日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

私の耳を開いて下さった 

2020-05-13 | Weblog
  詩40篇 

 7節「生け贄の供え物も、あなたは喜ばれず私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえも、清めのいけにえも、あなたは求められなかった」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。賛歌。
2節 「私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向って身を乗り出し私の叫びを聞いてくださった」神への嘆願。2~12節は破滅から救われた感謝。後半13~17節は敵の攻撃より神の救助を求める祈りである。「身を乗り出し~」は意訳で「望みに(カヴオー)」「私は待ち望んだ(キヴイーティ)」。
3節「主は私を滅びの穴,泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし」。私の口に新しい歌を我らの神への賛美を授けてくださった。多くの人はこれを畏れ,主に信頼する(4節)。
 5節「幸いな者 主を頼みとする人、ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人。」 我が神、主よ、あなたは多くのことを奇しき業と計らいを私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。私がそれを語り伝えようにもおびただしくて数えきれません(6節)。ここで「ラハブ」(複数レハビーム)は「頑固な者、おごる者」を意味し、エジプトの別名である(87篇)4節89篇11節、イザヤ30章7節。岩波訳「暴君」。
 7節「いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず、私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえ(潘祭)も清めのいけにえ(罪祭)もあなたは求められなかった」。形骸化した礼拝でなく、真の礼拝こそ神は求められるということである。「耳を開いてくださった」は直訳「耳を(オズナイム)あなたは掘った(ヴァはター)私のために(りー)」。出エジプト記21章5節see自主的に主人に仕える徴として行う儀式であった。
 9~12節は6~7節を受けて眞の礼拝を告げる。
 ①あなたの律法は私の胸の内にあります(9節)。直訳「の中に(べとふ)わが腸(メアイ)」
 ②私は義を告げ知らせました。決して唇を閉じません(10節)
 ③正義、直訳「あなたの義」(ツイドウはー)を心の中に秘め置かず…真実(エムナトウはー)と救いを語る(11節)。
④…慈しみ(はスデはー)と眞(まこと)(ヴァアミテはー)を隠しませんでした」(12節)。
  13節「数え切れないほどの災いが私に絡みつき、見ることが出来ないほどの過ちが私に迫りました。それらは私の髪の毛より多く、ここで私の心さえ私を見捨てました(二律背反状態)」。状況は変わるのである。私にからみつく罪からの救いと、命を奪おうと狙っている者と、災いに遭わせようと企む者が退けられるように祈る(14~15節)。詩70編1~6節は14~18節が殆ど同じである。
 16節「私を「あはは、あはは」とはやす者が自ら恥を受け、うろたえますように」。直訳「うろたえますように、彼らの恥のポショタム 結末(エケヴ)」(「あはは、あはは」(はアへ はアへ)=やった、うまくいったゾ。
 18節「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みて下さるように。あなたこそわが助け、わが救い、わが神よ、ためらわないでください」。直訳「遅れ給うな」(ルはアテ)わが神よ(イハろエ )」。
極貧の貧しさ(アニー)が強調されている。それは心打ち砕かれた態度表明である。しかし耳は開かれ(7節)真の礼拝がなされる時、恵みの御業を心に秘めることなく、集会で真実と救いを語り証しするということである(11節)。

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