『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:37 下 織田信長黒印状 天正八年八月十三日<天正八年の出来事の解説>

2020-06-18 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


37 下 織田信長黒印状 天正八年八月十三日

**純野のつぶやき**

 天正七年の出来事の記事に続き天正八年

の出来事を記事にまとめます。

・正月一日 信長公、昨年冬からのお触れにより、

 安土への出仕免除

・一月 羽柴秀吉の別所攻め

・二月二十六日 信長公から「二条妙覚寺から本

 能寺へ御座を移す」との仰せがあり、普請を

 村井貞勝に命ずる

・三月 石清水八幡宮の御神体を下遷宮する

・三月 禁中から大坂(石山本願寺)へ「信長方

 と講和を結ぶよう」使者が送られる。勅使/

 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保、信長方目

 付/宮内卿法印・佐久間信盛

・三月十日 北条氏政の御使い衆が信長にお

 礼に参着。披露/佐久間信盛、氏政の使者/

 笠原康明、氏照の使者/間宮綱信・下使/原

 和泉守。関東衆から「信長との縁を深くして、

 関八州を信長の分国にしても構わない」と奏上。

 執奏/滝川一益・下使/牧庵、聞き手/二位

 法印・滝川一益・佐久間信盛。信長公、「滝川を

 案内者として京都見物し、安土に寄り候え」と

 勧める。

・閏三月十六日 信長、安土南方の土地を造成し、

 伴天連に屋敷の土地として下す。奉行/菅屋

 長頼・堀秀政・長谷川秀一

・四月九日 大坂の本願寺顕如光佐、子の教如

 光寿に門跡を渡し、雑賀の舟で大坂退出。教如

 光寿は約束に違背し、大坂に籠る。

・四月二十四日 信長公、伊庭山でお鷹野。
   ↓
 この時丹羽右近の手の者が、普請中の

 現場から信長の目の前に大石を落とし

 てしまい「不行き届きである」と年長者

 一人を手討ちにする

・四月 羽柴秀吉、但馬進出

・五月 信長、加賀の柴田勝家を心もとなく思い、

 木下祐久・魚住隼人の両使を送る
   ↓
 柴田が能登・加賀を平定した旨報告すると、

 信長は喜び二人に服・帷子を下す。勝家も

 二人に馬を下した

・五月二十六日 石清水八幡宮の御神体を上

 遷宮する

・五月~六月 安土で相撲興行

・六月 羽柴秀吉、因幡・伯耆の国境まで進出

・六月二十六日 土佐の長宗我部元親、惟住光

 秀を取次ぎとして、鷹十六連・砂糖三千斤を

 進上。信長はすぐに、馬廻りに砂糖を下す

・八月二日 四月九日から大坂に篭城してい

 た本願寺教如光寿、大坂から退出。勅使/

 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保及び下使

 /荒屋善左衛門、信長方使い/宮内卿法印・

 佐久間信盛、大坂城を受け取る検使/矢部

 家定。
   ↓
 大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片付

 けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる

・八月 石清水八幡宮修造完成

・八月 長岡藤孝・忠興・昌興父子三人は、丹後

 国に入封される。長岡藤孝が一色義定の籠も

 る弓木城を攻めたが、堅固な守りのために攻

 めきれず、義定は惟任光秀のあっせんで藤孝

 の女を娶り、藤孝と和睦

・八月十二日 信長、京都から宇治橋を通り大

 坂へ移動。ここで佐久間信盛・信栄父子に対

 して、十九条の折檻状を自筆でしたためる

・八月十七日 信長公、大坂から京都へ移動。
  ↓
 ここで、林秀貞、安藤(守就・尚就)父子、丹羽

 右近が国外退去を命じられる


**純野のコメント**

1)信長公は、今年の正月一日も安土への出仕を

免除しました。これからあと、在所に詰める替え番

の者に暇を与えたり、替え番を短期(1か月程度)

に抑えたりしますので、信長公も「家臣が連戦に

継ぐ連戦で、かなり疲弊してきている」と感じ始め

たようです。

2)二月に信長公は「二条妙覚寺から本能寺へ御

座を移す」と仰せ下し、普請を村井貞勝に命じて

います。「なぜ御座を移す先を本能寺にしたか?」

背景を研究する必要がありますが、ウィキペディ

アでは「本能寺は早くから種子島に布教していた。

このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名と

の関係が深かった。織田信長は日承に帰依して、

この寺を上洛中の宿所としていた」と記述されて

いますが・・

3)その本能寺に御座を移す奉行に選ばれた村

井貞勝ですが、尾張の頃から島田秀頼とコンビ

で信長公に使え、数々の作事を奉行し、京都所

司代を十年近く勤め、本能寺の変で主の後を追

い果てるという・・この人の物語が小説化・映像

化されていないのはおかしいと思います!

4)長年にわたって続けられた大坂方(本願寺)

との戦いも、三月に両陣営に禁裏からの勅使が

あったこともあり、四月にほとんどが退城。残っ

ていた本願寺教如光寿も八月二日に粛々と退

城しましたが、何らかの理由で出火があり焼け

落ちてしまったようです。

5)八月に石清水八幡宮修造が完成します。父

信秀の時代から、帝の御所・御座所や関連する

神社(熱田神宮・伊勢神宮など)の修復には惜

しみなく費用を振り当てています。

6)四月~六月ごろは、羽柴秀吉/但馬進出→

因幡・伯耆の国境まで進出、柴田勝家/能登・

加賀を平定、など家臣団は絶好調です。

7)ただ好ましくない傾向としては、

*四月二十四日に信長公が伊庭山でお鷹野を

 行ったとき、丹羽右近の手の者が、普請中の

 現場から信長の目の前に大石を落としてしま

 い「不行き届きである」と年長者一人を手討

 ちにしました。

*八月十二日に信長公は京都から宇治橋を通

 り大坂へ移動しますが、ここで佐久間信盛・

 信栄父子に対して、十九条の折檻状を自筆

 でしたためます。

*直後の八月十七日に信長公は大坂から京都

 へ移動しますが、ここで林秀貞、安藤(守就・

 尚就)父子、丹羽右近が国外退去を命じられ

 ます。

という風に「長年活躍してくれた人に対してな

んでそういう仕打ちかな?」と首をかしげたくな

ります。

8)三月十日に北条氏政の御使い衆が信長に

お礼に参着します。この時に関東衆から「信長

との縁を深くして、関八州を信長の分国にして

も構わない」との奏上がありました。信長公も

"上総介”を名乗った時期があることから"平氏”

を標榜していますし、北条氏も開祖伊勢盛時

(=北条早雲)は伊勢平家の出自ですし、平家

つながりで気安い部分があったのかもしれま

せん。間に挟まれた徳川家康は源氏を名乗っ

ていますので、はげしく爪を噛む様子が目に

浮かぶようです。

以上


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