【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
15織田信長黒印状 天正三年五月廿日
<本文>
(先日の)折帋(=手紙)を見させていた
だいた。鉄炮(を放てる者や玉薬の強化の
こと)について申し付けを行われたのは祝着
(至極)である。
こちらの(三河長篠)方面については、い
よいよ(当方の)存分に任せ(られ)る段取
りがついた。去る(五月)十七日に(三河)
牛久保という場所から(野田原に)軍勢を押
し出した。長篠(城)との距離三里(12㎞)
余りの場所である。(長篠城は)敵が(当方
からの攻撃に)備えるのも困難な場所のため、
十八日に(当方が軍勢を)押し詰めて(攻囲
する敵勢に)鉄炮を放てば(敵は)路を通っ
て帰還するのもままならず擒(とりこ)にな
り、それを機会に(こちらの)眼前でも(敵
を)根切にする。追って吉報を申し送ること
になるだろう。謹言。
天正三年五月廿日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月
十五日)から五日後の書状です。信長公の
居場所は、
五月十六日-牛久保に宿泊
五月十七日-野田原に野陣を張る
五月十八日-極楽寺山へ移動
五月二十日-高松山へ移動
となっており、五月二十一日馬防柵から一歩
も出ないまま敵軍を壊滅させることになりま
す。ということで、手紙本文には「五月十八
日に鉄炮を放つ!」と書いてありますが、よ
くよく読むと家康方酒井忠次の別動隊が予定
通り(十八日)には長篠城に後詰として入り
攻囲した敵勢を容易に蹴散らせず二十日に
なってしまったので信長公が構えていた方面
での馬防柵を用いた最終決戦が二十一日に
ずれ込んだ可能性もあります。史実にはあり
ませんが、おそらく戦後徳川家康は兄と慕う
信長公から烈火の如く怒られたことでしょう!
以上
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細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
15織田信長黒印状 天正三年五月廿日
<本文>
(先日の)折帋(=手紙)を見させていた
だいた。鉄炮(を放てる者や玉薬の強化の
こと)について申し付けを行われたのは祝着
(至極)である。
こちらの(三河長篠)方面については、い
よいよ(当方の)存分に任せ(られ)る段取
りがついた。去る(五月)十七日に(三河)
牛久保という場所から(野田原に)軍勢を押
し出した。長篠(城)との距離三里(12㎞)
余りの場所である。(長篠城は)敵が(当方
からの攻撃に)備えるのも困難な場所のため、
十八日に(当方が軍勢を)押し詰めて(攻囲
する敵勢に)鉄炮を放てば(敵は)路を通っ
て帰還するのもままならず擒(とりこ)にな
り、それを機会に(こちらの)眼前でも(敵
を)根切にする。追って吉報を申し送ること
になるだろう。謹言。
天正三年五月廿日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月
十五日)から五日後の書状です。信長公の
居場所は、
五月十六日-牛久保に宿泊
五月十七日-野田原に野陣を張る
五月十八日-極楽寺山へ移動
五月二十日-高松山へ移動
となっており、五月二十一日馬防柵から一歩
も出ないまま敵軍を壊滅させることになりま
す。ということで、手紙本文には「五月十八
日に鉄炮を放つ!」と書いてありますが、よ
くよく読むと家康方酒井忠次の別動隊が予定
通り(十八日)には長篠城に後詰として入り
攻囲した敵勢を容易に蹴散らせず二十日に
なってしまったので信長公が構えていた方面
での馬防柵を用いた最終決戦が二十一日に
ずれ込んだ可能性もあります。史実にはあり
ませんが、おそらく戦後徳川家康は兄と慕う
信長公から烈火の如く怒られたことでしょう!
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