『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:畠山氏

2016-10-30 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【畠山氏の歴史】

*清和源氏足利一族。足利義兼の子義純が、

 秩父平氏流畠山重忠の旧領を与えられて

 「畠山」を称した。嫡流は室町幕府管領家

 で、歴代当主は尾張守となった。

*奥州畠山氏は、南北朝期足利尊氏に従い、

 奥州探題となり、陸奥国の賀美・黒川両郡

 の分郡守護を務めた。しかし、のち奥州吉良

 氏に攻められて衰退した。二本松を本拠と

 して戦国期まで存続したが、伊達政宗に

 滅ぼされた。

*美濃畠山氏は、一時日向守護に補任される

 が、島津氏と盟約を結んだ頃から衰退し、

 今川了俊に臣従したのちの事跡は不明。

*これらに対して嫡流家は、和泉・紀伊守護

 となり、鎌倉府の執事を務めた。一時没落

 したが、越前守護として復活し、明徳二年

 (1391)には侍所頭人と尾張守護となり、

 さらに山城・河内・越中・能登・佐渡の守護

 にも補任された。これらのうち、河内・紀伊・

 能登・越中の四カ国は、畠山氏の分国として

 戦国末期まで保持された。

*応永五年(1398)侍所家から管領家へと

 昇格し、将軍義持・義教の宿老として幕府内

 で重要な地位を占めた。

*文安五年(1448)以降、家督をめぐって

 畠山家の内訌が起こり、その後畠山家家督

 争い・山名氏と細川氏の対立・足利義視と

 義尚の家督争い・将軍義政と室日野富子の

 不和等が複雑に絡み合い、応仁の乱へと突入

 していく。明応期(1492~1501)以降は

 細川家の家督争いと連動しながら内訌が続き、

 その勢力は衰退していった。

*奥州畠山氏・美濃畠山氏以外の庶家に、満則

 に始まる能登畠山家がある。嫡流家及び能登

 畠山家は、子孫が江戸幕府の高家となった。


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