『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:15織田信長黒印状 天正三年五月廿日

2018-01-09 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


15織田信長黒印状 天正三年五月廿日

<本文>

 (先日の)折帋(=手紙)を見させていた

だいた。鉄炮(を放てる者や玉薬の強化の

こと)について申し付けを行われたのは祝着

(至極)である。

 こちらの(三河長篠)方面については、い

よいよ(当方の)存分に任せ(られ)る段取

りがついた。去る(五月)十七日に(三河)

牛久保という場所から(野田原に)軍勢を押

し出した。長篠(城)との距離三里(12㎞)

余りの場所である。(長篠城は)敵が(当方

からの攻撃に)備えるのも困難な場所のため、

十八日に(当方が軍勢を)押し詰めて(攻囲

する敵勢に)鉄炮を放てば(敵は)路を通っ

て帰還するのもままならず擒(とりこ)にな

り、それを機会に(こちらの)眼前でも(敵

を)根切にする。追って吉報を申し送ること

になるだろう。謹言。

 天正三年五月廿日 信長(黒印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

 ※天正三年=1575年


**純野のつぶやき**

 天正三年(1575年)の前回の書状(五月

十五日)から五日後の書状です。信長公の

居場所は、

五月十六日-牛久保に宿泊

五月十七日-野田原に野陣を張る

五月十八日-極楽寺山へ移動

五月二十日-高松山へ移動

となっており、五月二十一日馬防柵から一歩

も出ないまま敵軍を壊滅させることになりま

す。ということで、手紙本文には「五月十八

日に鉄炮を放つ!」と書いてありますが、よ

くよく読むと家康方酒井忠次の別動隊が予定

通り(十八日)には長篠城に後詰として入り

攻囲した敵勢を容易に蹴散らせず二十日に

なってしまったので信長公が構えていた方面

での馬防柵を用いた最終決戦が二十一日に

ずれ込んだ可能性もあります。史実にはあり

ませんが、おそらく戦後徳川家康は兄と慕う

信長公から烈火の如く怒られたことでしょう!

                                                        
                  以上


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