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日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

無益な議論の中に迷い込みました

2016-02-17 | Weblog
  第1テモテへの手紙1章 

 6節「ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました」(新共同訳)

  1節「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから」。小見出し『挨拶』。本書は牧会書簡といわれるものである。テモテがパウロに見出され、伝道者として行動を共にするようになったことが使徒言行録16章1~5節にある。「まことの子」、口語訳「真実の子」と呼ばれたのは、生涯信頼すべき助け手となったことを指す。その関係は彼に宛てた二通の手紙から容易に理解できる。父なる神と主イエス・キリストの恵み、憐れみ、平和があるようにという(2節)。
  3節「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり」。彼に頼んだのは、異なる教えに対する警告をする為であった。それは無意味な詮索を起こすだけの「作り話や切りのない系図」である(4節)。NTD訳「果てしない神話や系図」、新改訳「果てしのない空想話と系図」とある。この異端はキリスト教会を脅かしたグノーシスとユダヤ教の思弁主義と考えられている(4章3、6章20節、テトス1章14~16節see)。旧約聖書は「信仰による神の救いの計画の実現」を証言するものなのだ。
  5節「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです」。「命令」(パラゲリア)とは指図、告知で、無益な議論に迷い込まないことが目標なのである(6~7節)。
  8節「しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています」。律法の意義は、悪事をする者に与えられているのであるとして「悪徳表」を具体的に14種類列挙している(9~10節)。十戒の順序が伺える。この取り上げられる事柄は健全な教えに反することである(6章3節)。これはわたしが祝福に満ちた神の栄光の福音を委ねられた者として述べている(11節)。
  12節「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」。小見出し『神の憐れみに対する感謝』。以前のわたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者(有害な者の意味)でしたが、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けた者である(13節)。NTD訳「聖名の誹謗者、迫害者、暴力的闘士」。それは故意に犯した罪ではなかった(民数記15章28~31節)。今はイエスへの悔改めの信仰と、罪の赦しの愛を満ち溢れる程に与えられている(14節)。神の憐れみは16節で再述しる。「憐れみ」(エレオス)は窮状にある者への同情だが、ヘブライ語のラハミームで、ヘレム(母胎)からの派生語で、胎から生まれたわが子への愛情を表わす。 
  15節「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。括弧は、定式化した引用語である。最たる者(口語訳(罪人のかしら)である。「最たる者(プロートス)」は「前」(プロ)の最上級で、比較級ではなく「何より先」のこと。この回心体験は、「わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」と記している(16節)。ガラテヤ1章15節参照。18節以下は、5節のパラゲリアに続くことで、「信仰と正しい良心」についてである。「良心」(スネイデーシス)とは、人が共通して意識する心であり、「汚れた良心」(テトス1章15節)「弱い良心」(第Ⅰコリント8章12節)がある。それ自体がいつも良いのではなく、良心の咎めを清くしなければならない(ヘブライ10章22節)。
  良心的に生きていると自負することは危険である。

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