稲葉典通(いなばのりみち)[2/2]
〔現代かなづかい〕いなばのりみち
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1585年7月従五位下侍従に叙せられる。豊臣の
姓を与えられて「彦六侍従」と呼ばれた。
1587年父と共に九州平定戦に従軍したが、
秀吉の機嫌を損ねて逐電し、伊勢国朝熊
に蟄居する。朝鮮出兵の際、豊臣秀勝に
召しだされて朝鮮各地を転戦した。秀勝
が陣没した後は、石田三成の推挙で豊臣
秀次に仕え、六千石を領す。
1595年秀次自害ののち秀吉に仕え、尾張丹羽郡、
伊勢安芸郡の内で六千石。
1596年伏見城造営に参加。
1600年の関ヶ原の戦いでは、はじめ父貞通と
ともに西軍織田秀信に属して尾張犬山城
救援に出働したが、8月の岐阜城落城後、
父と共に徳川家康に降伏。
1600年12月父貞通の豊後国臼杵転封に同行。
1603年9月父の死後遺領を継ぐ。
1614年大坂冬の陣に従軍。
1615年大坂夏の陣には間に合わなかった。
1626年の将軍家光の上洛に供奉した。
1626年11月臼杵で死去。
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1585年7月従五位下侍従に叙せられる。豊臣の
姓を与えられて「彦六侍従」と呼ばれた。
1587年父と共に九州平定戦に従軍したが、
秀吉の機嫌を損ねて逐電し、伊勢国朝熊
に蟄居する。朝鮮出兵の際、豊臣秀勝に
召しだされて朝鮮各地を転戦した。秀勝
が陣没した後は、石田三成の推挙で豊臣
秀次に仕え、六千石を領す。
1595年秀次自害ののち秀吉に仕え、尾張丹羽郡、
伊勢安芸郡の内で六千石。
1596年伏見城造営に参加。
1600年の関ヶ原の戦いでは、はじめ父貞通と
ともに西軍織田秀信に属して尾張犬山城
救援に出働したが、8月の岐阜城落城後、
父と共に徳川家康に降伏。
1600年12月父貞通の豊後国臼杵転封に同行。
1603年9月父の死後遺領を継ぐ。
1614年大坂冬の陣に従軍。
1615年大坂夏の陣には間に合わなかった。
1626年の将軍家光の上洛に供奉した。
1626年11月臼杵で死去。
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