『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:39織田信長黒印状 天正八年八月廿二日

2021-02-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


39織田信長黒印状 天正八年八月廿二日

 一昨日(二十日)の午後付けの(貴方から

の)注進が本日到着したので見させていただ

いた。そちらの(丹後の)国の(吉原山城の)

吉原西雲が出仕せず、野心を持って動いてい

たので悉く討ち果たしたとの由。もっとも然

るべき次第である。これからも、万事油断な

く調略することを専一にされるよう願う。

天正八年八月廿二日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 惟任日向守(光秀)殿

   ※天正八年=1580年


**純野のつぶやき**

天正八年(1580年)の前回の書状(八月

廿一日)の翌日の書状です。八月二十日に丹

後の国から送られた書状が、京都にいる信長

公のもとに二十二日にはついていますので、

信長公が形成した情報通信網はものすごいス

ピードで機能していたことになります!また、

「何月何日に送られた書面を何月何日に見た」

という記録を残す信長公が現代の電子メール

を見たら、「ふむふむ、なるほど!」と喜ん

だかもしれません!

 ただ細かい話ですが、天正四年四月三日の

大坂攻撃中の二人に信長公が送った書状の宛

名では惟任→長岡の順序でしたが、今回の書

状では長岡→惟任の順序になっています。こ

れは信長公か右筆が間違えたのか、あるいは

わざとこの順序であて名を書いたのか・・

以上

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