『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

稲葉典通(いなばのりみち)[2/2]

2016-02-06 13:21:45 | 信長公記の蔵:人物篇
稲葉典通(いなばのりみち)[2/2]

〔現代かなづかい〕いなばのりみち

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1585年7月従五位下侍従に叙せられる。豊臣の

    姓を与えられて「彦六侍従」と呼ばれた。

1587年父と共に九州平定戦に従軍したが

    秀吉の機嫌を損ねて逐電し、伊勢国朝熊

    に蟄居する。朝鮮出兵の際、豊臣秀勝に

    召しだされて朝鮮各地を転戦した。秀勝

    が陣没した後は、石田三成の推挙で豊臣

    秀次に仕え、六千石を領す。

1595年秀次自害ののち秀吉に仕え、尾張丹羽郡、

    伊勢安芸郡の内で六千石。

1596年伏見城造営に参加。

1600年の関ヶ原の戦いでは、はじめ父貞通と

    ともに西軍織田秀信に属して尾張犬山城

    救援に出働したが、8月の岐阜城落城後、

    父と共に徳川家康に降伏。

1600年12月父貞通の豊後国臼杵転封に同行。

1603年9月父の死後遺領を継ぐ。

1614年大坂冬の陣に従軍。

1615年大坂夏の陣には間に合わなかった。

1626年の将軍家光の上洛に供奉した。

1626年11月臼杵で死去。


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