、上の祈りを呼吸法をふまえてやると、いろんな要素が周り始めるのがわかります。
神道の祝詞とか仏教の真言、キリスト教の祈りもそうだろうと思う。
今年の夏は、ハイビスカスが咲き続けてくれてます。
花が反り返って咲くほどに元気が出る感じする。
タケチンと暮らし始めて4年半。
お尻以外はシャンプーしてないけど、ブラッシングは欠かしてないので毛並みの色艶はいいタケチン。
タケチンは木曜日の昼間、ぐっすりと寝てたのか夜はなかなか寝てくれず、わたくしも寝れなかった。
真夜中に起きてウロウロしてまた起こしに来るので、気がつくと夜明けが近づいて空が明るくなっている。睡眠時間三時間、昼間寝ようとしたけど昼間は寝れない。
六月中に刺繍を完成させたかった。
今回の刺繍も糸を刺したり外したりしながらやっているので、なかなか進まない。次回の図案はもっと刺繍糸を増やして色彩を増やしたいと思う。
やってると心が落ち着いてくる。
土を触る感覚と似ている。
今日は梅雨の晴れ間。
来週、歯医者。