『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:武田氏

2016-10-02 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【武田氏の歴史】

*新羅三郎義光の三男義清が、常陸国武田郡

 を名字の地とした。義清の子清光は甲斐国

 に配流され、子孫は同国に繁栄する。清光

 の次男信義は「武田太郎」を称し、甲斐源氏

 の惣領として治承・寿永の内乱期に活躍した。

*南北朝期になり、安芸守護の武田信武が

 足利尊氏に属し、本国甲斐に入国して守護

 となり、長男信成の系統が、以後同国守護

 を相承する。次男氏信の系統が安芸分郡

 守護職を務め、1440年一色氏討伐後若狭

 守護にも補任される。両国守護職は惣領家

 が保持しつづける。その後安芸の系統は

 大内氏に滅ぼされ、若狭の系統は朝倉氏に

 攻められ従った後、1573年信長の越前攻略

 により滅亡する。

*甲斐の系統は1416年の上杉禅秀の乱以降

 幕府と鎌倉幕府の対立の狭間におかれ、

 家督は国外への流浪を余儀なくされたが、

 1439年の永享の乱後幕府の支援によって

 復活する。信昌の時、関東の内乱に影響

 されて甲斐国内も内乱化し、守護代跡部氏

 を滅ぼして統一的権力を確立する。ただし、

 次いで嫡子信縄と対立し、今川氏・北条氏

 らの介入をうけ、国内は大きく分裂した。

 その後、信縄の子信虎が国内を統一し、

 戦国大名化を遂げる。

*信虎は1519年古府中に躑躅ケ崎館を築造

 し移り、領国支配の基礎とする。今川氏と

 婚姻関係を結び北条氏と和を計って信州

 進攻を開始するが、1541年嫡男晴信に

 よって駿河へ追放される。

*晴信(信玄)は信州の諸豪族を討滅あるいは

 追放し、大部分を計略。上杉謙信と信州・

 北関東で戦うなどし、1554年には今川氏と

 北条氏の婚姻関係を仲介し甲駿相三国同盟

 (善徳寺の会盟)をむすび、領国経営と関東・

 越後・越中の攻略を視野に入れる。ところが

 1560年桶狭間の戦いで今川義元が没すると

 徳川家康の策動もあり、嫡子義信を自害させた

 ことにより三国同盟が破綻。家康と組んで

 駿河進出をした後家康と戦い信長と対立する

 など迷走を続け、三方が原の戦いの中、容体

 が悪化し陣没する。

*子の勝頼は長篠の合戦で信長・家康連合軍に

 敗れた後、甲斐国を全面制圧され自刃する。


 ※源氏の新羅三郎義光の流れをくむ名族

  であり、安芸・若狭・甲斐をその手に

  おさめていたのに、変化する周辺情勢に

  手をこまねいている間に軍場の灰塵と

  化す。“諸行無常”でございます。


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